謝辞と返答


謝辞

まず、『新・平沢進は無害か』(以下、便宜上「本記事」とする。)に目を通していただいたすべての方に感謝申し上げます。拙著を通して「平沢進」に関する様々な意見が沸きあがっていることは筆者として喜ばしい限りです。また、本記事を紹介してくださったHokusai様・みんなの陰謀論様・正刀様、サポートしてくださったhzmn様にはお礼の申し上げようもございません。

平沢進の歌詞や主張には、明確ではないにしろ、一定のヒントが含まれています。つまり、私たちは、平沢氏が提示したヒントを目印に、平沢氏と一緒に考察していくことが可能なのです。「平沢進」を考察するということは、私たちリスナーに課せられた課題と言ってもいいでしょう。

本記事では、平沢氏の陰謀論的思考から「平沢進は陰謀論者か。」という点を考察しました。本記事での結論は「平沢進は陰謀論者であり、無害とは言えない」というものです。
しかし、私自身は今でも「陰謀論がなぜ悪いのか」という問いについて完全な答えを見つけられていません。本記事では、民主主義の崩壊や公衆衛生を害するといった点を挙げましたが、それに平沢氏個人が陰謀論を流布することで影響がでるかは疑問が残ります。
ただ、本記事執筆後に参考となる文献を見つけたのでここで紹介したいと思います。

”価値観が多様化し細分化した社会のなかで「陰謀論」が問題視されるのは、「陰謀論」が時に暴力を誘発するからではないだろうか。”

橋迫瑞穂,『「石化する快楽」としての「陰謀論」』, pp. 86, 現代思想49巻6号, (2021, 青土社)

やはり、陰謀論が問題になるのはその思想が外部的行為を伴った時ではないでしょうか。平沢氏の場合、似非科学方面がその例でしょう。平沢氏の健康被害が出かねない発言に関しては、その姿勢を改めるべきではないでしょうか。

さらには、私自身が陰謀論者ではないと言い切ることはできません。陰謀は実際に世界に存在してる、という点が陰謀論の難しさでもあります。だたし、陰謀論が実際に存在していたと認められた時、陰謀の主張は社会的に承認され、「陰謀論」は消滅します。だからこそ、平沢氏は「こういう陰謀が世界を蹂躙している」と主張するとき、「根拠は自分で調べろ」と突っぱねるのではなく、一定の合理性に基づいた根拠を提示するべきなのです。

返答

Hokusai様の以下の記事では、私の記事に対する詳細な考察がなされており、筆者冥利に尽きます。

Hokusai様の他の執筆記事も拝読いたしましたところ、平沢進楽曲が丁寧に解釈されており、非常に感銘を受けました。『平沢進『LEAK』の新解釈~二項対立からの脱却?~』では『LEAK』を「二項対立からの脱却」と解釈し、デリダの脱構築的概念を結びられており、大変に興味深かったです。平沢氏は「幽霊」、「モンスター」といったデリダ的概念を用いており、平沢氏はポストモダニズムと接触している可能性は十分にあると思います。平沢氏の歌詞が持つ難解さも、ポストモダン的な難解さと結びつくかもしれないです。

さて、この記事では、私にいくつかの問いかけがなされていたと思われるので(私の思い違いであったら申し訳ないが)、対話を試みたいと思います。

「元よりアーティストは有害である」という点につき

”それは「アーティスト・表現者は、そもそも有害である」という前提です。”(太字ママ)

Hokusai, 2024,「平沢進の世界観-あるNoteへの応答」. note,
https://note.com/hokusai_0819/n/n83edfb99ad4a?from=notice#50897ea8-997e-4045-bb70-eccfe6cce7e7(参照:2024-06-28)

その通りだと思います。
そもそも音楽というものはイデオロギーと常に結びついてきました。

”「音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。”

岡田暁生「音楽の聴き方:聴く型と趣味を語る言葉」pp. ⅺ (2009, 中公新書)

音楽のイデオロギーは、もちろん作者の思想から生まれます。歴史を遡れば、19世紀のクラシック音楽には、市民社会のイデオロギーが反映されていましたし、平沢氏が影響を受けたドビュッシーも脱ドイツ・フランス保守派といったイデオロギーと強く結びついていました。

「思想なき音楽」が生まれたのはつい最近のことです。特に一般的なJ-POPにはその傾向が強いでしょう(一般的なJ-POPが悪いわけではありません)。

”現在の日本社会では、好む好まざるにかかわらず、「J-POPは自己主張することなく、無色無透明で無味無臭であるがゆえに、政治とは乖離する必要がある」といった認識が主流になってきている。”

宮入恭平『J-POP文化論』pp. 149  (2015, 彩流社)

アーティストは、自身が持つイデオロギーを作品へと昇華します。基本的に「思想なき音楽」は存在せず、「思想垂れ流し」の音楽の方が多いのです。そして、その表現が「作品」の一部として受け入れられるため、その作品に込められた思想に対する根拠は要求されません。Hokusai様の記事にもアーティストは、”「言葉にし尽くすことのできない何か」や「言葉では言い表せないと分かりきっている何か」について取り組んでい”るため、”それゆえ「相応の根拠」は必要以上に追及されず、芸術としての文脈を抑えていれば、根拠はかなり個人的なものであっても構わない”とあります。平沢氏の音楽がイデオロギー装置として働くことで、時に私たちに大きな影響をもたらすということについて有害なのかもしれません。

「9・11以前の平沢」の点につき

*追記(2024-06-29 19:43):コメントにてご指摘の通り、平沢氏は80年代から陰謀論に急接近していた模様です。訂正してお詫び申し上げます。

言い訳にはなりますが、文字数の関係上、本記事では「9・11以前の平沢」を軽めにしか触れませんでした。

”平沢の陰謀論的世界観の構築(またそれに影響しうる作品・人物からの影響)は、9・11以前よりかなり分厚い蓄積があったことを見逃してはならないように思えます。”

Hokusai, 2024,「平沢進の世界観-あるNoteへの応答」. note,
https://note.com/hokusai_0819/n/n83edfb99ad4a?from=notice#50897ea8-997e-4045-bb70-eccfe6cce7e7(参照:2024-06-28)

Hokusai様の記事ではこのようにあります。ご指摘の通り、平沢氏の陰謀論的世界観は9・11以前より見えはじめていました。すでに、P-MODELの初のフルアルバム『IN A MODEL ROOM』(1979)で、『1984』がコンセプトに敷かれていましたし、同アルバム収録の「MOMO色トリック」は明るいものの裏にある闇といった歌詞になっています。1970年代から平沢氏には「世界にかけられたヴェールを1枚剥がす」といった思考癖が身についていたのでしょう。

しかし「本記事」でも指摘した通り、「9・11以前の平沢氏はスピリチュアルに留まるのみであって、まだ陰謀論には傾いていない」というのが私の結論です。1970年代は冷戦下での米ソ間の緊張が続く中、デタントが進んだ時代です。また、ベトナム戦争が続き、1975年には北ベトナムがサイゴンを陥落させて戦争が終結しました。この時代のアメリカでは、1972年のウォーターゲート事件による政治スキャンダルが発覚し、ニクソン大統領が1974年に辞任するという出来事もありました。これに伴い、安全保障の観点や社会の秩序維持を目的として監視・管理する動きも広がった、このような時代でした。同時代の背景から見ても『1984』のようなディストピアを思い描くことは無理もないでしょう。この時点での平沢氏の思想は社会の暗部や制約に対する反抗といったものでしょう。そして、90年代はオカルトブーム・スピリチュアルブームを経て陰謀論に急接近し、9・11でそれが具体的に「悪意のある巨大な組織が存在する」という陰謀論へと表出したというのが、私の考察です。

平沢氏の「差別化」という点につき

”平沢の陰謀論はあまりに典型的・主流です。……平沢が陰謀論に染まっているとすれば、あまりに「差別化」がお粗末で陳腐です。”

Hokusai, 2024,「平沢進の世界観-あるNoteへの応答」. note,
https://note.com/hokusai_0819/n/n83edfb99ad4a?from=notice#50897ea8-997e-4045-bb70-eccfe6cce7e7(参照:2024-06-28)

平沢氏が主張する陰謀論には典型的なものが多いことは本記事を通じて確認してきました(平沢氏がある日マイナーな陰謀論を唱えはじめたら、それはそれで困るのですが…)。

ただ、そもそも「陰謀論」とされるものは様々ありますが、個々の構成要素はその多くが共通したものです。陰謀論は異常な社会現象の原因を、悪意のある力に求め、世界を善と悪の二元論的闘争と解釈します。

平沢氏が主張する陰謀論はメジャーなものが多いですが、陰謀論に嵌った時点で、陰謀論という枠組みの中で差別化は不可能なのです。

アーティストとファンの関係につき

最近は「推しの言うことは絶対」というフレーズが流行ったりと、「推し」は神聖化され絶対的な存在とされています。アーティストとファンとの関わり方は両者から見ても非常に難しいです。Hokusai様の記事にあるように、アーティスト側がそのスタイルを変えることは困難でしょう。ならば、私たちリスナーが関わり方を改めるしかないのです。最近の平沢進を崇める風潮を見ていると、平沢進を「宗教みたい」や「教祖みたい」と冗談交じりには言えなくなってしまったと私は思います。無論、アーティストに熱中することは素晴らしいことです。しかし、熱中するあまりに倫理観や価値判断まで奪われてしまっては、そのアーティストに依存してしか物事の善悪を判断できません。私たちリスナーには、適切な判断ができるようにアーティストとある程度距離を取り、アーティストが問題行動をおこなったら「No!」と言えるような姿勢が望まれるのではないでしょうか。

また、本稿では取り上げませんでしたが、近年の平沢氏は自身に否定的な意見に対して明確な拒絶を示しています。

”あなたの認知的不協和があなたの感情を刺激し、私への不快感と憎悪を勃発させるならば、その試練を乗り越えてさえ、世の中で何が起こっているのかを知りたいと思わない限り、もう私から得るものは何もありません。何一つあなたを愉快にすることはなく、ただ不愉快と憎悪を助長させ、あなた自身を傷つけるだけです。ここで、直ちに私の前から立ち去る事をお勧め致します。”

Hirasawasusumu, 2021-06-20. YouTube, 平沢進のBack Space Pass『24曼荼羅編』,
https://www.youtube.com/watch?v=XqOiMQU_VWg(参照:2024-06-28)

過去には「RIDE THE BLUE LIMBO」において「誰一人落とすな」と歌い、BSP『kai=kai part1』で「来るものは拒まず、そして帰れなくする」と発言した平沢氏が明らかにその姿勢を変えたことがわかるでしょう。

”もうダメなのはダメだ。 「誰一人落とすな」を何かの美談のようにとらえる前にGIPNOZAの「置き去り宣言」に出くわして欲しい。”

Susumu Hirasawa(@hirasawa). X, 2021-05-28 21:12,
https://x.com/hirasawa/status/1398250811998707712(参照:2024-06-28)

最後に

改めて、『新・平沢進は無害か』をお読みいただいたすべての皆さんにお礼申し上げます。平沢進は素晴らしい音楽家です。しかし、平沢進も人間ですから、音楽以外では誤った道を行くこともあるでしょう。私たちもその道に追従することも良いですが、やはり彼を批判的に見ることも重要です。私たちは、平沢進から「自分自身でしっかり考えること」をさんざん教わったはずです。

馬骨の皆さん、そして平沢進のリスナーの皆さんが、平沢進の曲をただ受容する段階を超えて、決して無視できないこれらの問題を平沢進と共に考える段階に踏み出すことを私は願います。 

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