DAY11 ちはやぶる玄海の海
昨年は一年を通していろいろとありすぎて、ヒロシマ・ナガサキの航海日誌をまったく更新していなかったことに、先日平戸で再会した仲間に言われて気付いた、私の誕生日4月9日のDay 10 いさんだの浜から三軒屋海岸まで漕いでわたって、いよいよ明日は関門海峡を通過する、というところで終わっているのだった、
これ↓
https://note.com/pfme/n/nb4de3abb82b1
こんなつたない文章だけど、九州にいて楽しみに読んでくれてる人がいるということを知って嬉しかった、
スマホに残った動画や写真もシェアできていないのもたくさんあるし、記録のためにもインスタで動画、FBのpaddle for mother earth で写真をシェアする作業を再開しようと思って、また時間が過ぎてしまった、
クラブの活動も今はオフシーズンなので時間に余裕があるはずなのに、今年の「ヒロシマ・ナガサキ愛と祈りの航海」のことで気ばかりがあせり、思いが一杯なのだ、なにせ今年はあの人類史上最初で最後の原爆がヒロシマとナガサキに投下されて80年の節目なのだ、そして、今年は私自身が今までに一度も漕いで渡ったことがない海と砂浜を探しながら九州の南をぐるっと進みながら交代を繰り返し四国に渡り、瀬戸内海にはいってヒロシマを目指す計画なのだ、
地理的にも未知の土地で、知り合いもほとんどいない、
ただ、今だからこそ海をなでながら様々な魂を鎮め、地球のバランスを調えるべき大地だと強い衝動をうけ続けている、
クラブもわたしのプライベートも、昨年から今年にかけて私が関わってきたいろんなものがシフトチェンジしているのを肌で凄く感じるのだけど、
それを言葉にして表現することが難しい、
言葉にできない祈り、、そして思い、
たくさんたくさん伝えたいことがある、
ただ、自分の心のだけにしまいこむことなんてできないのだ
星に願い
月に祈りをささげる
それだけですべてを終わらせるわけにはいかないのだ
でも気を取り戻して昨年の4月を振り返って、写真を見ながら記憶をもどして書き始めることにしよう
4月10日水曜日、昨夜今まで体調不良のために葉山でずっと休養していた妻の南水子が福岡空港に降り立った、もともと数年まえにアンクルと私を結びつけてくれたのは妻だったのだ
久しぶりに日本にやって来てくれた高齢のアンクルの世話をしたいと来てくれたおかげで、私もほっと一息つけた感じで、アンクルも助かったのは確かだった
ただ、妻は若い頃からの持病がありあまり体力がないので、このボヤージングにどこまで付いて来れるか気にかけながら様子をみることにした、
案の定、久しぶりに羽田のターミナルから福岡空港までの道中の人混みと人間的でない高速移動に遭遇して、福岡空港に到着したときには、出口のベンチで座り自分がどこにいるのか判らないほどに朦朧としていた
4月10日は山口県側、瀬戸内海の最後の砂浜といえる三軒屋海岸から関門海峡を通過して芦屋海浜海岸、そして勝浦漁港まで漕いだのだ
その航海は、はっきり一言でいって、時空を超えた航海だった
大潮の時は場所によっては10ノットという激流になる本州と九州を隔てる海峡、関門海峡の潮流に乗りながら、誰の目にも見えない、沿岸で働く人達にも見えない世界、違う「次元」でわたしたちはその大自然の流れにのっかるように、一気に漕ぎわたったのだった
いまの次元の人たちには見えないように
例えばなぜそう感じたか、というと、ハッ ホー、 とヴァアの掛け声を大声で出しながら岸沿いギリギリのところを漕いでいて、顔の表情までもわかるぐらい近くを漕ぎ進んでも、おかにいる人は誰一人でさえも、振り向いたり、手をふったり、頑張れ!とか オーい! とか言ってこなかったのだ、 危ないぞ!と注意する漁船も船にも遭遇しなかった
あれ、見えないのかな?と何度も思った
実際、車でサポートしていた人たちも、待ち伏せして応援しようとしていた人たちも、わたしたちの姿を見ることができず、唯一海峡沿いのホテルに残っていた妻が屋上からとった写真だけが関門海峡を漕いで進むPilialoha を外の世界から写した写真だけだ
妻が言うには、ㇲーと、一瞬見えて、すぐに見えなくなったらしい
この日は、これだけでなく、いろんな神秘的な現象を感じた日だった、
哀しいほどにコンクリートに覆われた関門海峡を通過して、北九州の外洋、響灘に出てからも、その沿岸はづっと埋め立て地、泣きたくなるほどにセメントに覆い尽くされた沿岸しかなく、自然の砂浜も自然の岩肌も見えない無惨な沿岸をわたしたちは50キロほど漕ぎ進んで気が滅入るほどだった、手漕ぎの小さな小舟を寄せ付ける気配が微塵もない人工的に造作された沿岸
ああ、海がこんなに素晴らしいのに、人が住む陸(おか)はなんと哀しいことだろう
このあとの玄界灘に続く響灘(海藻の ”ひじき” がたくさん採れるからそれがなまってひびきになったらしい)と呼ばれる海域に面する北九州市の芦屋海浜海岸でサポートの皆がPilialoha を待っているときのことだ
瀬戸内海に面する最後の砂浜、三軒屋海岸を早朝、関門橋に昇る朝日にE ala e を唱え舟出したPilialohaは潮に押され、北東の風に流されて漂流するかのように5時間ほどたっただろうか、海亀が海を放浪し自然の砂浜が発する匂いを探し求めるように、やっとわたしたちはその砂浜に上陸した、そこには仲間が待っていた
でもその仲間たちはPilialohaの姿を目視する1時間以上も前に、ハワイ語でオリを唱うわたしの声がはっきりと聞こえたらしいのだ、
わたしがよく海を漕ぐ時に唱えるオリがいくつかある、様々な状況に合わせて、その時の気分で唱うのだけど、1時間以上といえば10キロほど離れた海の上で唱う歌声が聞こえたことになる、いくら風にのって届いたとはいえ江の島から叫んだ声が葉山大浜で聞こえるはずはないのだ、でも皆は確かに芦屋海浜の砂浜でお弁当を食べながら待っている時に実際に見えてくる1時間も前にそのオリが聞こえたらしい
きっとこのときも次元を越えて何かの意味があって砂浜で待つみんなのもとへそのオリは伝わりとどいたのだろうと思う、
関門海峡を誰の目にも見えないで通過した時も、このオリの声が風にのってとどいたのも、
何か大きな目には見えないものの働きかけがあって、そうあるべくして起ったことなのだろう、
芦屋海浜の砂浜で休憩をとりながら昼ご飯をを食べてる間に沖の風はどんどん強まっていった、
ちょうど北東から吹く風がかわせる場所に砂浜があったので、海に漕ぎ出した途端に風がアマがわの後ろから吹きつけてきた、
女性中心のクルーでそれも、その前のレグで見るからに疲れた人もいる、でももう次は宗像(むなかた)の神域だ、という強い意志がわたしにはみなぎっていたが、その手前にはゴツゴツの岩に囲まれた織幡神社が鎮座する鐘崎(通称 鐘の岬)が進路は阻むようにそびえて出っぱっていた、そして、右手には地島がみえた、この海域、とくにこの瀬戸は奈良時代の万葉集にも詠われる航海の難所らしい、
あの島影に入ればうねりも風も少しは弱まるかと期待したが風の角度がけっしてそうではなかったようで、というよりも古代から難所だからなのか、
その地島との間の瀬戸を流れる潮が逆潮で、漕いでも漕いでも進まない、
風向きは潮の流れと逆なので三角波が半端ない、
うねりは高まり風も強まり、Pilialoha はどんどん鐘崎の岩肌に吸い寄せられて行く、3番シートは漕ぐ暇もなく、ただひたすらヴァアにひっきりなしに入ってくる海水をベール(あかくみ)し続けている、ほとんどこんなコンディションの海は初経験というクルーばかりだったけども、何故かわたしには不安や恐怖はまったくなかった、それはクルー皆の海と調和しようとするマナを感じたからだけではなく、大きくあたたかいなにかに見守られているという感覚をずっと感じていたからなのだ、
わたしたちクルー6人だけで漕いでるのではなくPilialohaの中には他のクルーがのっていて一緒に漕いでくれている、そして前後にも真横にもほかの小舟がたくさん並走していてわたしたちを取り囲むようにして一緒に宗像にむけて進んでくれている、と感じたのだった、皆がそれぞれの小舟やカヌーを笑顔で漕いでいる、大きな掛け声をあげながら、
だからわたしも一緒にオリを唱え声を高らかに漕ぎ続けた、感謝のオリを唱え天とつながる真言を唱え続けた、
どのくらい時間がすぎたのかもよくわからない、
ヴァアPIlialohaが木の葉のように荒れた海に漂いながらも、クルー皆が一つになりどうにかすれすれで鐘崎を越えた、岬を越えると左側におおきくひらいた湾が広がってみえた、右前方の大島が迫るようにどんどん大きくなる、この筑前大島と呼ばれるこの島には宗像大社の中津宮が鎮座する島だ、
13年前の夏だっただろうか、3.11のあとにやった海からの巡礼の旅でわたしは一人乗りのヴァアV-1でこの大島に漕いで渡り参拝したときのことを思い出した、この筑前大島からさらに50キロ沖にある島全体が御神体で日本最古の神社で「神宿る島」とよばれる沖ノ島に漕いで渡ることはかなわなかったが、この海、島、空、波も、岩にぶつかる波しぶきも砂つぶさえも、そのすべてに神が宿ると言われ、有史以前の古代から海の民の信仰の対象になっていた場所なのだ、
わたしたちが漕ぐこのヴァアと呼ばれる小舟もその海と波しぶきと砂と同じ自然の一部だと常々わたしは思っている、精霊が宿るゆいつの乗り物とハワイでもいわれているのがヴァア、ハワイ語のWa'a のもう一つの意味は”海に浮かぶ神聖な木”なのだ、だからこそ古代から海を司る大きな存在がわたしたちとPilialohaとともにいてくれる、
神湊(かみなと)と呼ばれる進行方向に見える草崎の付け根にある港に、風波にこのまま乗りながらダウンウインドで漕いでいき避難したい気持ちを抑えながら、わたしはひたすらアマにうねりと風をうけながら勝島と草崎の岬の間の海峡に舵をとりつづけた、何かがそうさせているのだった、
この日の最終上陸地、勝浦漁港横の勝浦浜はちょうどこの白波がたつ神湊の裏側にあるのだ、
あの岬の裏の玄界灘に面する海が穏やかな凪なのはクルー誰もが想像できた、
芦屋海浜を舟出してからというもの、ずっとアマ側からのうねりと風で誰も一度も休憩をいれ手を休めることさえもできなかった、
クルーの中には瀬戸内海から漕ぎ続けているクルーもいたのに、
Taho'e !! 頑張ろう! ハップ ホー!
と6人は一つになって一心に海に愛をこめて母なる地球とつながるように私たちは漕ぎ続けたのだった、