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そっちはどうかしら

 6月の終わりにシャムキャッツが解散した。シャムキャッツはとくべつ好きなバンドだったから寂しかった。「なんで」とか、「解散しないで」とかはあんまり思わなかったけど、もうシャムキャッツが無いんだということが、とてつもなく寂しかった。今もどっかのスタジオで笑い合いながら曲を作ってくれてると思ってたから。

 シャムキャッツを知ったのは2014年だった。2010年に人生の大動脈みたいに働いていたゆらゆら帝国が解散しちゃって、それに合わせたみたいに人生急下降。私はバンドをおもしろくないなぁと感じてた。身の上のゴタゴタもあり、バンドの持つパワーや、そこから透けるイマジン感を観るのがしんどかった。バンドを聴く才能がなくなってしまっていた。三鷹にあるライブ喫茶 おんがくのじかん でアングラな弾き語りの人たちばかり聴いていた。活動中のバンドは、そこで知った小山田壮平さんのやってるandymoriと、笹口騒音ハーモニカさんがやっている太平洋不知火楽団だけ聴いていた。どっちも夢や希望をあんまり感じない歌詞で、でもエネルギーはあって、そのヒーローとしての脆さが好きだった。ところが、太平洋不知火楽団は2012年に休止、andymoriは2014年に解散して、私は再びバンドの煌びやかさから放り出されてしまった。その頃には、ずっと住んでいた東京を離れて地方にいたので、新しいバンドを見ようにもインディーが集まるハコもない。困ったなぁと思って、サニーデイ・サービスの動画をYouTubeで観たとき、関連動画に出てきたのがシャムキャッツの「AFTER HOURS」のMVだった。高速道路とニコリともしないヒョロっとしたちょっとダサい若者たち。そして、柔らかい音に乗って届いた歌詞の鋭さに度肝を抜かれた。

嘘も本当も入り混ぜて
僕たちは時を泳いで行く
運ばれて来た喜びのリボンをほどいて風に投げる

それぞれの場所へ帰って行く
つかの間の時を踊っている
朝がくる時はちょっとだけ
あったまる胸を冷ましている

騒音が重なって寝息みたい
高速道路の横で息を吐く
君の名前を思い出したり 忘れたりする
アフターアワーズ

―シャムキャッツ「AFTER HOURS」

 シャムキャッツの持つ雰囲気は、希望に満ちているわけでもなく、だからといって絶望しているわけでもなく、飄々としている。バンドとしての夢みたいな甘やかさや、かっこよさがありつつも、その奥にある日常の毒味がたまらなかった。その時に私が恐れていた、明るさの持つ暴力性なんか全くなく、素直な気持ちで日常を見つめながら、どこか終わりを見据えているような曲たちにすっかりまいってしまった。週末のシャムキャッツのライブに行くために必死に修士論文を書き上げたし、先輩と一緒に車で遠征したりした。「WINDLESS DAY」や「SWEET DREAMS」は人生にファンキーな出来事があるたび、繰り返し聴いた。

 シャムキャッツはまいっちゃったなっていう日々のなかで、僕はこうしてるけどそっちはどう?といつも気にかけてくれているようなバンドだった。機械的な笑顔が嫌われちゃって、仕事は勢いでやめたし、電車に乗って目に付く下品な吊りビラには少しモヤっとして、恋人とはすれ違いがちななか、お母さんのことや保険のことも考えなくっちゃいけない。でも、自分のご機嫌を取りながらなんとか生きてる。そんなくそったれみたいな日常を、それはそれでいい部分があると思わない?と歌ってくれるのがシャムキャッツだった。ダサいと思ってたご機嫌取りに、意外と健気な美しさを見出して、軽やかに歌い上げてくれるバンドだった。シャムキャッツの歌はよく「このままでいたい」という気持ちが歌われる。それは、変化を敏感に感じている、そんな少年のように繊細な感性を持っているってことだ。そしてその変化のなかで、このままでいるためには、やっぱり変化していなくちゃいけないんだろう。動的平衡ってやつ。
 いつだったか、フロントマンの夏目さんはインタビューで、バンドを長くやってるとバンドが抱える重さが出ちゃうと言っていた。解散しちゃった理由は知る由もないし、知らなくてもいいことだけれど、10年というバンドとしての重さがシャムキャッツとしての立ち姿にそぐわなかったのかなと思ったりする。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に、少女が風に巻き上がったシーツに抱かれ、空高く消えてしまうというシーンがある。シャムキャッツの解散の知らせはその一節を読んだ時の感覚に似ていた。少年としての軽やかさを失わず、触れることのできない高みに昇っていってしまったような。

 でも解散してしまったとはいえ、ライブを見た後、会場で興奮気味に買ったCDにはサインが入っているし、いつ聴いてもふっと涙してしまうような曲がたくさん詰まっている。
 昨年末の10周年記念ライブのBlu-rayが届いて、その中には解散していないバンドの姿が、鮮やかにうつっていた。あのライブの幸福感が蘇るとともに、これまで観に行ったすべてのライブが尊く思い出された。同じ時代に、好きなバンドがステージで輝く姿を眼前にし、解散するところを見届け、さらにソロ活動までファンとして見守れるのは奇跡といっていいかもしれない。シャムキャッツがいなきゃ、行かなかった場だってたくさんある。

 シャムキャツはたくさんの花束を送ってくれていた。しかも一生枯れない花。花で人生をふちどりながら、やるせない日々を、ちょっとマシかなと思えるように。どんな思い出も音楽とともにあれば、それは作品の一部として美しくあり続ける。シャムキャッツで彩られた私の人生の部分は確実に幸せなものだったし、これからもたくさんの花の中に、シャムキャッツが残っていくと思う。今までありがとう、これからもずっと。

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山椒一味
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