ヒナゲシも、風の花
風の花は、アネモネ。
ギリシャ語の「風 anemos」から
その名をもらって。
アネモネに姿を変えたのは
愛の女神の思われ人、アドニス。
イノシシの牙にかかって果てた美青年を女神は哭し、
神酒を注いだ傷口から、微風にさえ散る
”風の花”が生まれた。
でも、ヒナゲシも風の花。
猫のおヒゲがさわっただけで、
こんなにたやすく、花びらは花芯をはなれる。
アネモネの変身譚をつづったのは、
オウィディウスの華麗なラテン語詩だったけど、
ヒナゲシを語るのは、ふだん着のフランス語、
古い童謡「やさしいヒナゲシ Gentil coquelicot」を思わせる
ムルージMouloudjiのシャンソン。
「なんで、ヒナゲシ?」とたずねる友人たちに詩人はこたえる。
「バラやワスレナグサじゃなくて、ヒナゲシ…
わけを話したら、きっとわかってくれるよ」と。
* * *
ある夏の日、麦畑のまんなかで、
若い娘が眠っていた。白いブラウスの
胸のあたりに、そよぐヒナゲシ。
詩人は彼女を見初め、二人は激しく愛しあう。
彼女の胸に印された口づけのあと、
それとも、ヒナゲシ?
あくる日、娘は倒れていた。麦畑のまんなかに。
拒まれても諦めきれない若者の刃を受けて。
胸の血の数滴は、花のよう。
小さな村の大事件。
しばらくは騒がれ、噂になっても、
時を置かずに忘れられ、
娘の名を覚えている人は、もういない。
娘は花に姿を変えることもなく、
麦秋の野に群れて咲く
ヒナゲシたちの一輪に、
その面影を残すばかり。
彼女はしかし、生命の夏をたしかに生き、
愛して、そして逝った。
一輪のちっちゃなヒナゲシみたいに、ぼくの心の人!
ほんとに、とってもちっちゃなヒナゲシ。
Comm' un p'tit coqu'licot, mon âme !
Un tout p'tit coqu'licot.
バラやワスレナグサのように思いを伝える
洗練の言葉はもたないけれど、
ヒナゲシも、きっと
恋の花。
* * *
真夏を告げる風が立つころ、
”ねこじゃら荘”のヒナゲシたちは、
一年の眠りを夢見つつ
夕焼け色の紗の断章を
はらはらと零(こぼ)しては、
疲れた茎をしなわせる。
通りすがりの猫たちは
鶸色の胚珠のふくらみに
濡れた鼻先をそっと押し当てて
「おやすみなさい」のキスをする。
おやすみなさい、
また来年…。