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自分の人生を生きてこなかった自分に気づいてから、魂の成長を求めてきた話

亀田直人です。
自己成長と自己実現をサポートするコーチをしています。

なんそれ?という感じですよね。わかります。

だけどありませんか。

お金は大事だし、無視するつもりはないけれど、やっぱり自分の魂が震えるようなことをしていきたい。
なんだか言葉にはならないけれど、仕事での成長はもちろん、人間として成長していきたい。
それがどういうことなのかは、言語化できないけれども…

っていうこと。

僕自身が、やっぱりあるんですよね。

普段、仕事もしていて、こうしてコーチとして活動もしていて、経済的な豊かさを求めていないなんて絶対に言えません。
ええ、求めています。

求めている一方で、自分の魂を磨き、成長していきたい。

誰かに言われたこととか、やらなきゃいけないこととか、色んな事情はあるけれど、そういうところじゃなくて、自分の魂の要求としてやらざるをえないんだってことをやっていきたい。
それでこそ、生きていると言えるんじゃないかと。

自分自身がそうありたいからこそ、自身の課題に日々向き合っているし、そういう人との成長に関わって行きたいと思うわけです。

なので、ちょっとでもそういった思いに共感してもらえる人に向けて、どうやってそんな成長を遂げていくのかっていう話をしてみたいと思う。

大前提として、こういう話は正解があるものではないんですよね。

だから、安易にアドバイスとか求めてしまうと、今度はそれが自分ではない誰かの言葉に生きることを強要してしまう。

コーチングはあくまでも「自分の中に答えがある」ことを信じる学問。

そのスタンスは、いくら曖昧だ、わかりにくい、ベネフィットを感じないとなってもぶれない部分でもある。

思えば、僕自身が「答え」に執着してきた人生をやってきたんですよね。

今だって、その途上と言ってもいい。

一番に思い出すのは高校受験なんですけど、地元でそれなりの進学校に入学したし、まわりからも凄いと言われました。

とはいえ、当時の学力的には、実は自分では到底及ばないレベルの学校だったんです。

ではなぜ入ることができたか。

それには理由が2つあります。

1つは、「推薦」という学校生活の総合的な取り組みがモノをいう試験だったから。

そしてもう一つは、受験したのが”僕ではない”からです。

どういうこと?替え玉か?と思いますよね。

順番に話します。

まず、推薦入試というは、たぶん今でも制度そのものは残っていますよね。

僕が望外の学校に入れたのは、中学時代に生徒会役員として2年間活動し、先生方からの評価もいただけていたからに他なりません。

まあ、いわゆるいい子ちゃんという奴です。

学年の目立つところにいて、学力はそれなりによく、たぶんですが、いわゆる模範的な生徒をやってました。

この時点で、自分の人生生きてたのか?っていうのはかなり疑わしいのですが、当時はそうすることが自分の中では正義だったんです。

いやー、たぶん、僕のこと嫌いな人もいたんでしょうねwww

とにかく、この3年間の定性的な評価の高さは学年でも屈指だったため、推薦に足る人物として学校に評価してもらえました。

とはいえ、当時の自分なりに頑張りましたから、これはある意味で自分の実力といえば実力です。

さて、問題は、であるにも関わらず、”自分で受けていない”と僕が今でも捉えているのはなぜか。

もちろん、替え玉とか、そういう法律的にやぱいことをやったわけでもないし、コネでもないです。

推薦に関連する試験は自分の手を動かして書きました。それは事実です。

ですが、推薦試験のなかに、なぜこの学校を志望しどうなっていきたいのか的な作文があったんです。

これが問題で、もちろん、自分で書いていたのですが、たいそうポンコツな内容だったんですこれが。

それを見かねた父が、構成から言い回しから、実質全部書いちゃったんですよね。

もちろん、当時自分が思っていたことを文章にしているので、内容に嘘はなかったんです。

ですが、当時の僕にはこう刷り込まれた。

「これを書いたのは自分じゃない」

と。

それからですかね。自分で自分の答えを作るのが怖くなったのは。

どこか外に答えがあるし、誰かが作ってくれる。

今にして思えば、そんな気持ちがどこかにあったなとコーチングを学んで振り返ったときに強烈にこのエピソードがフラッシュバックしてきたんですよね。

だからいざというときに、自分から逃げてきたんじゃないかと思えてならなかった。

ある種、強烈なコンプレックスとして僕を縛ったのは言うまでもありません。

自分の考えや言葉なんて不正解で、別の誰かの答えこそ正解だ。

そんな思い込みが支配していたなと。

さて、果たしてこの思い込みの中で生きていた僕の人生は僕のものだったか。

たぶん、だれも責任をとってくれないという意味では僕の人生です。

ただ、外に正解を求め、成長を放棄してきた自分の人生を、このまま続けていくことには疑問を抱かざるを得なかったのです。

もちろん、その意見に耳を傾けることは大事なことです。

例えば仕事なんかでは、わからないことは聴いたほうがいい場面は多いですし、自分の決めつけで動くわけにも行きません。

ただ、自分の人生の決断を、他人に委ねるのはどうなんでしょうか。

こうすべきだ、ああすべきだ。こうしないのは情弱だなんだ。

SNSには、こうして自分自身の人生をコントロールしようとするポジショントークに溢れています。

正解なんでしょう。きっと。その人にとっては。

だけど、僕やあなたにとって、それが本当に正解かは、実際わからないのです。

結局、その人だからできたってことがほとんどじゃないでしょうか。

そもそも、自分の中で納得できていないアドバイスは、実行しようにもどっかで止まりませんか。
僕は止まってしまうのです。

結局、そこには魂の成長も、自己の実現もあったものじゃない。

誰かが自分の人生を決めて、誰かが敷いたレールを走っているに過ぎない。

仮にそれで経済的な豊かさを手に入れたとして、それでもいいという考えもあるに違いありません。

けれども、そんな自分の奥底からの反発があるのなら、やっぱり自分で答えを見出していく決意が必要で。

それがあって初めて、のっかるアドバイスを活かすこともできるんじゃないかなと。

そして、自分で決意したことでかりに何らかの失敗を観たとしても、そこにはきっと成長した自分がいるはずです。

その繰り返しの先に、自己の実現が出来た、と天寿をまっとうした自分がいるんじゃないかなと。

僕にはそう思えてなりません。

もし、自分もそう思う、と感じてくれる人がいたら嬉しいし、もしコーチングを通してサポートできるとしたら全身全霊をかけて関わらせてもらいたいと、そう強く思っています。


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