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社会的な顔なんていらないじゃないか

PLAN75を観てきた。

公務員として働く人の意見で、自分なら社会に所属することが難しい・生き辛い高齢者へ向け、社会保障の一つとして薦めるだろう、そこに疑問や疑念は持たないと話していた。

死を保障する前に難しく生きづらい社会構造に問題があるだろうと思う気持ちと、「理想の死」みたいなものが我々を圧迫していると感じた。

人間以外の動物も老いていくと不自由になり、ときに孤独に、ゆっくりと死を迎える。

理性を与えられた人間はどの生き物も辿るごく自然な道を受け入れられないというか。今の社会だと、生き物の自然な流れが全く異質なこととして映ってしまう。(何が自然なのか分からなくなる)

理性があるからこそ、心身共に寄り添いあい、他の生き物とは別の死を迎えることも出来るとも思う。

難しく生き辛い(とされる)社会を変えるだなんて大きいことはできないけど、PLAN75のような社会の理想化による巨大な力にはNOを示したいし、自然の流れに反した個人の願望だが、皆の最期が穏やかな時間であってほしい。自らの手の届く範囲・名前を知り合っている人たちの死には、目を逸らさず向き合いたい。

登場人物たち一人のなかに「社会的な顔」と「その人の顔」というのがあった。
労働しなければいけないから「社会的な顔」の振る舞いをする。
でもそもそも根本に居るのは「その人」なわけで、死を選ぶ人は「その人」になっていて、構造を支える若者たちは「社会的な人」をさせられた「その人」で在り、双方が繋がるときに「社会的な人」という一枚の壁がとんでもなく邪魔。
なぜ「社会的な人」が生まれるか、私はやっぱり合理化・効率化を求める資本主義がこんな変な壁を作ったんだと思う。

もう永遠に回転する歯車なんて無い。回すこと諦め立ち止まり、周りを見回し、一人の人生のサイズ感に合わせた小さく豊かな生き方を考えると、みんな「その人」になる。「その人」同士の世界に、PLAN75は生まれない。

また長々
とりあえずPLAN75、おすすめです。

すぐ観たい人はネットでも観れるし、5/28にクララさんたちが鳥取市民会館で自主上映されるそうです。見終わった後に意見交換したくなる作品なので、誰かと観るといい。

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