名詞なしの固有なもの 『ヒノサト』
『ヒノサト』は、近年、濱口竜介『偶然と想像』などの撮影で知られる飯岡幸子の、2002年の監督作品である。
特定の人物が映されるわけではなく、ある土地の風景が点描され、おそらく誰かが書いた日記のような言葉が映し出され、その人の描いた絵がいくつかあらわれ、またその土地に返っていくように終わりへ向かう映画。
『ヒノサト』は、当時映画美学校のドキュメンタリーコースに通っていた飯岡の修了制作として作られた作品で、「身内を撮ってはならない」というルールを無視して自分の祖父をテーマに制作されたが(しかし実際に見てみれば巧妙に規定をすり抜けているようにも思える)、結果的には、是枝裕和をはじめとした当時の講師陣を納得させる傑作となった。
わたし自身もまた、この作品に多大な影響を受けた。商業映画、社会的・文化的なドキュメンタリー、もしくは実験映画やアート作品を作るわけでない自分にとって、『ヒノサト』はずっとひとつの「指針」だった。
初めて『ヒノサト』を見たのは横浜の馬車道で、2005年だったと記憶している。当時できたばかりの東京藝大の映画研究科の撮影前の顔合わせか何かで、現場に手伝いに行く予定だったわたしは、学生でもないのにその場に呼んでもらった。スタッフが以前作った作品とかそういうものをみんなで見ようという会だった。
何本かの作品を見たが、わたしはとにかく『ヒノサト』に度肝を抜かれた。それまでビデオで撮られた「自主映画」を本気で面白いと思ったことはほとんどなかったが、そんな区別を無効にするような強度が、その映画にはあった。
『ヒノサト』を見るとき、わたしたちは一体何を見ているのだろうか。
画面に映るのは、学校の廊下、住宅街の路地、バス通り、見晴らしの良い公園。具体的にはどこなのかわからない場所、誰なのかわからない人が、一見慎ましく見える画面のなかに、交代交代にあらわれる。
この作品を特徴づけているのは、白い背景に黒い文字で描かれる、誰かの日記のような一節である。「午後買い物。西瓜 さしみ。」「アンプが届く。今までのとよく似た音がする。」というような、どこにでもあるような、しかし絶対に読んだことのない文章。
わたしたちは、その言葉が持つ対象の不在に戸惑いながら、また画面に映った風景や人間たちをジッと見る。
字幕のサスペンスによって宙吊りになったわたしたちの視線は、カメラの前を横切る子どもたちの躍動する身体や、畑仕事をする老人の立ったまま折り畳まれるような姿勢、バス、公民館、風にそよぐ木々やゆらめく光を受け取る。
ただ歩いている人がこんなに動いているのか。止まっているものがこんなに止まっているのか。
なんの変哲もないどこかのまち、そこに暮らすひと。誰でもなく、どこでもないものが、こんなにも固有であることに、わたしは驚く。その驚きは、サスペンスへの一個の「解答」でもある。
彼らにもこの場所にも、映画に登場する人物、場面としての固有名詞は与えられていない。
「日記」のなかには、「何々さん」という名前が出てくる。『ヒノサト』というタイトルも地名ではある。しかし「何々さん」は(もしかしたらここに映っている誰かがその人だったとしても)画面にはあらわれないし、『ヒノサト』がカタカナなのもそれと同じようなことではないかと思う。
もちろん彼らは、実際には固有名詞を持って生きている。場所にも、すくなくとも住所や建物の名前があるだろう。しかし、カメラはそれをリセットする。カメラはそれらをすべて、単なる「見えるもの」に還元する。
わたしは、それらが見えていたことに驚く。ずっと見えていたはずで見えなかったものが、わたしたちの目に再び見えるものとしてあらわれる。
『ヒノサト』の画面に余白はない。そこには、固有名詞を免除された人や場所が、名前から自由になってただ一個の存在としてある。
映画のフレームは隅から隅まで、名詞なしの固有なものでみなぎっている。