これから自殺しようという君へ
この見出しに惹かれてやってきた君。
別に引き止めようとか、そんなことを言おうというわけじゃない。
どんな寄り添いの言葉をかけられようとも、君の心はもう他人の言葉に揺さぶられる元気もないだろう。
何もかも陳腐な言葉に聞こえるし、どんなに優しい人でも結局他人は他人。100%自分を理解してもらうことなんてできない。
じゃあなんで呼び止めたか。
別に今この時に来る電車に飛び込む必要はないし、今がベストな飛び降りるタイミングでもなかろうし、今その縄を首に括る必要はないでしょ?
この話を聞いてからでも遅くはないと思うからさ、今捨てようとした君の人生の少しの時間、僕にちょうだい。捨てようとしてたところなんだから、別にいいでしょう?
さて、勿体ぶらないで本題に入ろうか。
君は今、死にたいと感じている。考えている。
だが、本当に君は死にたいのだろうか?
「今の辛い状況から脱したい」のではなく、「自殺をしたい」のか。
僕はここに疑問を感じた。何を隠そう、僕自身も小学校中学年くらいから自殺未遂を続けていた。首を括ろうとして兄に「何をしてるの?」と言われて断念したのが最初だっけか。そこから、辛いことがあったとき、苦しいとき、自分の行動の選択肢に「自殺」の二文字が浮かぶことが何度もあり、ギリギリのところまでいったこともあった。
自分語りは犬も食わないのでここまでとするが、自分の経験と仮説、推測を元に一つの真理に辿り着いたので、それだけ共有させてほしい。
まず、自分が本当に自殺したいのか、という点。
精神的な観点では、「死ぬ」という選択肢が挙がっているので、特に否定する必要はないだろう。だって、死ぬほど辛いんでしょ?「今の状況から逃げたいだけだろ」なんて、ここではそんな野暮なことは言わないよ。
では、身体的な観点ではどうだろうか。君の心が死にたくても、君の体はどう思っているか。
これを試すとても簡単な方法がある。それは、
「死ぬまで息を止める」
という方法だ。ああ、なんて分かりやすい。しかも実践し易いときた。
さあ、試しにやってみてはどうか。これを完遂できたら、君は心身ともに死にたい人であったと証明できる。
できなかったでしょ。ギリギリまでいく人もいるかもしれないけれど、最後の最後に、息を吸いたくて体が勝手に息を吸ったよね?
体が「生きたい」って自分に言い聞かせたんだ。
馬鹿ばかしいって?でも体と脳が正反対の意思表示をしたのも事実。それでも本当に君は「死にたい」と言えるだろうか。
これが、鬱やら精神病でよく聞く「脳と体が乖離している状態」だと考える。要するに「病気」ってやつだ。辛くて苦しいのも頷ける。
この方法以外の、よく自殺の方法として挙げられる「首吊り」、「飛び降り」、「飛び込み」等々の方法は、厳密に言えば「自殺」とは言えないと僕は考える。病気による二次的な「事故」とする方が正しい。だから、これらの方法で亡くなった人々は「病死」したのであり、他者から責められるのはお門違いだと言えると僕は思う。
まあ、これが自分が本当に死にたいのかどうかを判別する一番確実な方法である。コスパよし、タイパよしの優れものじゃない?
さて、ここまでの話を聞いてもなお、「体がなんと言おうが知るまい、自分は死んでやるんだ」って意気込む君。
別に僕は止めないし、人間の自由意志を阻害する権利は誰にもないからね。自殺してはいけない理由もないし。
しかも、自殺しては行けない理由を語る人の大多数は、「親が悲しむ」だとか、「周りに迷惑がかかる」とか、自分が死んだら知ったこっちゃない話にしか聞こえないことばかりだしね。
では逆に、死んだら自分の損になることとはなんだろうか。今後生きていたら楽しいこと、嬉しいことがある?
「うるさい、今この辛いのをどうにかするために死ぬんだし、楽しいこと、嬉しいことがある確証もないだろう。」
君が言うであろうことを先に書いておいた。気がきくでしょ。
冗談はさておき、これから死ぬ予定の君に、僕から一つ忠告することがある。
死ぬのは一瞬ではない。死というゴールテープ前が、想像を絶する一番の地獄である。
まず、誰でも一度は聞いたことがあるであろう「走馬灯」。今までの経験、記憶から、自分が助かるための情報を探し出そうと、脳みそがフルパワー回転している状態。結婚式の思い出スライドショーみたいなものではないので、爆速で脳裏に映像記憶が流れ、脳がとてつもない速さで処理を行う。それに伴い体感時間がとてつもなく長く感じ、脳が焼け焦げそうになる。なんせ、前に述べた通り、「体は生きようと必死」だからだ。これだけでも相当しんどいのだが、僕的に次の点が一番自殺未遂で後悔したことだ。それは、
「今まで楽しかった、嬉しかった時の記憶が流れ、その時感じた気持ちや感情を再体験させられる」
側から聞くと、苦しみから解放されたかのように思えるが、実情は違う。脳ではこれから死ぬ現実を理解しながら、もう一生味わうことのできない感情を映像付きで体験させられるのだ。母の手に触れたときの温もり、父の背中の広さ、夕日に照らされながら友と笑い合った放課後、感動で涙した音楽、美味しかった料理…
全て、もう経験することはできないんだということを突きつけられ続ける時間が来るのだ。言葉で聞く以上に心が張り裂けそうになる時間だ。
脳では死の瞬間をできるだけ辛くないようにドーパミン等のホルモンを大量に出した結果なのだろうが、それがかえってとてつもない絶望を生み出すのだ。
僕はギリギリのところで謎にロープが切れたので助かったが、もうこんな体験は「死ぬほど」嫌なので、それっきり自殺しようとは思わなくなった。しかし、世の中には多くの人が自殺という形で亡くなっている。だから、勝手ながら、これ以上同じ思いをする人がいなければ良いなと願ってしまう。
長々と話してしまったが、結論を言うと、
「自殺以上に辛いことはない」
ってこと。結局引き留めてるって言うかもしれないけど、僕も一人間なもんで。そんなもんじゃない?
季節の変わり目で気分が落ち込んだら暖かくして美味しいものを食べる、辛い時には一人にならないで誰かに相談する、心の病は風邪と一緒で予防も大事なんだろうね。僕も気をつけよ。