ごあいさつ
最近はもっぱらごあいさつにまわっています。4月で異動するので、さようならのご挨拶とよろしくお願いしますのご挨拶。
一般的な人と比べれば、圧倒的に他人と関わらずに生きているのですが、なんだかんだ京都に来て5年くらいになるので、挨拶すべき人は結構増えていて、あれ?時間たりなくないか??と思っているところです。ちょっとした文面だけでもいいかなぁと思って連絡を送ると、思わぬ所から京都にいるうちに会おうやと返ってきたり。学生の時は卒業式に対して、特になんの感想もなかったのだけれど、あれはお世話になった人にいっぺんに挨拶できる、たいへん合理的な儀式だったなと思い直しました。お友達がたくさんいる人はこの倍どころではない人たちと挨拶してまわるのだろうか、と驚きをもっています。そりゃあみんな環境を変えるの嫌がるわな。
今年は仲の良い人がいっぺんに移動する年で、そういうタイミングってあるもんなんですね。こんなことをいうのもなんですけど、パンデミックのおかげで人生少しコマ送りになった感じがします。みんな割とそうだったんじゃないですかね。私の場合はですけど、生活に関する変化はマスクを毎日するとか、ちょっと遠出に気を遣うとか、本当に微々たるもので、精神的な変化のほうが大きかったです。
基本的には流れに身を任せるへろへろ人間で、怠け者なので、追い詰められないと頑張れないタイプです。学生の時分の夏休みの宿題とか試験前もそうでした。怠けに怠けて、最後の数日は分刻みにスケジュールを組むみたいな。自分でもそれが分かってるので、何かしなきゃいけないときは自分を追い込まれる状況にもっていく癖があります。でも会社員で追い詰められることって割と少ないですよね。私だけやろか。仕事は義務なので淡々とこなすみたいな。宿題はお金もらってないからぎりぎりやろうが出来なかろうが自由だけど、仕事は義務なのでそこを攻めてたら仕事にならないじゃないですか。それなりにテキパキの日々がずっと続いていたんですね。それが、社会情勢って否が応でもこっちを追い詰めてくれるんでありがたいです。
新しい環境はどうなるか全く不明なんですけど、基本的に気が合うとか合わないとか、一定の広さの空間に分布している人の性質の割合はそこまで大差ないと思っています。でもそこの空間の中で人を流動させて局所的に自分の住みよい環境を作ることはできるし、今年一年はそのためにせこせこ頑張ろうと思います。
そうこうしていたら戦争が始まってしまいました。戦争って現代でもこうやって起きるのか、スピードがやべぇと思っています。1950年代くらいのニュースなのかと錯覚しそうです。アメリカのアフガニスタン爆撃のときは、恐ろしかったし絶対にいけないことだと感じたけれど、こうやって理由をつけて人は争いを始めるのかとある種の納得感がありました。今回のは「やるのか!!!?」と思っているうちにあれよあれよと事が進んで、均衡とはこんなにも脆いのかと衝撃でした。現代って、なんか素晴らしいもののように思えていたし、いろいろなことが上手くいくように、それぞれが調節しあっていると思ったけれど、そうでもなかったようで。というか、ウクライナ侵攻にこんなに皆が胸を痛めているけれど、世界では戦争がずっと起きていて、内戦でたくさんの人が亡くなっていて、それを無視して過ごしていたのに、急に大国が動いた途端というのはなんと野蛮な話ではないですか。それもなんだかショックでした。ごめんなさい、ごめんなさいとあてもなく唱えています。ヒトは不安定なものが苦手だから、それが安定なものであるかのように取り繕うと何かの本に書いてあったけど、本当にそうなんだな。感染症が流行りだした頃にも思ったけれど、こういった出来事というのはきれいな布で覆っていた悪魔的なものを次々と暴いていってくれますね。「神」という奇跡にも「現代」という魔術にも、縋っても祈ってもいけなくて、生きているからにはヒトとしてこの事象を見逃さず、受け止めていきたいです。己の醜さや弱さも。
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