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役(割)の向こう側 『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』

石巻・大川地区で撮られた2本の映画

佐藤そのみ監督『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』がフォーラム仙台で3月7日から公開される(3月11日には監督の舞台挨拶も)。
東日本大震災当時に中学生だった、石巻市出身の監督が自身の体験を元に作った二本、それぞれフィクションとドキュメンタリーの中編が併せて上映となる。

縁あって、わたしはこの映画の予告編を制作させてもらった。そういう意味ではいちおう関係者ではあるのだが、作品自体にスタッフとして関わったわけではないので、この機会に一観客として感じたことを文章にまとめてみたいと思う。

『春をかさねて』

劇映画である『春をかさねて』は、震災で妹を亡くした14歳の祐未が主人公だ。映画のファーストカットでは、和室に正座している少女と、彼女にカメラとマイクを向けるテレビクルーの姿が、真横から逆光のシルエットで左右対称に捉えられる。

この作品は「撮られること」についての映画である。震災によって突然「被災者」としてカメラの前に立たされることになった祐未の戸惑いや苛立ちが、思春期の心のゆらぎとともに全編を覆っている。
だがこの映画は「カメラの暴力性」といった決まり文句のイメージを、当事者の側から告発するような作品ではない。その点が、とても重要なところだ。

はじめて『春をかさねて』を見たとき、わたしは「嘘がない」映画だと思った。しかしそれがどういう意味か、自分でも判然としないままだった。
だが、予告編を作ってからもう一度そのことを考えてみると、なによりもまず画面に映っている人たちの佇まいそれ自体に「嘘がない」のだと気がついた。

主人公である祐未はもちろん、一見すると能天気に、すこし前のめり気味にも見えるボランティアたち、教室で恋愛話に興じる同級生のグループ、「まだ見つかっていない子供達がいる」と語る父、彼を沈鬱な表情で囲む見守る記者の集団、「妹の夢を見ていない」といらだつジャージ姿の親友……彼・彼女らの演技は、プロのように上手とかリアリティがあるとか、そういった類のものではない。「役者」と呼ぶことにも違和感をおぼえるけれど、その存在はやはり「嘘がない」というべきものだった。

冒頭で「妹さんの安否を知ったのはいつのことですか」と尋ねるテレビディレクターのか細い声が、とても印象に残っている。
それは「無遠慮なよそ者」の代表格としてのテレビマンの声ではなかった。彼らをもっと横暴な存在として描けば、「カメラの暴力性」を問題にして話はわかりやすくなっただろう。だがこの作品は、その道を選ばなかった。
「被災者」としての役割を負わされている主人公と同じように、テレビクルーもまた一個の「役」を演じている。望むと望まざるとに関わらず、役割を負わされたという点ではどちらも大して変わりはないかのようだ。

この映画は「役割」の向こう側にいる人間を映している。マスコミも、同級生も、ボランティアもみんな、エキストラのように映っている人すらみんな、そういう存在に見える。
『春をかさねて』には、たんなるリアリティとも、お芝居とも違う何かが映っている。人間を通じた、稀有で得難い瞬間がたしかに映像として焼き付けられている。

だが、それを実現するためには、なによりもまず演じる人が「役割」を押し付けられずにカメラの前に立っている必要があっただろう。
プロらしく演じたり、より良い自分を見せたり、無理に別のやり方をする必要はない。撮影現場に集まった人々がそのことを身体で理解していなければ、いくら物語が説得的であろうとも、結局、演じることは役割の押し付けに立ち戻ってしまう。

どうすれば「役(割)」を越えてカメラの前に立つことができるのか。何をもってしてそんな演出が、現場作りが可能だったのか。
その答えを、わたしはまだ知らない。だが『春をかさねて』という作品がスクリーンに映ったとき、それはそのまま一個の回答になり得るだろう。

『あなたの瞳に話せたら』

一方の『あなたの瞳に話せたら』は、劇映画ではなくドキュメンタリーとして撮られている。監督と友人二人が、亡くなった家族や友人たちに手紙を書き、それを読むという構成の作品だ。

東京で就職した親友が職場で働いたり、近所のバーに行ったり、あるいは地元に残った友人が津波で流された小学校跡を掃除したり、被災地ガイドをしたりする現在のようすが、映像として映される。
「震災から八年が過ぎ、みんなと少しずつ年が離れていきますね」と語られる手紙の言葉が切ない。大人になった彼らの姿に、止まってしまったもうひとつの時間が重ねられる。

たしかにドキュメンタリーではある。しかし「撮られること」の映画であるという点では、『春をかさねて』と一貫したものがここにある。

監督自身がカメラに向かって手紙を読み上げるファーストカットからして顕著だが、ほかにも例えば、東京のアパートで親友がベッドから起き上がるカット、小学校の教室に入ってきてあたりを眺める友人を、部屋の中から待ち構えるカメラなど、あえて「演出」しなければ映りようのない映像がいくつも使われている。

にも関わらず『あなたの瞳に話せたら』もまた「嘘がない」映画だ。だがそれは、この作品がドキュメンタリーであることとはまったく関係がない。上に書いたように、そもそも映画自らが「この作品はフィクションである」と語っているようなものだ。

三人は手紙を書き、それを読んだ。朗読は、繰り返しが可能な行為であり、つまり演技である。彼らは現実を生きながら、亡くなった人々のために脚本を書き、それを声にすることで「役割」を越えて、カメラの前で自分自身を演じたのだ。

「役(割)」の向こう側

「撮ること」は、映る人にある役割を押し付けることである。わたしたちは震災後、どうしてもそのことを思い知った。「カメラの暴力性」についての手垢の付いた議論がいつも虚しいのは、そこに現実がないからだ。もっともらしいことを話し合っても、結局は自己批判のポーズに終始してしまう。

だがそれを「カメラの前で演じること」によって乗り越えようと、映画の可能性を手探りで切り開いていった人たちがいた。佐藤そのみもまた、そのような意志を持った一人なのだと思う。

このような映画が生まれることは、わたしにはとても予想できなかった。作品が劇場公開されるまで五年かかったことは、ある意味で必然だったのかもしれない。

『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』の二本には、「役(割)」の向こう側にいる人間が映っている。
それは、わたしたちもまたそのように誰かを見ることができるかもしれないという、これからを生きる映画の希望だ。

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