懐疑論に懐疑する

 相関性への執着は帰納的見聞を甚だ重んじる現代人にとって如何にもその気質を表す側面であると云っても過言では無いだろう。一度、一元的思考の罠に嵌り、迎合の悉皆の介在のない馬耳東風と成ってしまった者は果してその連鎖的な渦に呑み込れていく。人間と云う生き物は叡智を以て生れ、其れに拠る産物を信条として掲げ、牢固たる繁栄を築き上げてきた。無論、万人が寸分違わぬ均しい定見や主義を手にする筈もなく、その互いに正当らしい御主義が、又も厄介な権力等と纏綿して容易くも同種間での諍いへと発展する。軈て彼等の血の流るるを見て初めて其の愚かさに気付く。そう云った一定の流れを我々は恐しく短い歴史の中で形作ったのである。その主義、信条が矢鱈のない因縁生起に基づいたものならば正義善悪の判断も容易いのだが、彼等人類と云うのは蓋然性に事足る証憑の存在の是非に及ばずとも、其の確乎不抜とした態度を歪むる事も無きままに気骨稜稜と主義思想を高々掲げるものである。近代におけるdogmaticな主義思想の発展と伝播、他国とは一線を画した経済システムを抱えた大国の勃興と退廃が其の主な例であるが、意外にも環境問題が其の一例として挙げられる事も多い。

  十九世紀初頭を淵源に始まった産業革命は、叡智を以て裸の彼等に文明の微醺を与えた。その驀地なる火脚を伴った科学技術の昂進は、あらゆる負の遺産をも生み落した。爆発的な成長と挫折の幾多の嚥下を繰り返す中で、気温の異常な上昇を察した彼等は、同時に二酸化炭素の奇怪なる増加にも嗅ぎ付く事となった。二酸化炭素の齎す温室効果は絶大であり、気温上昇による生活環境の存続の殆うきを悟った彼等は、かの産業革命による産物は同時に地球を窮するに及ぶであろう二酸化炭素を多く排出する装置でもある、延いては二酸化炭素を削減すべきで、其の使用を控え代替すべきである、と主張し始めた。彼等にとって彼等は恐らく地球の延命に対する尖兵であり、主義主張の目的達成の為ならば、後の世代の仲間に苦を強いたとしても致し方の無い事である、綿綿を絶たずんば蔓蔓を若何せん、とて海面の一方ならない上昇に苦を蒙る事となった人々の写真や、住処の無くなった憐れな禽獣の現状を大々的に今かとばかりに発信し、徹頭徹尾に完成したストーリー性を孕んだ美しきプロパガンダを世に流すのであった。彼等の望む未来 ── 克い環境としての最終形は万物の霊長の排除、地球を窮に追い遣る知的生命体の完全撤退である。  
 しかし彼等は、斯く知的生命体も又一つの生命である前提を放棄しているという事が、不可思議で詮らかなる撞着を孕んでいる事を忘れてはいないか。力や毒牙、大きさや敏捷性を捨て、代って他を凌駕する知能を以てして生存競争に勝つ選択を成功させた彼等が斯くべくして世を克くすると言った思考は、鳥瞰的に、客観視せんが為に世の中を広く見ようとしたばかりに畢竟自我を見失ったかの哲学者に似る。人類の為し得た生存選択は大いなる発展を遂げ、小動物が大型哺乳類を絶滅に追い遣ったのと同じく、繁栄に犠牲が伴うのは歴史の逸脱なりや?其の論を俟たない事を如実たらしめているに違いない。

 唯、本件の抱える障壁の最たる部分は、其の正当性を形作る慥な根拠が存在していない事にある。決して地球温暖化が人為的なものである事を否定しているのではない。注視すべきはその肯定論にも否定論にも双方を崩す証拠の悉皆が無いと云う事である。人類が排除した可能性の一つに、現在の温暖化が地球の活動により偶々其の周期上温暖になっている、というものがある。地球の数十億年と云う長い歴史の中には無論、肝も凍える程の寒冷な時期もあれば、溶けるほど温暖な時期もあった筈である。然らば其の周期的活動の中で現在が後者に当たるのみであると云う考え方も容易く出来てしまう。彼等が苦心惨憺たる研究により捻出し漸く突き止めた偉く御立派な物理的公式やら周期の大幅の予想と云うのは、彼等人類が繁栄してきたほんの数千年という活動期間をも完全に言い当てる事は出来ていない。地球温暖化に気付いてからまだ百年も経っていないのにも拘わらず、数十億と云う余にも長い地球の歴史を推測するにはデータが少な過ぎる為である。矢鱈と、天を回る夥しい星々を繫いで歓ぶ割には其の個々の秘めたる緻密な美しさを知らず、大層仰々たる艦隊を海面に並べる割には其の少し深く潜った処に何が眠っているかすら知らぬ彼等が、不揃いなイレギュラー性を孕む地球活動による温暖化を何故いとも容易く否定出来てしまうのか、甚だ奇怪である。しかし、そうと決め付け何も対策を講じないのならば、刻一刻と進む温暖化は留まる事を知らず現状より更に酷くなる危険性をも帯びている。故に人類は現状を人類自身の所為にする事に拠り何とか可能性を排除せぬように努めてきた。
 しかし、其れにより利益を得ている人間が存在するのも又確かである。我々の生活に便利なモノは二酸化炭素を多く排出する。一方、二酸化炭素を相対的に排出せぬ道具や方法も存在する。二酸化炭素の所為で地球温暖化が進んでいると云う事にすれば、こうした商品が売れ、斯く方法が自ずと提言される。二酸化炭素の過分な排出を愚かだと卑罵、論駁する事により却って都合の良くなる国家も存在する。地球温暖化を絶対的に食い止めようと咆哮する者の中には、それに拠り利益を得んとするエゴイズムを孕んだ存在も、ある。

 斯かる地球温暖化は、科学では証明しきれない政治的なものであり、我々は踊らされているだけなのだ!地球温暖化はその様な人間の創り出したプロパガンダであり、完全なる虚妄なのだ!
───そう叫ぶ者も又、二酸化炭素を排出する方法や道具を用いる事に拠り、利益を得ている人間なのかもしれない。彼等が謳う正義とは、果して地球の為や偽善に対する払拭では無く、畢竟汝らにとって何が善で何が悪で誰がヒーローで誰が悪者なのか知らぬまま、煌びやかに飾られ彩られたステージの上で演出されているだけに過ぎぬものなのかも知れない。正義とは、、、果してこの場に正義たるものの介在すら、赦されないのかも知れない。

 事実、世に溢れんばかりの主義主張は特定の人間のエゴイズムによって支配されている。俗衆やマスメディアを面白がる程に煽動し、私利私欲の血液に塗れ穢れた翼を背負う悪魔が、斯くして自らの手を汚しているのも又、拭い去る事の出来ぬ真相なのである。我々が手に取る事の出来る相関性を伴った情報やデータの中には、公明正大な情報の陰に隠れて、都合の良い様に切り取られ羨望と邪僻に包まれた所謂“謬見”も混じっており、その真贋の如何の判断に苦しむ現代人も多いだろう。凄まじい速度で進む大衆化、情報化する現状で果して何れの主義思想が詮らかなる論理的整合性を伴って居るか何ぞ我々には分かる筈も無い。分かる筈が無いと言うのが唯一の確たる解答なのである。そのパラドキシカルな連鎖は今も止む事を知らない。一つの理念が勃興すれば、確執が起こるのは不可避であり、一元的な主義に固執すれば、固定されたアングルは鞏固たるものと為り得る。黄金色の夕焼けを見る我々は、橙色に染まりゆく山肌の美しさを見る事は出来ぬ。寝床を目指す鴉の群れや、焔に包まれる鬱蒼たる森、次第に長くなる影が魅せる戯曲の神秘性から背を向け、西に傾く太陽が作り出す自然の芸術作品に魂を震わせる事は出来ないのである。我々は只管に海原の向うに叢がる雲を、焼き尽くす赫灼たる硝子球が辺りを血の色に染め水平線の遥か彼方に沈むのを、夕暮と云うのは何故美しいのだろうか、何とも素晴らしい絶景だ、等の常套文句を只、口を揃えて吐露する事しか出来ぬ。西に灯る太陽は必ず東側の大地を照らす。我々の求むるのは、大地を照らすべくして此処に意義を為し、仮令其れが耀く光輝く只の硝子球ならば、我々は何の神秘性も美しさも感じないであろう。
 世に起る幾多の問題は、その手を休める事を知らない。私のこの執筆の間も、また諸君が其れを読んでいる間も。

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