ボツ作品 (2020/7/17)

『ネタ帳』

 “不条理に豁如たれ”。世の不条理は存在と共に我々の意嚮に齟齬を生ぜしめ、仮令彼等の内に蛮勇なる者の顕現あれど、諸処で跋扈したる雑輩の、空疎なる迷妄を打破せん限り、条理の遂行には只管に横槍が飛交うだろう。さりとて其の御立派な正義感の矛先を定める頃には、他の正義の阻礙となろうから、一旦条理が全て定まった世界に産み落とされるのを望むのが良い。
 徒然を慰藉すべく、不条理の非在な世を想像してみるものだが、矢張り空虚なる世に現存の有象無象を推し当てるのも或る意味驕傲なもので、少々道理やら筋やらを一通り形作って遣らねば創造の滞りに拍車をかける様なものである。幾分かの寸劇あれど徒労を重ね世の道理とは何たるかを劃策するが矢張り趨勢を占める勢力に加担していたりで、必ず何れかの勢力の妥協を垣間見るのである。

 或る物事を為し得んとて幾許かの懊悩を経てみれば、必ずや何れの主義思想への邪佞、迎合の介在を目にするのである。

 悪弊を革めんとて虚勢を張れば、畢竟幾分かの妥協を挟むのは如何ともし難い事実である。

 其の現状を能う限り顧眄してみれど、貪婪な輩の猖獗への恐怖から妥協は必然と生まれるのである。

 大衆の意嚮を肯んじて一貫した正義に対する一蹶を挟めば、忽ち正義の信念は揺らぎ最早我々の求むる目的は存在を否定されてしまうのである。

 妥協は胸中に蟠踞する疑念の種となり、軈て肥大化した不信感は正義をも忽せにしてしまう。斯くたる正義を謳う者の中には、その信念の背後に隠れた悪魔の一翳が舌を出しているのである。
 正義のイデア等見当たらぬ荒地には、アプリオリに不可謬と信じて止まない各々の正義の四分五裂。さこそ惨憺たれ。甚だ麁陋にして完全ならざる者達は、彼等なりに御立派な帰納的知見に基いた演繹的法則を掲げ、さも不可謬なるが如く、世間では、一般に、常識では。と、御手製の薄い辞典の布教に暮れる。

 抑、世の条理なるもの、即ち高々と標榜された正義は、堆く積み上げられた瓦礫の上に鎮座して我々を見下ろしている。しかし其の麓には夥しい幾つもの無念が積み重なっている事を忘れてはならない。其の幾人もの死体が転がる過去を見た者の中には、何たる野蛮な事か、怪しからんとて、即刻取り毀さんと鉄槌を掲げる何ともまあ英邁な風雲児が顕れるだろう。しかしながら其の勇者が塔を取り毀す為に拵えた踏み台も其の辺の死体によって造られた物と知った途端に、鷹の声を聞いた野良鼠の如く逃げ去るに決まっている。果して誰かがその塔の足元だけを見て、頂に腰掛ける正義の存在に気付かずに毀していたら如何ならんや。彼等は其の後、塔の崩れた瓦礫を漁り、骨組みを造り又其れを土台に彼等なりの正義を打ち立てるだろうが、其れは最早論を俟つものではなく、正義も元居た正義の残骸から成っているのである。かくして又歴史は繰り返されて行くのだろう。

 謀らずも概念的、形而上学的な妄想に耽って居たが、抑として不条理自身も哲学の匣の中に其の身を置いている。この世に意味を見出さんとする人類の努力は惜しくも最終的には失敗すべしと謳われている。テルトゥリアヌスの言とされる“不条理なるが故に我信ず(credo, quia absurdum)”に表象される如く、理性による解釈を排斥する基督教下に於いて、論理学の如何に拘わらず行為自体を不可能に帰す捉え方には感嘆を匿し難い。実存主義に注視すれば其の意嚮を汲み取る事は実に容易いゆえ、彼等は不条理の持つ倫理的美学的次元を探究した。“不条理”の形容は其の不完全さこそが将に完全体たらんと主張し、完全無欠の権化は其の存在と共に自身の孕む撞着に懊悩し、取り巻く柵によって軈て死に至ると説いた。概念的な死こそが、不完全と云う完成形を実現せしめたとも形容せらる。ゆえに世に猖獗する不条理こそが根本的な条理であり、又同時に無根拠である事が定義された。人間による飽くなき条理の追究は其の確たる存在を無からしめ、其れを受け入れる事の出来ぬ者、即ち条理の存在を頑なに信ずる者は、顕現する意味のない__自身の持つ不調和__によってdilemmaを生み出す。カミュは其の著『シーシュポスの神話』の中で、不条理を克服する為の対抗として自殺を挙げた。己の消滅によってこそ、囲繞する撞着から離れらると説いた。

 宗教への盲信や形而上学への逃避も又哲学的自殺として定義されている。宜ならんや。カミュは対抗策として本質的に不条理を受け入れる方法を掲げたが、キルケゴールによって、“悪魔に取り憑かれた狂気”と揶揄、論駁されている。斯かる形而上学的な定義と対峙方法に於かばのべつ幕なしに論うには枚挙に遑がないだろうから茲には此れより上記さぬものとする。
 形而下に起る有象無象は前述の通り幾多の不条理を孕む存在として四散している。冒頭の一文は其の実状に直面した時、如何に宥恕出来るかを重んじて標榜するものである。

 哲学は幾年古来より一切の衆生隔てなく思惟せらる学問にして、形而上学的思想の源泉は少なくとも数字の発案される前から論われて来た筈である。されど数学の如き絶対的公式の存在せざるは、甚だ疑念に駆られる話である。前述が如く、不条理に楯突く事が出来ないのは真理不可謬たる事実である。されども万人は思惟の止まるを知らず猶更に拍車を掛ける。答えの無い学問は逆説的に否定の論拠も無いわけで、根拠の無い否定を謳うが蛮行なのは明らかである。関数や幾何学的命題に代表される公式は形而上学的疑問や哲学的諸名辞とは異なり確たる公式が存在する。数は一概念ゆえ諸名辞に内包されるが、定義付に於ける共通認識の固定化と言う点で独立している事に気付けるだろう。ゼロで割る事は出来ず、乗除を先ず計算する等の定義たる概念は哲学には無いと看做されるは誠なりや?諸名辞は果たして共通なる定義は存在しないのか。否、蓋し哲学的定義は、確たる絶対性を孕む公式は、成立している。

 諸名辞の異論を異論たらしめる素因は、言語的理解の角度的齟齬、定義の解釈としての不整合、言語文化的歴史的背景から来る翻訳の不具合、範列的関係の配列差等が挙げられる。宗教学に於ける定義付けは、双方の斯かる公式をさも不可謬の如く形而下の有象無象に普遍たらしめんとする誤謬を孕んでいる。本書では以下に斯かる事象を包摂的定義付けすべく論理を標榜するものであり、超元的支配下に帰依を強要するものでは無い。


本当はここからばーって書く予定が、ネタがまとまらなく諦めたので供養します

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