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ぶいつばーアンチだった私が何故今ぶいつばーを見ていられるのか


1.はじめに

ペヤングです。最近何故かぶいつばーの配信を見ていられるどころか、普通にハマってしまい、ぶいすぽっ!の紡木こかげさん(オタクは人名フルネームでいいがち)のメンバーシップに入ってしまう始末です。

キービジュアル。可愛い。
ポスカも買えた。嬉しい。


もうお分かりかもしれませんが私は元々ぶいつばーが嫌いでした。今でも嫌いかもしれません。ぶいつばーの配信を見ている自分が客観的に気持ち悪いと思いつつ、YouTubeとTwitchを行き来する日々です。
※ぶいつばー好きな方をバカにする意図は全くございません。アイデンティティクライシスが起きているだけです。

そんな私がなぜ今ぶいつばーを見ていられるのか。なぜ元々嫌いだったのか。自分で自分の感情がわからず悶々としていたので、アドベントカレンダーで記事を書くというこの機会に乗じて、文字に起こすことでスッキリしようと思います。よろしくお願いします。

※ぶいつばーアンチから反転シンパになった自分を振り返るという文章の構造上強い言葉が時折出てきますが、先ほども申し上げた通り、過去の事実をありのまま書き記しているだけで人様の好きを否定する意図は全くございません。ご了承ください。

2.ぶいつばー歴振り返り

2-1.ぶいつばー黎明期

思い返してみると、黎明期のぶいつばーは割と見れていた気がします。キズナアイとか電脳少女シロとかは好きとか嫌いとかはなくとも見れてたし、猫宮ひなたは普通にゲーム上手いし双葉杏っぽくて可愛い~となっていました(これを機にふと猫宮ひなたのチャンネルに行ったら今でも普通に活動しててびつくりした)。下は最初期の猫宮ひなたの動画。古き良きぶいつばーという感じで懐かしい。


黎明期のぶいつばーは、ぶいつばーの哲学における「虚構的存在者タイプ」(山野 2023:88)の形態に近いものが多く、それまで親しんできた二次元キャラクターとあまり相違がなかったため、ある程度受け入れることが出来た印象があります。猫宮ひなたのプレイ動画が明らかに本人のものではないのにも関わらず受け入れられていたのも、中の人はあくまでアバターに声を当てているに過ぎないという認識だったからでしょう。

※グダるため参考文献に関する説明は省きますが、中の人とアバターを同一視するのが「配信者タイプ」、中の人はアバターに声を当てているに過ぎないとするのが「虚構的存在者タイプ」と私は解釈しています。

2-2.ぶいつばー転換期

2018年2月、ぶいつばーにとって大きな転換期が訪れます。それが「にじさんじ」です。にじさんじ一期生の月ノ美兎を始めて見かけたとき、ぶいつばーなのに素で喋ってんじゃん!!!と、悪い意味で衝撃を受けました。加えて、配信挨拶は「きりーつ!気をつけ!」というとってつけた様なロールプレイ。


ぶいつばーの中の人はアバターに声を当てているに過ぎないという認識だった私にとって、中の人の人間性が前面に押し出されたトークと、学級委員長の女子高生という中途半端なロールプレイの融合にものすごく嫌悪感を抱いたのを今でも覚えています。だって中の人の人間性が出すぎてどう見聞きしても女子高生じゃないんだもん。貼り付けた動画の方でも開始20秒で「キャラクターの崩壊が半端では無い」って言ってしまってますからね。

これ以降私は完全にぶいつばーアンチとなってしまうのですが、アンチになった最初のきっかけはこの中途半端なロールプレイと中の人の人間性の融合にあった気がします。ぶいつばーと言えばロールプレイというのが当たり前だった時代にいきなりロールプレイを排除するというのは難しかったのでしょうが、いっそあそこで中途半端なロールプレイをせずに、最初からガッツリ中の人の人間性だけで行ってくれれば、こんなに嫌悪感を抱くこともなかったんじゃないかなと、今になって思います。

それはさておき、そんな私の嫌悪感とは裏腹ににじさんじのような「配信者タイプ」のぶいつばーはどんどん拡大していきます。同時期に実装されたYouTube Liveのスパチャ機能も後押しし、ぶいつばーといえば「動画で中の人がアバターに声を当てたもの」だったものが、ぶいつばーといえば「ライブ配信でアバターを被った中の人が好き勝手喋るもの」へと真逆の形態変化を果たしました。

2-3.ぶいつばーアンチ期

ぶいつばーが形態変化をして以降、私は様々な理由をつけてぶいつばーアンチを展開していきます。その主な理由がこれです。

  • 炎上事が多すぎる

  • 気持ち悪いオタクが可視化される

  • 声優とのかかわりに対する謎の嫌悪感

一つ一つ振り返ってみます。まず第一に炎上事が多すぎること。今ではだいぶマシになった気がしますが、数年前は新興のコンテンツということもあり本当に炎上事が多すぎました。特に印象的だったのが夢○○アの件。普段ロールプレイしてたぶいつばーが個人のSNSで法的措置の経過を発信してる様子が流れてくるインターネットってどんな地獄なんでしょう。

次に気持ち悪いオタクが可視化されること。他のオタクコンテンツだと「公式」と「オタク」の間で一定の距離感がありますが、ぶいつばーは生配信をするという特性上、公式(ぶいつばー本人)にも、ひいては同類のオタクにも、オタクの声が届きやすい構造になっていると感じます。「それ自体を嫌いじゃなくても、それを好きな人が嫌いだからそれになりたくない」という気持ちでぶいつばーが嫌いになったのは大いにあると思います。スパチャ怪文書は初めてXで流れてきたときぞっとしました。

第三に声優とのかかわりに対する謎の嫌悪感。これは他人に理解されたりされなかったりするんですが、声優がぶいつばーについて言及したり一緒に仕事したりするのを見かけるととてつもない嫌悪感に襲われるんですよね。田所あずさが星○○○せいとラジオやる旨のツイートを見かけたとき、反動で田所あずさもリムりそうになったこともあるほどです。競馬界がウマ娘にすり寄ってるの見かけたときも同じ気持ちになるんだよな。今まで自分の感情を様々な言葉で説明してきましたが、この嫌悪感だけは本当に説明できません。説明できる方、お待ちしております。

2-4.ぶいつばー反転シンパ期

そんなこんなで5年以上ぶいつばー嫌いだった私ですが、今は掌を返したようにぶいつばーを見ていられる体になっています。こんな体になってしまったのには様々な要因があります。一つ目がXのおすすめ機能で流れてきた二次創作です。それがこれ。

元々逆張りオタクのぶいつばーアンチだったので、ぶいつばーの中でも卯月コウだけは普通に好きだったし、リゼ・ヘルエスタもゲームタイトルは合わないけど顔と声は良いんだよな~となっていた私に、この二次創作が激刺さりしました。(ぶいつばーアンチの残滓が残っているためぶいつばーのアバターを顔というのは本当に癪なのですが、ここでは便宜上顔と呼ばせていただきます。申し訳ございません。)語彙力のないオタクなのでこの絵を見たときの感情を言葉で説明することはできませんが、あえて言うならとにかくエモい。いまぶいつばーを見れている要因の3割くらいはこの絵の気がします。ありがとうおすすめ機能。ありがとう1220さん。ありがとうイーロン。

次はぶいすぽっ!を知ったことです。ヴァロラントを始めたこともあり、ぶいすぽっ!への動線が自然と確保されていた気がします。アンチ時代に動画でぶいつばーに被弾したときは作られた女の声流れて厳し~となってましたが、rionの動画で流れてきた英リサはめちゃくちゃ地声で汚笑いしてるし、普通に面白いしで全然見ていられました。この動画のおかげでぶいすぽっ!という箱を知って、今でもめちゃくちゃ見ています。

改めてぶいすぽっ!について考えてみると、中の人の人間性ありきでぶいつばーをやるように努めていると感じられます。「身近な女の子」という売りだし方をしていると言ってもいいでしょう。例えば、人外のアバターだとどうしてもロールプレイっぽくなってしまいますし、中の人との乖離が垣間見えて厳しくなってしまう時があります。「高校生」とか「○○歳」といった設定も同様。ぶいすぽっ!はアバターそのものに対してはあえて輪郭をぼかして、中の人の人間性によって後からアバターに輪郭を付随させているように見て取れます。あとは声を作ったりしている人も少ない。気がする。

先ほどの月ノ美兎の話でもあったように中途半端なロールプレイや、アバターに合わせて作った声に対して嫌悪感を抱いていた私にとって、がっつり中の人の人間性だけで活動しているぶいすぽっ!は私がぶいつばーを見ていられるポイントがよく抑えられていました。あとは人数が比較的少ないのも助かるポイント。にじさんじくらいメンバーが多いと大量生産大量消費という感じがして冷めてしまうんですよね。実際引退してる人の数も半端じゃないし。黛灰が引退したときは割とショックでした。

ぶいつばーアンチ期でもずっと聞いていた久遠千歳さんのCHO-DARI-です。原曲も歌声もMIXも良すぎる。

3.おわりに

こんな感じです。本当はもっといろいろ書きたいことがあったのですが締め切り過ぎてるし書きたいことが渋滞してしまって結局何が書きたかったのかわからなくなってしまいました。とりあえずぶいつばーアンチだった時代と今見ていられる理由については振り返ることが出来たので良しとします。このnoteもXと同じように私の備忘録として活用されることでしょう。

ぶいつばーという存在の特異性がある以上、都合の悪い事には目を向けないという姿勢が視聴者にも必要になってきます。年齢とか顔とか前世とか転生とか交友関係とか。スプラトゥーン出身の私にとって、胡〇〇〇の前世が〇〇〇〇し〇〇〇で紫〇〇〇の前世が〇〇〇〇っ!だという事実に被弾してしまったときは、まさに「中学生の時バカにしてたブスの女子が整形してアイドルをやっていることに気づかず好きになっていた」ような気持ちになりましたし、自己嫌悪から冗談抜きで顔を覆いました。それでもまだ普通にかわいい~って言いながら見ていられるのは都合の悪い事に目を向けていない以外の何物でも無いでしょう。整形前のブスな顔も知ってるのに推し続けてるの冷静に考えて気持ち悪すぎる。
※3回目になりますがぶいつばー好きを貶める意図はございません。

哲学研究者の山野弘樹は「『可能的にはVTuberである要素を実際に存在するVTuberとして見なす』という鑑賞者の態度を,本稿においては『シームレスな鑑賞』と名づける.」(山野 2023:94)としましたが、ぶいつばーを真に「可能的にはVTuberである要素を実際に存在するVTuberとして見なす」ためには都合の悪い事には目を向けない姿勢が必要となりますから、こういった都合の悪い事には目を向けない姿勢も「シームレスな鑑賞」のうちに入るといえるのではないかと思います。

花芽すみれさんです。可愛い。

私の「シームレスな鑑賞」が崩れたとき、それはぶいつばー反転シンパ期から、ぶいつばー反転反転アンチ期へと移行する時に違いありません。今は「紡木こかげ 誕生日記念2024 直筆サイン入りポストカード」が届くのが先か、私がぶいつばー反転反転アンチ期へと移行するのが先かのチキンレースを行っています。(余談ですが、ぶいつばーの直筆サインとか、配信に入る声以外の音とか、実践してないのでわかりませんが使ってる香水嗅ぐとか(?)って、ぶいつばーが”確かにそこに在る”って感じさせていいですよね。)

明日の私がぶいつばー反転シンパなのか、はたまたぶいつばー反転反転アンチなのか、楽しみにしながら毎日配信を見続ける日々です。それでは。

参考文献

岡本健・山野弘樹・吉川慧編,2024,『VTuber学』岩波書店.
山野弘樹,2023,「VTuber が VTuber として現出するということ アリストテレスの『デュナミス』および『エネルゲイア』概念の視座から」『哲学の探求』50:88-99.

参考文献です。大筋から外れてしまうので軽くしか触れませんでしたがぶいつばーの存在論とか歴史、運営会社のインタビューまで乗っていてかなり面白いので興味のある方はぜひ読んでみてください。あとオタクの皆さんはciniiなどの学術情報データベースで興味あるコンテンツについて検索するのおすすめです。そのコンテンツが学術的にどの様な研究をされているのか見るのも面白いですよ。

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