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騎士竜戦隊リュウソウジャー総括

騎士竜戦隊リュウソウジャーの1年間の感想。

この作品のテーマとは

1年間作品を走り抜けてみて私の感想を結論から言ってしまえば、今作のテーマは「人と人が交流していく中で成長し変わって行ける」ではないかと思う。

というのもリュウソウジャーのメンバーたちは誰もがヒーロー然としない部分を抱えていて、それを乗り越えて騎士として相応しい人格を身に着けていったという描写がかなり意図的にされていたからだ。

生来暴れん坊だったコウはアスナと交流していく過程で騎士道を身に着けメンバーを引っ張る立派なリーダーシップを身に着けた。
物語当初はマイナソーの宿主を躊躇なく殺害・破壊しようとしたバンバも1年間を経て丸くなった。
モサレックスも考えを改めて陸のリュウソウ族への嫌悪感を恥じ、協力に応じた。

そしてこのテーマに沿って最も尺を割いて描かれたのがナダであろう。

リュウソウジャーになりたかったのになれなかった。そして「なぜ自分では選ばれなかったのか理解はしている理性」と「それでもリュウソウジャーになりたいという劣等感」の葛藤にさいなまれガイゾーグという呪いに呑まれそうになったナダだったが、みんなの励ましにより自分に打ち勝った。
そして短期間ではあるがその呪いの鎧を自身のコンプレックスの克服の象徴に変えてリュウソウジャーになることが出来たのである。(残念ながら1話限りとなってしまったが)

「お前は自分で優しさを手に入れたんや。っちゅうことは、奪われても何回でも手に入れられるっちゅうことちゃうんか? それがお前の強さなんとちゃうんか?」(ナダ、26話)
少年コウ「優しさって生まれ持ってるものじゃないんですか?」
マスターレッド「違う。優しさは、大切な人が出来た時に、その大切な人を想った時に、手に入るものだ。」(26話)

この人と人が出会って変わっていくことの可能性がラスボスであるエラスの見せた「幸せな夢の中で永遠に生きていく」事を否定するカウンターとして炸裂する。

劇中でアスナが言ったように幸せな夢とは過去の記憶や(過去の記憶を基にした)願望に過ぎず、そこの中で見せられる幸せにはバリエーションが無いので、やがてストックが尽きて怠惰で惰性的な世界へとすぐに変貌していくだろう。

しかし醜い過去を背負い、つらい現実と歯を食いしばって生きていかなければいけないとしても、夢から覚めた世界には今までの自分が知り得なかった新しい世界・新しい可能性も同時に広がっている。

最終回の後の時間軸でトワは旅の中で新しい人と出会ってさらに成長していくだろうし、メルトとオトも他の騎士竜を探していく過程でもしかしたら交流が深まるかもしれない。

また変わっていったのはリュウソウ族だけではない、ドルイドンも、具体的に言うならばクレオンとワイズルーが物語の中で大きくキャラクターを変化させていった。

第1話においてコウを庇って命を散らしたマスターを嘲笑するように陰で見ていたクレオン、自分がエンターティナーとして目立つことを最優先として陰湿な行いをしていたワイズルー。

二人とも人情に欠けた悪役として序盤は描写されており、タンクジョーが撃破された後のコンビもお互いにお互いのことを考えてない一方的な関係性だった。

しかしクレオンはガチレウスという3人目の上司が余りにもクレオンの意志を尊重しない酷いパワハラ野郎だったので「ウザかったけど、ワイズルーは気遣ってくれたこともあるし彼と組んでた頃が実は一番楽しかったのでは?」と気付き、やがてワイズルーと強い関係で結ばれていく。

そして42話において、かつては嘲笑していたはずの身を投げ出して庇うという行為をクレオン自身がしていくという流れには思わず目頭が熱くなった。

ワイズルーもやがて「一番に目立つ為にはそれを見てくれる観客が必要だ」という理屈から曲がりながらも周りを気遣うようになっていき、そしてかつて心臓を握られたはずのプリシャスにも赦しを与えて3人でどこかに消えていった。

プリシャスも終盤のリュウソウジャーの正義性と対比させるために同情の余地がないような所謂外道キャラとして配置されていたが、上で述べたテーマに沿って彼もまたギャグっぽい流れに巻き込まれながら"あえて"生かされたのである。

そしてリュウソウ族はドルイドン族は同じくエラスから生まれ、「先に生まれたリュウソウ族は太古より身勝手で争いばかりしていた」という終盤で明かされた真実と「始めは愚かだったかもしれないが歴史の積み重ねの中で学び、騎士道を身に着けたリュウソウ族の気高き魂たちによって地球を守り抜いた最終回」の対比は上で述べたテーマに対するオチとしても実に整合性が取れていただろう。

しかしこの作品が特異的なのはシナリオのクオリティが1年を通して大きく成長し、作品自体がメタ的にこのテーマを語っているということである。

カブトの再来?

昨年度の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は快盗と警察による史上初のダブル戦隊の対立という大胆なフォーマットの解体を謳い、戦隊とは初めてとなるギャラクシー賞を受賞や脚本家の三谷幸喜氏が新聞の投書で激賞するなど丁寧なストーリー作りが所謂大きなお友達層から高い評価を受けた一方で、バンダイのスーパー戦隊IPの売り上げを前年度比で約半分にしてしまい、ジリ貧だった戦隊IPの財布事情に決定打を与えてしまうというおおよそ玩具タイアップ番組としては歪な形で幕引きとなってしまった。

これを受けて43作目となる「騎士竜戦隊リュウソウジャー」にチョイスされたモチーフは「恐竜」と「騎士」。

男児に高い訴求力を持つ鉄板のモチーフを二枚抜きで採用し(※)、故に制作側にとっても絶対に負けられない背水の陣の年であるのは誰の目にも明らかであった。更に明文化されてこそいないもののモチーフの再使用がだいたい10年周期とぼんやり共有されていたスーパー戦隊シリーズにおいて2013年の獣電戦隊キョウリュウジャーから6年で再び恐竜モチーフの戦隊(さらに言うならばモチーフの4度目使用も初である)という緊急事態ともとれる状態に大人の事情を理解している視聴者達も緊張感が走っていた。

(※)公式には子供人気で恐竜を採用したのではなく、昔っぽいスーパー戦隊を作りたかったからだとしている。

そして2019年3月、満を持してリュウソウジャーが放送開始される。

そして放送が始まってすぐにこの作品は何かおかしいことに気が付く、人間から毎話の怪人枠であるマイナソーを生成するのかと思いきや、実は倉庫で埃をかぶっていた箱庭のように怨念を抱えた無機物でも触媒になり得る設定が唐突に登場したり(実はマイナソー自体は太古より自然発生するという設定であり人間から生成するというのも厳密には誤り)、その箱庭がマイナソーの宿主と分かった途端に大事に飾ってやろうと思いきやリュウソウケンでぶった切る。また別の回では消防学生からマイナソーを生成したので敵の攻撃が火耐性を持つと言われたり、さらに実はその生徒は本当の夢は映画が作りたかったので幻影を見せる能力も持っているなどというオチ。極めつけはティラミーゴをフエソウルで分裂させて(贋作というよりかは意志を持った分身)片方に爆弾を呑ませて爆殺するなど、とにかくマイナソーの宿主の正体やその能力対策を巡るミスリードやミステリー調の話に対してオチがあまりも突飛だったり腑に落ちない展開が続くのである。

そしてそんなリュウソウジャーに対して「蛮族」とインターネットでは茶化されてしまうほどには彼らの言動はヒーローとして、もっと言えば一般常識としてもどこか外れたところがあった。

数話視聴してみて歴戦のニチアサオタクはデジャブに気が付く。このパターンはどこかで見たことあるのだ。

仮面ライダーカブトといえば仮面ライダー響鬼のお家騒動の後に制作された仮面ライダーであり「こんなの仮面ライダーじゃない」と黎明期から言われ続けられてきた平成ライダーシリーズとしては珍しくカブトムシを始めとする昆虫がモチーフというビジュアルの面では王道であった反面、ストーリー構成にはいまだ賛否両論がある作品である。

IPそのものが存続の危機という点と上で挙げたように恐竜と騎士という王道のモチーフだった点から一部でカブトになぞるような突飛な展開を(冗談として)期待されてたのだが、蓋を開けてみるとかなりの精度で実現してしまったというのが序盤の展開であった。

以下は6月ごろまでの私のツイートである

もうお分かりだと思うが、序盤の私は今作をつまらないと思っていた。しかしこのまま切ってしまうという手もあったのだがリュウソウジャーの放送後すぐにテレビ東京系列でプリチャンが始まるので30分開けてしまうのは微妙に手持ち無沙汰であり一応視聴を続けることにした。

荒川稔久先生参戦

主に初期のリュウソウジャーの作劇の巧くなかった点として要素の詰め込み過ぎを挙げておきたい。

スーパー戦隊を始めとするニチアサの番組はCMやOPなどの固定時間を除くと大体23分前後であり、時間の配分という観点を考えるとこの中でまずはスポンサーであるバンダイの玩具を販促しなくてはならない。次に残りの時間をドラマパートで埋めていくので、番組の個性とはこの残った時間に何を入れるか、言い換えれば「お約束」の中からどれを取捨選択するかにかかっていると思っている。

こんな中で序盤のリュウソウジャーは1話完結の方式を取ったのにも関わらず

・マイナソーの宿主の正体・所在、その宿主が怪物を作り出すほどの負の感情を貯める理由
・マイナソーの能力攻略
・眠っている騎士竜の捜索
・トワとバンバを仲間にする
・幹部格であるタンクジョーとの対決

などとにかく1話分の中でやろうとしていることが多すぎるのである。結果的にテンポが速いを通し越して早食いの様な展開となってしまい、主に宿主のドラマのオチが場当たり的になるという皺寄せを受けてしまった。

さらに王道を謳っていた今作だが、いわゆる巨大化要因が存在しない(マイナソーは宿主のエネルギーを十分に吸い取ると勝手に巨大化するので地上戦からロボ戦にシームレスに移行する)14話の時点で3人も脚本家が登板しているなど従来の要素を外した設定や体制も随所に見られたのが不安感を加速させた。

とにかく素材自体はドカ盛りで出てくるのだが、調理がされていないので味に調和が感じられない。そういったバランスの悪さが初期のリュウソウジャーが上手ではなかった点ではないだろうか。

そんな中15話においてベテランの荒川稔久氏が脚本を執筆することになった。

荒川先生が参加したタイミングは6人目としてカナロが登場した直後、つんけんしていたカナロが和解して仲間入りを果たす、いわゆるデレ回を担当した。

すると流石はベテランと言ったところだろうか、早速冒頭で宿主(科学実験系YouTuber)の所在と能力を冒頭に見せて、その後は宿主の話にはほとんど言及せずカナロがどのように警戒心を解いていくのかに尺を割いたドラマを見せてくれた。

続く翌週では完全にマイナソーは出さずガチレウスとの対決にコミットした話が展開された。

則ち、宿主のドラマパートを切ったことで他のパートに充てる時間を増やし大幅に見やすさが向上したのである。

ターニングポイント

すると三週後にシリーズ構成の山岡潤平氏が脚本として登板したが、これまた、冒頭に宿主と宿主の負の感情、マイナソーの能力を見せて終盤で少し言及するくらいで後は学校を闊歩するティラミーゴとメルトのいい意味でシュールな画面でほぼドラマパートが構成された。荒川氏に呼応するように山岡氏もリュウソウイズムを乗りこなし始めたのである。

個人的に第19話「進撃のティラミーゴ」がこの作品のターニングポイントだったのではないかと思う。

その後は
「封印を解くために命の危険に晒す目的でプテラードンを屋上から投げ捨てようとする。」
「セトーを召喚するためにメラメラソウルを老人に向ける。」
「精神攻撃効果を持つ霧をカワキソウルで物理的に剥がす。」
序盤で問題だと思われたトンチキな理屈や怪しい倫理観的な展開を騎士道正義を振るう熱いストーリーの合間に挿入するシュールギャグ的な作品の持ち味として開花させた一方、宿主に関してはモブ度を上げてほとんどドラマを見せないか若しくはギャグとして簡潔に扱うなど尺の配分がメキメキと上達し、序盤では考えられなかったほどに面白く、熱く、たまに笑えるような作品に成長していった。

荒川氏のテクニカルだった点はこういったリュウソウジャーのトンチキな理屈を筆頭とする突飛な要素を潰すのではなく、番組の持ち味として昇華させた事にある。そしてまたシリーズ構成の山岡氏を筆頭として他のライター達もリュウソウイズムを乗りこなして番組のクオリティをアップさせて行った点が正に「人は後天的に学び、変化できる」という作品テーマそのものを作品自体が体現してしまったのである。

コウ「俺たちは愚かかもしれない...でも」
メルト「俺たちは愚かだから学ぶんだ。」
アスナ「一人じゃダメでもみんなとなら乗り越えられる。」
トワ「俺はみんなと会って仲間の素晴らしさに気づけた。」
コウ「失敗することもあるだろうけど...」
バンバ「俺たちは何度でも立ち上れる。」
カナロ「今までの歴史を無かった事にするのはただの逃げだ。」
(48話)

まとめ

1年間の中で大きく遷移し独自の面白さを獲得した今作は、ある種のライブ感を上手に乗りこなしていく様子をリアルタイムで試聴していくことで大きなバリューを得た作品と言えるだろう。

IPの売り上げもまだまだ油断できない状態とはいえ危険水域を脱出したとの情報もあるのでひとまずは安心と言ったところだろうか。

1年間走り抜けたキャスト、スタッフさんを始めとする関係者に感謝と慰労の言葉で記事を締めさせていただく。

1年間ありがとうございました。

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