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自由と平等の再考:社会的リバタリアニズムから関係的自由主義へ
自由を再定義する
私は、これまで社会的リバタリアニズムが自分の主義主張に最も近いと考えていました。個人の自由を最優先にし、政府の干渉を最小限に抑えることで、各人が自己責任で人生を切り開くべきだという考え方に強く惹かれていました。特に、政府に対する不信感が強かった私は、政府に依存すること自体に強い忌避感を持っていたため、リバタリアニズムに自然と共鳴していたのです。
しかし、様々なことを自分なりに学び、哲学的に物事をゼロベースで考え直す機会が増える中で、私の考えは次第に変わり始めました。自由とは単に他者からの干渉を避けることだけでなく、他者との関係性の中でどのように実現されるのかも重要であると気づいたのです。こうして、私の主義主張は「関係的自由主義」に近いものへとシフトしていきました。
関係的自由主義の可能性
関係的自由主義は、個人が自由に生きるためには、社会全体がその自由をサポートする必要があるという考えに基づいています。これは、単に政府の干渉を排除するだけでなく、個人が自分の人生を豊かに生きるために必要な条件を整えるという視点を持っています。特にアマルティア・センやエリザベス・アンダーソンの「ケイパビリティ・アプローチ」が、この考えを具体化していると言えるでしょう。彼らは、個人が持つ「能力」や「可能性」を重視し、それを最大限に引き出すことが社会の責任だとしています。
もちろん、ケイパビリティを測定することは簡単ではありません。定量化しづらい部分が多いのは事実です。しかし、人間の複雑な存在をすべて定量化すること自体が雑だとも感じます。社会が提供すべきなのは、すべてを数値化することではなく、個々の人々が自分の潜在能力を最大限に発揮できるような環境を整えることです。そのため、定量的な評価と定性的な洞察の両方を活用することが重要だと考えています。
平等への関心とリバタリアニズムの限界
私が関係的自由主義に惹かれた大きな理由は、自由だけでなく平等にも強い関心があるからです。リバタリアニズムは強者の論理です。私自身、今の時点では(かなり軽微ですが)強者側に立つことで多少の利益を享受できています。とはいえ、これは私の能力や努力というよりも、時代や環境が私に有利に働いているという偶然の産物に過ぎません。私が生まれた時代、与えられた条件が整っていたからこそ、今の自分があるのです。
私の成功は、特にパソコンやインターネット、そして最近ではAIの進化といったテクノロジーの恩恵を受けた結果です。これらの環境がなければ、私は今のような生活を送ることはできなかったでしょう。つまり、私たちは既に社会から大きな贈り物を受け取っているのです。それゆえ、自分だけが利益を享受するのではなく、他者にもその基盤を提供することが求められると感じています。
例えば、私は身体的には弱者として位置づけられそうです。体力に多少の自信はあるものの、あまり力はありません。定期的に左右両方の手が腱鞘炎になるため、機能しなくなります。しかし、パソコンによる労働であれば、力を使う機会があまりないので力がなくてもそれほど問題がなく、仮に腱鞘炎になってもある程度キーボードは叩けます。おまけに、最近では音声認識の技術が発達したので、わざわざ自分でキーを叩かなくても文章を入力できます。
もっと言えば、AIを使えばわざわざ自分で考えたり、考えをまとめたりする必要すらありません。重要なのは、好奇心だけということになります。AIによって全てが解決する訳ではありませんが、私の能力の前提はテクノロジーにあり、テクノロジーをうまく活用することで、今の私の立場があります。このテクノロジーは最近20,30年くらいで発達したものなので、50年前や100年前に生まれていたら、私はまったく活躍できなかった可能性があります。もちろん、その想定自体を考えるのは空想に過ぎないので、別の活躍もあり得たかもしれませんし、あるいはもっと活躍できていた可能性もあります。しかし、どの状況下においても自分の活躍というのは何かしらの土台の上に成り立っています。
セーフティーネットと挑戦の自由
リバタリアニズムの問題点は、挑戦の自由を与える一方で、その挑戦が失敗したときの救済がないことです。もし挑戦が失敗すれば、その人は社会的に淘汰されるしかありません。これは、持続可能な社会を築く上で大きな問題です。社会がセーフティーネットを提供し、失敗しても再挑戦できる環境が整っているからこそ、人々は安心して挑戦できるのです。
運否天賦にすべてを委ねる世の中では、挑戦そのものが恐怖と隣り合わせになり、多くの人がリスクを取ることを避けるようになるでしょう。それでは社会全体の活力も低下し、長期的な成長も見込めなくなります。だからこそ、社会はすべての人に最低限の生活基盤を提供する義務があります。私は既にその恩恵を受けているのですから、他者にも同じ基盤を提供すべきだという考えに至りました。
人が持続的に能力を発揮できるのは、安心した状態においてです。一時のバブルに乗るか反るかのような賭け事をやっていたら、いずれ破産してしまいます。なお、バブルに乗った時にどのタイミングで降りるかということも非常に難しい問題です。今降りたら、もっと上がって損をしてしまうかもしれません。機会損失を恐れるあまり、身動きが取れなくなってしまいます。
株式投資がいい例です。大抵は、人間が持つバイアス自体が破滅へ導きます。得をしている時に感じる価値と損をしている時に感じる価値が不整合だからです。人間の直感に従うと、賭け事には勝てないようにできています。なお、仮に人間の直感を克服したとしても、基本的には賭け事はどこかで躓きます。
格差と平等:十分主義の視点
ここで一つ誤解してほしくないのは、私は格差そのものを否定しているわけではないという点です。私は十分主義的な観点から、社会が提供すべきは必要十分な基盤であり、それ以上の利益を享受するのは、個人の自由であると考えています。つまり、必要十分の条件が整えば、それ以上は個々の努力や運によって差がつくことを許容すべきだという立場です。そうでなければ、モチベーションが湧きず、イノベーションも起こりません。
私が考え方を変えたように、もしかしたらリバタリアニズムの支持者の中にも、政府が信用できないために、仕方なくその立場を取っている人も多いのではないかと思います。政府に頼ることができないと感じるからこそ、干渉されない自由を求めるという立場に追い込まれているのではないでしょうか。私も以前はそうでした。しかし、哲学的にゼロベースで物事を考えることで、理想の自由と平等を再考することができました。
関係的自由主義の未来
私が今感じているのは、関係的自由主義が私の理想に最も近いということです。個人の自由を守るだけでなく、すべての人に自由を享受するための土台を提供するという考え方は、現代社会において特に重要です。ロールズを基にしたセンやアンダーソンのケイパビリティ・アプローチは、この理想に向けた有力な手法です。今後もさらに学びを深め、私自身の理解を広げていきたいと思います。
ただし、私の思想はアンダーソンに近いと考えているのですが大きな問題が一つあります。彼女の著作は、まだ日本語訳されていないのです。。私は日本語しか読めないので、かなり大きな障壁になっています。では、どうやってこの文章を書いたのかと言えば、下記論文を元にアンダーソンの思想を類推しました。そのため、私のアンダーソンの理解は本筋とずれている可能性があるのでご了承ください。あくまで、私がここに記した範囲と下記論文の範囲が私の理解の及ぶところです。
アンダーソンの民主主義的平等論──「関係性」概念の射程──
いきなり英語かつ倫理の書籍を読むのは難しいため、一旦は、アンダーソンが考える土台となったセンの著作を当たりつつ、平等倫理の論文をかき集めて日本語訳した書籍が1冊刊行されているので、そちらでアンダーソンの思想の一部を確認しようと思います。流石に0から英語を勉強して倫理の本を読むよりは、自分なりに考えた方が時間を有効活用できると思うので、そうやって試行錯誤している間にアンダーソンの本が要約されることを期待します。
でも、真面目に哲学やら学問をやるなら英語を読むことくらいは出来るようにならないと駄目なんだろうな・・とも思います。とはいえ、いきなりは難しいので前述のように、まずは、出来る範囲のことをやっていきます。
結論:社会の再構築と新たな自由の形
結論として、私たちの自由は社会的な基盤の上に成り立っていることを理解することが重要です。自由は他者からの干渉を避けるだけでなく、他者との関係性の中で実現されるものであり、最低限の基盤が保障されることで真の自由が実現します。
関係的自由主義は、個人の自由と平等を相互に補完し合うものとして捉え、社会全体の成長を促す力を持っています。測定が難しいケイパビリティの問題も、定性的な柔軟さを取り入れることで克服できます。最終的には、個人の利益と社会的責任を両立させ、より持続可能で自由な未来を築いていくことが求められます。
私はこのような主義をもとに改めて生活していきたいと思います。