
文章を書く……速きゃいいってんじゃないのかも。
手書きの良さってのを常に意識する。
以前に、次のようなつぶやきを書いた。
おそらく自分の場合は、キーボード入力 > 手書き > フリック入力 という順の速度になるんじゃないかと思う。
キーボードが思考スピードにほぼ合っていて、書く文章量は圧倒的にキーボ度入力によるものが多い。
ただ、手書きからは離れられない。だから、 iPhone には、マグネットで取り付けられる MOFT の「インスピレーションスタンド&ノート スマホスタンド 手帳 ミニサイズ 」を取り付け、いつでも手書きができるようにしている。
アプリ起動 → フリック入力 よりも、裏を開いてペンを使えるようにして手書きするってことが多い。
速さだけの問題じゃなくて、手書きってのがなぜかいいって感じることがあるからだ。
で、先のつぶやきを振り返ったとき、最後の一文が気になった。
書くことは食事をすることと同じかも
食事をすることの根本的な目的は、栄養を接種すること、腹を満たすことだ。でも、それだけのためなら、巷で流行っているらしい完全栄養食のパウダーを水で溶かして飲めばいいだけだ。最も早く目的を達成することができる。
しかし、ゆっくり味わいながら食事をすることで得られることは山のようにある。だから、早く栄養摂取すれば、それが最高なんて全く思わない。(昨日見たTV番組で、一日3食、件のパウダーを水に溶かして飲んでいる男性が登場した。タイパがいいとか言っていたが、自分は死んでもやりたくない。)
書くという行為にも、そういったことが通じるのではないか? と思う。キーボード入力の方が、文章を早く完成させることはできるのかもしれない。が、手書きでたらたらと書いていくことで、考えたり、味わったりすることをしているのかもしれない。
途中まで書いて、抹消のための線をさっと引く。もったいないことをしたなどと思いながらも「そのあやまりによくぞ気づいた!」なんて自分にいってやることもあったりする。
キーボード入力よりも手書きの方がより深く考えているのかもしれない。
タイパとかにこだわっている若者にはわからないかもしれないが、実は時間がかかることや、時間をかけることには、明白には現れない利点があるのだろうと感じている。そういう感じ方ができるようになったのは、退職して時間的な余裕ができたからなのかもしれない。
机上では、いつもメモできるように小さなノートを置いている。
自分が仕事をする机の上には、常設の iMac の他に、iPad 、 iPhone を置いている。そして、 iMac のキーボードのすぐ近くに、「紳士なノート」も開いたままにして置いている。(紳士なノートは、銀座の ancora さんに行ったときのお土産で購入した)

なにか思いついたとき、どういう手段で記録するか? という選択肢が3つある。iMac でのキーボード入力、iPhone でのフリック入力、紳士なノートへの手書き。実際にやっている割合としては、おそらく
キーボード:手書き:フリック = 5:4:1
くらいになっているのじゃないかと思う。
で、そのときの感情なのだけれど、次のような感じになっている。
キーボード入力 …… 特に何も感じない。ふつーうっ。
手書き……文字はきったないけど、なんか満足!
フリック入力……めんどくさっ。気分悪っ。
そう感じる理由ってのを具体的に説明できないが、そういう気分になる。自分だけかもしれなけど。
手書きは、食事を味わうのに近いところがあるのかもしれない。考えながら手書きしそのことを味わっているという感じ。
じゃ、もっと時間がかかるフリックはどうかというと、手書きとは大きく違う。文字入力をのやり方の不自然さに気を取られてしまい、集中ができないってことがあるように思える。……時間をかけているというよりも時間を奪われてしまっているという感じ。
手書きはなくならないんじゃないの?
自分が教職についたころ、1980年代。まだ日本ではPC-9801が幅を利かせていた。で、ワープロソフトがだんだん使われるようになっていって、様々なことがペーパーレスで実現するみたいに言われていた。でも、2020年を越えてもまだ紙が使われているし、様々な紙のノートが開発され売れている。紙も手書きも消えることはなさそうって感じだ。
GIGAスクール構想(もう5年経過したかな?)で子どもたちは、パソコンかタブレットを使うようになったが、それは、サブの存在であり教科書やノートを主として用いている。
手書きはなくならないんじゃないかなぁってのが、退職したじじいの感じていること。
自分は、子どもの頃から手書き文字が汚くて何度も恥をかいてきたが、それでも、手書きからは離れることができない気がする。