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わたしを離さないで

提供者(の魂)=社会の遺失物
臓器提供のために作られており、彼らが「魂を持つ」存在だと、生い立ち・提供自体に道徳的問題が生じるため、社会的に不都合である。よって身体のみ存在している「ヒト」として、彼らの存在、ひいてはその魂(人格)は社会から故意に忘れられた。

人権が認められる対象…魂を有するヒト


 本作の主題の1つとして、昨今の臓器提供を称賛する風潮への警告が挙げられる。
 身体二元論的価値観を土台とすることから、西欧では特に、臓器提供への抵抗感が少ないと言われる。身体と魂は分離しており、魂が人の本質、逆説的に身体はただの物質に過ぎないとの見解が定説化しているのだ。しかし近年の医学の発展により、臓器提供技術が向上すると、臓器需要がヒートアップし、例えば発展途上国からの臓器売買が問題視されるようになった。

 このとき、レシピエントはドナーの何を重視しているのだろうか。全ての人は基本的人権を持つとされ、自分自身や他者の誰に対しても、人権を最も尊重すべきだと我々は教わる。だが臓器移植という場面においてはどうだろうか。ドナーに対して社会は、人権よりも臓器を尊重してはいないだろうか。
 作中世界は、臓器供給量の増大を模索する中で、ドナーの身体と魂が絶対的に区別され、前者を強調するために後者に蓋がされた社会だと考えられる。印象的な邦題は、主人公が気に入っていた歌詞が引用されたものだろう。「オーベイビー、ベイビー…わたしを離さないで。」主人公たちは、社会に住む我々や、社会的資源と扱われる臓器に対して、「わたし」を切り離さないで欲しいと歌っているのではないかと、私は思う。


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