ぼくのメジャースプーン
読みました。
何年ぶりかの2回目です。
さて、まだ読んでいない方はお気を付けて。
・あらすじ
ぼくらを襲った事件はテレビのニュースよりもっとずっとどうしようもなくひどかった――。
ある日、学校で起きた陰惨な事件。ぼくの幼なじみ、ふみちゃんはショックのあまり心を閉ざし、言葉を失った。
彼女のため、犯人に対してぼくだけにできることがある。チャンスは本当に1度だけ。これはぼくの闘いだ。(講談社文庫)
ということで、主人公は小学生4年生の「ぼく」。
そしてもう1人重要なのが、幼なじみの「ふみちゃん」。
ふみちゃんは、なんでもできてよくしゃべる、中身は同級生達寄りもずっと大人びた、「ぼく」にとっての憧れの友だちだ。
しかし、彼らがある日巻き込まれた悲惨な事件をきっかけに、「ぼく」は身に備わっていた、ある特殊な力を使うことを決意する。
そしてその力の大先輩である、「秋山先生」にその力の使い方を教わることになるのだ。
「ぼく」はその力をどう使うのか、彼の出した結論は。
そして、その結論がもたらす彼らの結末は。
・感想
何回泣いたことか。
何よりも、ぼくに秋山先生がいてくれて、本当に良かった。
私は秋山先生がぼくに「よく頑張りましたね」と言ってくれる度に泣いた。
その言葉を投げかけてくれる人がいることで、ぼくはどんなに救われただろうか。
母の前で泣けないぼくが、泣ける場所があって、頼れる人がいて、本当に良かった。
そして、動物園のシーンも好きで、(あえて誰とは言わないが、)一緒に行ったメンバーも、ふみちゃんに抵抗なく接してくれて、ひどいことを言う大人が出てこなくてほっとした。
以下、ぐっと来たメモシリーズ①〜④
①p316
彼によれば、どうしようもなく最低な犯人に馬鹿にされたという事実は、自分のために一生懸命になった人間がいること、自分がそれぐらい誰かにとってのかけがえのない存在であることを思い出すことでしか消せないんだそうです。
某お兄さんの言葉を元にした、秋山先生のセリフですね。
なるほどなあと納得しました。
これは、自分がこういう風に傷ついた時もそうだけど、何もなくっても、誰かが自分のために一生懸命になってくれたことがあったら、とても救われるなあと思ったんです。
これは、一般的には親なのかもしれないけれど、意外とそれを実感して育った子どもは少ないんじゃないだろうか。
なんて。
そして、親以外に、元々は他人だった人が、そういう行動をしてくれたときは、ものすごい信頼感が生まれるんだろうなあ、と誰が浮かぶ訳でもないのに羨ましくもなったりするのです。
そんな人となら、親友でも恋人でもなれるんじゃないだろうか。
②p324
わかりあえない者同士は、無理に一緒にいる必要はない。関わらず、住み分ける以外に道はありません。
これはちょっと、西の魔女も思い出しました。
“サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を
選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。”
というやつですね。これも好きです。
そしてこう続きます。
正しいとか正しくないというのは、それを話すのが人間同士である以上、簡単に変化していくんです。
これが何という正解はない。けれど、そんな中でどうすることが自分の心に一番恥じないのか。何を一番いいと信じるのか。それだけはきちんと胸に置いておく必要があります。
私がずっと大好きなアーティストの歌詞に、こういう言葉があります。
“人は真実か嘘かを ことさら知ろうとするけど
それは長い時の中 何度も入れ替わる”
ちょっと似てますかね。
度々人の仲裁や相談を受けたりしても思いますが、どちらか片方の意見だけ聞いても、大抵偏っているんですよね。
当事者と、相手方と、なんなら周りから見た意見も聞いて、そうやって多方面から見た方が、物事の輪郭ははっきりしてくる。
そして、もちろん、誰がその物事を見たかによっても、見え方は全然違ってくる。
難しいなあと思います。
でも上の抜粋のように、結局は自分はどうしたいのか、という芯を持っておくことはとても大切で、私にはまだ足りないなあと読みながら考えていました。
③p395
人間の人生は、自分自身の過去の責任を必ず取らなければならないようにできてるんです。
因果応報。読んでいて一番ちくっときました。
何かで、3年前の自分が今の自分を作っている、と聞いたことがありますが、本当にその通りだな、と。
別の本でも、今の自分が今の環境にいるのは、自分がそう選んだからだ、という旨のことが書かれていて、耳が痛いばかりです。
私は、あとどれくらい責任を取らなければいけないのか、考えただけでもちょっと萎えました。
④p486
馬鹿ですね。責任を感じるから、自分のためにその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから。そうやって、『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです
来ました!辻村さんの「愛とは」!
実は、スロウハイツの神様でも「愛とは執着である」との旨のセリフがあり、そこでもわあああと私はなりました。
愛とは、執着だったのか…!とプチ衝撃を受け、確かに、ストーカーでもなんでも、その人のことをどれだけ想って考えて…という様は執着という表現に当てはまるなあ、と。
辻村さんの、愛情深さが伺えるような、優しい心に触れられるような、登場人物たちの愛についてが私はとっても好きです。
あんなにリアルで暴力的なまでのうさぎの事件現場やその後の野次馬を描けるのに、なんでこれほどまでに優しい感情も掬い取れるのか。
こんなに透明できれいな感情を書き出せるのか…。
もはやため息しか出ません。
そして、エピローグで、ふみちゃんが覚えてくれていて、つまり、覚えている=ぼくの「力」の効力だった場合は忘れている=ぼくの「力」では無く言葉そのものに背中を押されてピアノを弾いてくれたという事実が、またたまらなく嬉しかったです。
さて、ぼくはマドレーヌの味がわかるようになっているのか。
もしくは、ふみちゃんの声を聞いたら味覚もそのうち戻るんじゃないか。
ふみちゃんが元気になるように、ぼくもまた元気になってくれたらいいな、と思いを馳せるのでした。
そして実はひとつだけ気になっていること!
秋山先生があのとき市川になんと言ったのか。
その手を離さなければ、なんと言ったのか。
個人的には手を離さなければ死ぬとかなのかなと思ったのですが、なんだかそんな単純なことではなさそうな気もして。
でも結局手は離したし、と思ったが先生が引き離したとも書いてあったし。うーん。謎。
そして先生が力の前に負けたと話していた、月子のシーンはよく覚えていて、また読みたいなあとも思いました。
あのシーンも感動した。月子の思いの強さに。
本当に、すごいお方です、辻村先生。