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「動いているなあ」という感覚ーあまり早くに絵を見終わらないこと

※この文章は以前、美術家・菊池聡太朗さんの制作を記録した『void』という作品の上映に際して書いたものを再編集しています。また、作品の冒頭の5分間を予告篇として公開しています。

「絵」というものがよくわからない

『void』は、美術家・菊池聡太朗さんが風景画を描いている制作のようすを記録しています。

私は、以前から菊池さんの描く風景画が好きでした。
しかし、自分は「絵画」というものがよくわからないという自覚があり、なぜ例外的に菊池さんの絵に惹かれるのか、それもわからないまま、それがわかるかもしれないと考えて、撮影をさせてもらったように思います。

今回、自分が「絵というものがよくわからない」とはどういうことか、あらためて考えてみました。

「わからない」とはいえ、美術館に行けば、なんとなく良い絵だなとか、微妙だなとか、感想めいたものは思い浮かぶのですが、映画や音楽や小説のように心が動く感覚があまりないのです。

自分が絵を見ている体験を思い返してみると、そのことは「絵をすぐに見終わってしまう」という事実にあらわれているように感じます。

正直に言うと、私は一枚の絵をせいぜい10秒くらいで「見終わって」しまいます。
そのままなんとなく1分くらいは見ているフリを続けてみるのですが(別に誰も気にしていないでしょうが)、それはあくまでフリでしかなく、実際は何も見ておらず、感動しているわけでもないのです。

すぐに「見終わる」というのは、もちろん理解が早いということではなく、まったく逆に、絵画的なるものへの感性、知識、思想がない、ということでしょう。
「絵を見る」とは、色や構図を瞬時に情報として処理する動体視力的な速さではなく、むしろあまり早くに見終わらない力、感覚への負荷、適切な遅さに自分の身体をチューニングすることを意味しているのではないでしょうか。

私は、映画(演劇・音楽)的な受容、つまり、作品が固有に持っている物理的な時間のなかで受動的に内容を受け取るような仕方に慣れているので、絵画(写真・彫刻など)のように、それ自体は固有の時間を持たず、鑑賞側が主体的に、受け取る内容や順番を時間でコントロールしていくような作品の見方ができないのだと思います。

「動いているなあ」という感覚

では、そんな私がなぜ菊池さんの絵は例外的に「すぐに見終わる」ことなく、見ることができるのでしょうか。
もちろんここではっきりした答えが出せるわけではないのですが、映画のなかで菊池さんに話を聞いたとき、とても印象的な言葉がありました。

それは「動いているなあ」という感覚を描いているという言葉でした。
風景を見る時、自分はその全部は見えていない。ピントの合ったところしか見えていないけれど、視界の端っこのほうで何かがキラッと光ることがある。そういうことを描いている、というお話でした。

また、ある「場所」を描くということについて、自分が生きてきた時間にくらべ、場所に流れてきた時間のほうが大きすぎるということ、そして、その土地にまつわる過去の話を聞くと、今はなくなってしまったものを想像するけれど、描く時には、あくまで目の前にあるものを通して「ないということ」も含めて描く、というようなお話も聞きました。

編集をしながらこの言葉を何度も聞いているうち、私が菊池さんの絵を好きなのは(つまり時間をかけて見られるのは)、そこに「動いているなあ」という感覚があるからではないかと考えるようになりました。

絵は動きません。絵は映画と違って、固有の物理的な時間を持たないからです。しかし、もしその絵が表現しているのが、目に見えるような運動ではなく「動いているなあ」であったらどうでしょうか。

運動とは、変化のことです。微かな動きは、微かな変化のことです。変化しているものは、ほとんど動かないものであっても、動いています。

たとえば菊池さんの描くような「場所」に流れている、途方もなく長い時間は、それ自体が人間一人の尺度とは全くスケールの違う変化です。
つまりそれは、人間には知覚することができないほど、限界まで微かな「運動」であると言えるでしょう。

「考古学」的な視点

これはあくまで私の勝手な解釈に過ぎませんが、菊池さんの言う「動いているなあ」は、場所が折り畳んできた、なくなったものを含む数千年単位の微かな変化と、視界の端で、いま/ここで何かに反射した光の明滅を、等価な「動き」として受け取るような、運動=時間の感覚なのではないかと思います。

動かない絵のなかに、絵が動かないことによって描くことのできる運動=時間がある。それはいわゆる「人物画」には描けない時間でもあり、風景画であることの意味もそこにあるように感じます。

風景、つまり数千年かけて変化してきた「場所」は、何かがなくなってしまうという変化も含め、それ自体が一個の運動です。

あるいはそれを「運動」と見ることは、ある種の「考古学」的な視点であると言えるかもしれません。
「考古学」は、過ぎ去った遠い過去を想像する学問ではありません。想像でよければ学問にはなりません。それはむしろ安易な想像を許さない、目の前の現在を徹底的に凝視することによってのみ過去を見るような態度のことです。

それは、現在起きている物理的な現象であると同時に、「ある」によって「ない」こと、なくなったことを知る、見ている人の理解のことでもあります。
そこにないものも含めて現在を見ること、つまり時間=変化として動きをとらえようとする、そういう「考古学」的な視線が「動いているなあ」ということではないかと思うのです。

そしてそれは、ある種の映画の、カメラを通じて現在を見つめることの強度を信じるような視点にも通じているように、私には感じられます。

おわりに

菊池さんの絵には「動いているなあ」が描かれています。

「動いているなあ」は、現在を見る視線の、カメラにも通じる「強度」であり、だからきっと、私のように絵をすぐ見終わってしまうような人間でも、菊池さんの絵には「映画のように」時間をかけることができるのだと思います。

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