らせん階段を登る
12月に入ったら毎日日記つけるぞ = 弊社(社じゃ無いけど便宜上)のアドベントカレンダーを書いてやると息巻いていたんですが、まだ今年の3月納期の仕事をやってたりしてて気づいたらもう8日でした。あーあ。
やるぞ!と思ったことができない、続かない、守れない、と本当に精神ダメージがでかい。なのでコミットするものをいかにうまく減らすか?というのが大事だと思うんだが、思うだけで何もできてはいない。
とりあえずその場凌ぎをするだけで1年、2年と経ってしまう。それは喜ぶべきことなんであろう。ただ、後ろを振り返ったり、周りを見回したりして「その場を凌いだだけで、なんと積み上がっていないことだろうか」と感じてしまう。
結局、コミットするものをうまく減らすどころか、極端に、つまるところ、ゼロに、すなわち、無くしてしまいそうで怖い。守るモノも積み上がっているモノも無いと「感じている」限りはこういう怖さは永遠に続いてしまうのであろうか。
感じている、と書いたのは、、、うまく表現できないのだが、らせん階段を登るたびに考えることがある。自分がやっていることはこれに近い。窓の無いらせん階段において、足下だけをみて延々と登り続ける、同じことを繰り返す。体がつらい、重い、息も切れてくる。でもやることは延々と同じことだ。本人としては「無限にこのツライ思いを繰り返さねばならないのか。終わりがみえない」という気持ちだが、きっとらせん階段の外から他人の目でみれば「高みに登っている」と評価できる。ということで、私の感じと他人からみた評価というのは違っているのだろうと感じている。本人も屋上に到達できたり、窓から外をのぞくことができれば、その見晴らしから高さを実感できるのであろうが、、、。
今年は過大な評価もいただいたりしたので、それについてはまた今度。
らせんといえば『上弦の月を食べる獅子』 夢枕獏先生のあの本は大好きだ。
元絵はこれらしい。