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暴太郎戦隊ドンブラザーズ総括
「井上敏樹が帰ってくる」
45作記念作品という区切りを終えようとしていたスーパー戦隊シリーズに届けられたのは驚きの初報だった。
井上敏樹氏といえば平成ライダーシリーズの初期を支えたベテラン中のベテラン脚本家である。
これを書いている私自身も物心ついて初めて視聴したドラマ番組は「仮面ライダー555」だ。
当時は怪人や人間で揺れ動く核心的なメッセージ部分はそこまで理解できるはずも無かったが、草加を中心としたドロドロした人間模様や使徒再生のホラーな描写は子供心ながらにダーティーに映ったし、初めて映画館に連れて行ってもらって観たパラダイスロスト(とアバレサマーはキンキン中!)では暗い劇場の中で繰り広げられるディストピア的ストーリーにテンションが上がったのを今でも覚えている。
つまりは私のオタク的なオリジンは井上敏樹氏の繰り出す人間賛歌の作家性に深く結びついていると言ってもいいかもしれない。
一方で最近はニチアサから井上敏樹氏の活躍を見る機会は減っていた。「ジオウのキバ編(2019年)」や「ディケイドvsジオウとジオウvsディケイド(2021年)」などにスポット参加はすることはあったものの、所謂ピンチヒッター的要素が強く、癖の強い内容になっていた。
この状況を踏まえてメインライター抜擢とはいよいよ最終手段に出たな…と、勘繰りをせざるを得なかったのが正直な当時の心境である。
さて、1年を通して暴太郎戦隊ドンブラザーズはどのような作品だったのかを私の感想として語って行きたいと思う。
「完全な存在」が「不完全なあり方」を肯定する
まずドンブラザーズとはどのような話だったのか。
記事を書いていてこのざっくりしたまとめからして非常に難しいと私は感じた。
例えば他人に作品を布教しようとして「騎士竜戦隊リュウソウジャーは恐竜をモチーフにした騎士の戦隊でさ...」って説明すればある程度のモチーフや騎士道っぽいストーリーなんだろうなということは十分伝わる。
そもそもスーパー戦隊は「○○戦隊△△△△」という名前のフォーマットで名は体を表す如く、ある程度は概要を理解できるようになっている(もちろん細かい部分は作品を実際に視聴したり、詳しく説明したりする必要はがあると思うが)。
では「じゃあドンブラザーズってどういう話?」と聞かれたらどうだろうか。
桃太郎をモチーフにした戦隊?
一般人が欲望で怪人化してそれを倒す?
今一つしっくりこない。
もちろん上で述べたことは事実であるが、これが作品をオススメするときに説明する事柄か否かは正直微妙でないだろうか。
"暴太郎"戦隊"ドンブラザーズ"という名前もさっぱりである。
ドンブラザーズは一話一話が完結性の強いスラップスティック・コメディの側面を強く持っており、ヒトツ鬼との戦闘は尺的にもスーパー戦隊のこれまでの作劇としては短く、おまけのような扱いなことが多かった。
ギリギリまでメンバーが全員集まらなかったことも含め、毎話毎話キャラクターの関係性が変化するすれ違いの群像劇であるために、全話通してどのようなメインストリームが通っていたのかを簡潔に説明することがとても難しい。
でも、あえて全話観た上で「ドンブラザーズってどういう話?」に対する回答を出すとするならば、私は「『完全な存在』が『不完全なあり方』を肯定するようになる話」としたいと思う。
上位存在である脳人は完全な存在であるが、それ故に人間の最初は不完全な営みを理解できなかった。
しかし、ソノイは桃井タロウと知り合って芸術を描けるようになるし、ソノニは犬塚と関わっていく中で恋を知るし、ソノザも漫画の編集を通して喜怒哀楽の感情を理解する。
この脳人たちの帰結として面白いところが、物語の序盤に示された彼らのゴール(絵が描ける・恋を知る・感情を理解する)に対して劇的なイベントシーンが用意されなかったところだと思う。
あまりにもヌルっと自然に彼らはいつの間にか人間臭い存在になっているのだ。
ドンブラザーズ全体に言えることだが、過程を濃密に描くのに対して結果は淡泊に提示される。
あんなに引っ張った犬塚の合流はソノニとの逃避行のドラマ性の前にあっさりと処理されるし、もはや脳人たちは人間を愛すということに関して偽りが無いですよ!としつこいくらい描いているので消滅したヒトツ鬼たちの救済は赦しの輪などというあまりにも身も蓋もないデウス・エクス・マキナになるのである。
しかし、あまりにも身も蓋も無く乱暴なのになぜか納得できてしまう――というよりあまり気にならないのがドンブラザーズの巧いところであり、それは上で述べたように「過程」に対して割いている尺があまりにも潤沢なので後は儀礼的でしか無いからと割り切っているからなのだろう。
そして、この「『完全な存在』が『不完全なあり方』を肯定するようになる話」というテーマはドンブラザーズに限った話ではなく、井上敏樹氏の手がけた作品全体に通じるメッセージであると思う。
巧たちは、完璧な新人類になることを否定して王を撃破して人間としての夢を持って幕を閉じるし、13の魔族の頂点は人間を愛し人間と共に生きる道を選ぶ。
完全よりも不完全の方が美しいし、楽しいし、面白い――そんな氏が何度も掲げた美学の到達点ともいえるのがドンブラザーズだったのではないだろうか。
井上:今回のジャンルはコメディだけど、視聴者にはドンブラザーズの主要キャラの誰かに「来週も会いたい!」と思わせたい。そのためには登場人物たちに少し弱点をもたせてやる。例えば主人公のタロウは完璧な男だけど、嘘をつくと死んじゃうくらいのバカ正直。そういう“かわいらしさ”みたいなものがあったほうが、人間くさくて人の心を掴むんだよ。強烈なキャラがあれば子供でもわかりやすいし、大人でも楽しめる。
例えるならば、一種の日常系作品のような小さなイベントの積み重ねがキャラクター同士の関係性に変化をもたらし、気付いた時には最初では考えられなかったような相関図になっている――「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」はそんな作品なのではなかったのだろうか?
「日常系」ってよく使われる言葉ですけど、それは何も事件が起こらない話という意味ではなく、どれだけ日常からかけ離れた世界であっても人である以上避けて通ることができない普遍的な日々の営み、それを通して変化していく心の機微や関係性に焦点を当てた作品を「日常系」と呼ぶのではないでしょうか。
誰かと出会うことによって、人は自分に秘められた新しい可能性を知り、成長することが出来るのです!
私は一人の先輩と出会ったことにより人生が大きく変わりました!
私は知ったのです。出会いが大切だと!
人生は出会いと別れの連続。でも最終回で記憶をリセットされたタロウとはるかが宅配を通じてまた出会うように、今生の別れではなくそれは「縁」として在り方を変えて紡がれていく。
井上氏が一貫して人間の泥臭いところを愛してきた作品性だからこそ日常系のような、ホームドラマのような、しかし明確に「スーパー戦隊的」な作品が生まれたのではないだろうか。
ロボット販促番組としての「スーパー戦隊」と娯楽番組としての「スーパー戦隊」
「井上氏が帰ってくる」という初報が驚きを呼んだのは近年のスーパー戦隊IPの売り上げが苦戦を強いられているという大人の事情を把握している人が増えてきたこととも無関係ではなかったはずだ。
プロデューサーの白倉伸一郎氏は昨年の「機界戦隊ゼンカイジャー」からスーパー戦隊の改革に着手していたが、しばし「スーパー戦隊はロボットを販促する番組」と提唱していた。
今放送してるこの枠って元々「コン・バトラーV」っていうロボットアニメからスタートした枠なんで、ビジネススキームとしてはロボットを売る為の番組というのが基本なんですよね
ゼンカイジャーではロボットそのものが戦隊のメンバーを兼ねることにより、キャラクターとロボットの同一化で売り出すアプローチを出していたが、これは白倉氏自身がTTFCの座談会で思ったよりも上手くいかなかった旨の発言をしていた。
そこで、ドンブラザーズではこの方針を更にドラスティックに推し進めることにしたのだろう。まずメンバーがたっぷりと尺を取ってスラップスティック・コメディでわちゃわちゃすることで愛嬌をたっぷりと視聴者に感じてもらい、そしてそのメンバーがロボタロウに変身することで一種のキャラクターグッツのようにプロモーションする。
例えば第21話において、ドンオニタイジンが完成したのが残り2分16秒で侍鬼が爆発四散するのが残り1分22秒というなんと1分未満しかロボ尺が無い。
玩具販促番組を長年視聴してきた私からは狂気としか思えないような構成なのだが、それでも玩具のドンオニタイジンが欲しくなってしまうのだから不思議なものである。
私は別にバンダイや東映の社員ではないので細かい出荷数や売り上げを正確に把握できている訳では無いのだが、Twitterで溢れたドンオニタイジン発売初日の完売報告や直近の決算報告書の戦隊IPの売り上げの持ち直しをみるに個人的な直感を超えて、実際売れているのだろう。
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ロボットを販促するために「ロボットそのものに加えて、ロボットに紐づいたキャラクター性」を強烈にプロモーションしていくという試みが、仮面ライダー電王をヒットさせた白倉氏から再演の如く出てきているという点がまた長年のファンとしてはノスタルジック的で面白い。
では、娯楽作品としてはどうだろうか?
毎週のようにTwitterでトレンド入りをするセンセーショナルな展開が続いて「ドンブラ中毒」なる言葉も生まれたりもしたが、根っこにある構図——戦隊≒バラバラなキャラクターが集まった集団というゼンカイジャーから掲げてきたコアの部分は変わらない。
ゼンカイジャーが名乗り芸やレジェンド召喚を駆使した「らしさ」を擦った作品なら、ドンブラザーズはその裏側からのアプローチを取る。
中々集まらなかったり、CGで等身大じゃないメンバーが居たり、「らしくなさ」を擦るという「大いなる型に対する挑戦」の二ヵ年計画だったのだろう。
型抜きをしたら、「抜いた型」も「抜かれた型」も同じ形を観察することが出来る。ゼンカイジャーとドンブラザーズはまさにそんな関係を持っている。
しかし、ドンブラザーズのそれは単なる逆張りではない。最後まで観れば「あぁ、戦隊だな」と思わせるようなご褒美がちゃんと用意されている。中々集まらないからこそ6人(+4人)が名乗る最終回にひと押し感動してしまう。
井上:『里見八犬伝』もそうなんだけど、ああいう作品は味方が集まるまでが面白い。集まっちゃうと……同じような話が続いてつまらない。あとはボスを倒すだけのストーリーになる。だからドンブラザーズは、味方がなかなかそろわない。そろいそうになった瞬間に、また誰かがいなくなる。そういう不安定な戦隊が面白いんじゃないかな?と思ってるんだよ。プロデューサーの白倉伸一郎とは、撮る前から「新しいものを作りたいね」と話していた。でもそれって、結局は陳腐ではない“面白い本”を書けば、自然と戦隊シリーズの枠から外れたものになるとも思う。
戦隊っぽくないはずなのにやはり戦隊っぽいのならば、ドンブラザーズに残った「縁」という連続的・相互的・喜劇的なテーマはより核心に近いスーパー戦隊の骨子なのかもしれない。
未来への投資はスーパー戦隊をどこに導く?
本当はこの記事は最終回が終わってホットな内に出したかったのだが、いろいろ忙しくて結局3月中旬に出す形となった。
折角なので絶賛放送中のキングオージャーの内容を踏まえてもう少し書きたいと思う。
間違いなくドンブラザーズは「面白い」し「名作」だと個人的には思うが、これは井上氏の作家性やそれを完璧にアシストした他スタッフ陣とのコンビネーション(特にパイロット監督の田崎監督は時間を操っているのではと思えるくらいの無駄のない映像を創り上げていて驚愕する)にバインドされていて、再現性があるかと言われたら結構難しいのではないかと感じる。
だから今後しばらくはドンブラザーズの個々の要素を観察して部分的に研究することでスーパー戦隊シリーズを発展させていくフェーズになっていくのではと考えている。
例えばキングオージャーでは潤沢なCGを使ってファンタジックな世界観を演出しているが、(もちろんLED背景スタジオへの巨額投資など他の要素も複雑に絡んでるのは承知の上だが)ドンブラザーズでキジとイヌのCGを粘って1年間続けて得られたハウツーを資産に是非とも1年間このリッチな映像が見たいものである。
また個人的に一番ドンブラザーズのフィードバックを感じてるのが、3話までのストーリーが基本的にアクの強い王様たちが集結していく過程を濃密に描いている部分だ。
そのためのキャラの人となりや王様同士の交流に大きく尺が割かれていて、バグナラク関連のシーンがヒトツ鬼の如く切り詰めて足早に終わるところは(Twitterで散見される王道の戦隊だ!のような声とは裏腹に)個人的には挑戦的な構図を感じている。
このあまりにも挑戦的で大胆な作品が後世の後輩達にどのように解釈されていくのか、私は非常に楽しみである。
終わりに
新しいスーパー戦隊との「縁」をこれからも生涯の楽しみにする為の土台として「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」は私の中でのマイルストーン的な作品となった。
はるか「私、ドンブラザーズになって前より人間が好きになった気がする!」
そして、私自身も現実で出会った「縁」を大切にして楽しく生きていきたいと思うのである。