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[個人史]シェアハウスという混沌

『人生の土台となる読書』用に書いたけど使わなかった原稿です。カオスなシェアハウスで暮らしていた頃の話と、唐辺葉介『電気サーカス』について。


 会社を辞めたばかりの28歳の頃、東京でゲストハウスを転々としながらネットで知り合った人と遊びまくっているうちに、拠点となる家が欲しいと思うようになった。
 適当に人間が集まってだらだらできる場所が欲しい。大学生のときに住んでいた寮みたいに、怠惰な人間が一緒に生活して、一日中ゲームをしたりできる環境がいい。ネット好きな人間ばかりが集まるシェアハウスを作りたい。
 無職の僕にはそんな家を一から用意する力はなかったので、とりあえず僕はブログに「ネット好きの人が集まるシェアハウスを作りたい!」という記事を書いた。
 そうすると、賛同者がたくさん集まった。そしてその中に、「空いてる家があるから貸してもいいよ」という人もいたのだ。その物件を見に行ってみると、3LDKのマンションの一室だった。ちょうど借りる人がいなくて空いているらしい。僕はその家を借りてシェアハウスを始めることにした。
 インターネットがあれば何でも手に入るな、と思った。自分の考えをネットに全て公開していけば賛同してくれる仲間が自然に増えていくし、欲しいものをネットに書けばどこかでそれを余らせている人が提供してくれる。会社を辞めたときはそのあとどうなるか不安だったけれど、ネットさえあればこの先もなんとかなりそうだ。

 シェアハウスを作るなら、だめな人間をたくさん集めたい、と僕は思った。会社でうまく働けなかったり、この社会で生きづらさを感じている人。そんな人間でも楽しくやれる、世間とは違う場所を作りたかった。
 僕のブログやツイッターを見ただめな人間が自然とシェアハウスに集まっていった。無職やひきこもりもいたし、働いている人も、どこか病んでいる人が多かった。ネットで変な人間を見つけると、みんなとりあえずうちに連れてくるようになって、どんどん混沌さが増していった。
 だめな人間たちの中にいると居心地がよかった。学校や会社には息苦しさを感じて適応できなかった自分も、こういう空間なら息ができる、と思った。
 シェアハウスのリビングに行くと、昼も夜もなく常に誰かが起きていて、その横で誰かが転がって寝ていた。住人もいるし、住人じゃないけど毎日のように入り浸っている人もいる。玄関の鍵は常に開きっぱなしだったので、知らないうちに誰かが遊びに来ていることも多かった。ネットで住所を調べた知らない人間がいきなり訪問してくることもあった。僕らはイベントに飢えていたので、そういう来訪者は歓迎だった。つまらない日常を覆してくれる何かを常に求めていた。
 シェアハウスにみんな集まって何をするのかというと大したことはしない。大体、ゲームをしているかインターネットをしているかだった。インターネットは一人でするものだと思っている人が多いかもしれないけれど、みんなで集まってぽつぽつと言葉を交わしながらするインターネットは楽しい。同じ部屋にいてもキーボードを叩いてチャットで話した。チャットだと、今ここにいない人も巻き込んで一緒に話せるからだ。
 近所のスーパーの閉店時間が近くなるとみんなで半額の弁当を漁りに行った。誰かがネットで見つけてきたロシアの交通事故の動画をプロジェクターで映してみんなで見た。一晩中ゲームをして明け方に牛丼屋に行った。クラブイベント帰りの人たちが突然やってきてアフターパーティーが始まった。知り合いが作ったトラックに合わせてみんなで即興でラップをした。人がたくさん集まっていると、毎日何かのイベントが起きるので退屈しなかった。
 人がたくさん集まっていると揉め事もしょっちゅう起きた。もともと病んでいる人間が多いというのもあるし、あまりに家の中に人が多すぎて人口密度が高かったせいもあるだろう。水槽の中に魚をたくさん入れるとすぐに喧嘩するのと同じだ。
 そうしたトラブルで消耗することも多かったけれど、僕はそんな毎日に満足していた。僕はとにかく普通に生きたくなかった。普通に会社で働いて普通に生活するなんてうんざりだ。そんなありふれた普通よりも、このめちゃくちゃな僕らの生活のほうが何百倍も面白い、と思っていた。
 今から振り返ると、特別になりたいと考えること自体が凡庸だな、と思う。どこにでもあるような、昔から何度も繰り返されてきたものを、自分たちだけが実現している特別さだと思い込めるのは、若さの特権だ。

 そんなシェアハウス生活を僕は二十九歳から十一年間続けて、四十歳のときに辞めた。
 無軌道な生活も若い頃は楽しかったけれど、三十代後半くらいになると、だんだんちょっと飽きてきたのだ。こういうのは若者のものだし、自分はそろそろちょっと違うかもな、と思うようになっていて、最後の方は惰性で住んでいた。ちょっと長く続けすぎたかもしれない。今は一人で静かに、猫二匹と暮らしている。
 もうシェアハウスに住みたいとは思わない。そういうのはもう一生分やった。
 それでも、あの頃はめちゃくちゃだったけど楽しかったな、と、ときどき思い出すことはある。そんなときに読み返す本がある。唐辺葉介の小説、『電気サーカス』だ。


 この小説は、二〇〇〇年前後のインターネット黎明期に、テキストサイト界隈の人間が集まってシェアハウスをしていたという話で、おそらく作者の実体験を元にしている。
 主人公は先が見えないままバイトをしながらあてもなく生きている若者だ。彼は自分のどうしようもない毎日のことをネットで書き続けている。そのサイトの名前が『電気サーカス』だ。

 こうして僕は『ネット日記書き』になってしまった。取り立てて特筆すべきことのない有象無象の一人でしかない人間が、己の内面を片っ端から電脳空間内にさらけ出して喜ぶ、『ネット日記書き』という世にもおぞましい存在になり果ててしまった。
 全く、ネット日記書きというのは恥知らずな生き物だ。本当に何から何までネットに公開してしまう。彼の現実生活は単なる日記のネタ探しの場となり、日を増すごとに希薄になってゆく。そしてその分だけインターネットの世界の比重が増えてゆく。おまけにそれを憂いもしない。そうやって書き続け、なにか得るものがあるわけでもないというのに。
(P7)

 ネットで文章を公開すると、それを読んだ人から感想が届き、ネット上に知り合いが増えていく。そしてネット上だけの付き合いではなく、オフ会で実際に顔を合わせたり、シェアハウスで一緒に暮らしたりするようになる。
 いつの時代も、インターネットには歪んだいびつな人間たちがたくさん集まりやすいものだ。主人公はネットを通じてさまざまな人間に出会っていく。
 童貞の男子大学生を装って日記を書いている女子中学生。向精神薬をラムネのようにかじりながら楽器を弾くプログラマ。東大を目指しているが何年経っても受かる気配がない浪人生。全く切れない包丁で手首を擦り続けるオレンジ色の坊主頭の女性。
 ネットで知り合った人間を集めてクラブでDJパーティーが開かれて、病んだ大学生が向精神薬をたっぷり練り込んだ手作りクッキーをみんなに配り、それを食べた人たちが昏倒していく。
 『電気サーカス』では全編にわたって、そんな若者たちが不器用に自分を傷つけたり他人を傷つけたりする様子が描かれていく。


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2,140字

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