【春秋戦国編】第9回 牙を剥く虎狼の国 その3【流血成川 殺された四十万人】
便所の屈辱
中央集権的な国家運営を行っていた秦ですが、当然貴族が存在しなかったわけではありません。昭襄王の即位に功績のあった魏冉は特に強大な権力を誇りました。
昭襄王即位後30年以上も権勢を恣にした魏冉とその一門ですが、当然終わりの時はやってきます。新たに魏からやってきた范雎が王権を脅かす者として、昭襄王に魏冉一派の排除を進言しました。
魏冉は自身の領土拡大のために軍事行動を起こすことがあり、昭襄王の生母で魏冉の妹である宣太后も政治に口出しするなどしていたため、彼らを疎ましく思う者も決して少なくありませんでした。
魏冉一派は函谷関の外に土地を与えられ、秦の中枢から追放されてしまいました。紀元前266年のお話です。魏冉は中枢から排除されたものの、命はもちろん財産の没収などもなく比較的穏当なものであったと思われます。
魏冉を排除したあと秦の中枢を担うのは范雎です。
彼は元々魏の貴族に仕えていました。ある日主人に付いて斉を訪問した際、范雎は弁舌を評価され斉の王様からプレゼントを贈られるということがありました。范雎は丁重にプレゼントを断りましたが嫉妬を覚えた主人は、
「斉王が范雎に贈り物をしたのは機密情報を漏らしたからではないか」
と魏の宰相に讒言しました。激怒した宰相はことの真偽を確かめもせず范雎を拷問にかけます。
骨が砕けて歯も折れた范雎は更に簀巻きにされて便所に放り込まれてしまいました。范雎は見張り番になんとか助けてほしいと懇願します。見張り番も流石にドン引きしていたようで、范雎が死んだので死体を片付けたいと嘘の報告をして彼を助けました。
生き延びた范雎は名前を張禄と改め秦に行き昭襄王に仕えるようになりました。
遠交近攻
魏冉派閥を政権から追い出す以前から范雎は遠交近攻策を提唱していました。秦からみて遠方である趙・斉・楚・燕とは友好関係を結び、近くにある魏・韓を攻撃するといった外交戦略です。
今までは魏冉のような権力者が自分の都合で出兵し、領土を獲得するということがありました。しかし、范雎の遠交近攻策によって秦はより戦略的に他国への侵略を行うようになりました。
仮想敵国に魏が含まれているのはもちろん私怨もあるでしょうが、戦略的にも他国と組んで魏を攻撃すること自体は合理的な判断ではあると思います。
紀元前262年秦の将軍・白起は韓の都市・野王を攻略します。野王は現在の河南省の西北部にあり、首都の新鄭と上党地域・現在の山西省方面をつなぐ中継地点でした。
野王陥落により、上党地域は飛び地になってしまいます。韓の首脳陣は上党の維持をあきらめて秦に割譲して和睦を結ぼうとしますが、この動きに上党の住民たちが反対します。
当時の秦は厳格な法によって管理され、さらに農業を奨励して商業を制限されていました。それに対して韓は各都市が独自のルールをつくり、商業ネットワークを構築することで経済発展をしていました。このため上党の住民が秦への帰属を拒否したと考えられます。
上党の住民は分断された韓ではなく、国境を接する趙に帰属を申し出ます。趙は当時、廉頗、藺相如、趙奢を従えた恵文王から、その息子・孝成王に代替わりしていました。
孝成王と恵文王の弟で趙の重鎮であった平原君は上党の帰属を受け入れます。タダで領土をゲットできるチャンスなので、理解できないわけではありません。
しかし、上党を領土に組み込むことは秦から領土を掠め取った形になります。趙は秦との全面対決をせざるを得ない状況に陥ってしまいました。
柱に膠して瑟を鼓す
紀元前260年、秦の将軍・王齕が上党を攻撃し攻略に成功します。上党の住民は趙に避難したため、王齕はこれを追撃。この動きに対して趙は廉頗を将軍として派遣します。
両軍は国境を越えた長平という土地で対峙することになります。
この時趙奢は既に亡くなっており、藺相如の病床に臥していましたが、廉頗はいまだ健在でした。数度の戦闘で趙軍は敗北しますが、大崩れすることなく持久戦の構えを取ります。
長期戦になれば国内で戦う趙軍が圧倒的に有利であり、廉頗は守りを固め秦軍を足止めしました。
持久戦の不利を悟った范雎は趙首脳陣への工作を開始します。
「秦が本当に恐れているのは老将の廉頗ではない。亡き趙奢の息子で、兵法の天才と名高い趙括である」
このような噂が趙国内で広がります。
閼與の戦いで秦軍に勝利した名将・趙奢には趙括という息子がいました。趙括は兵法の議論で父を言い負かすほどの知識の持ち主で、実戦経験はないものの天才児として有名でした。
趙の孝成王は地味で慎重な持久戦をする廉頗を更迭し、若くて勢いのある趙括を総大将にしようとしました。しかし、この決定に反対する者がいました。
一人は病床に臥していた藺相如です。
「趙括を将軍に起用することは、楽器の調節部品を接着剤で固めて演奏するようなものです。彼は父の戦いを記録の上で知っているだけで、現場での対応を知りません」
また、趙括の母親もこの人事に対して反対しました。
「私は名将・趙奢の妻として将軍の在り方を見てきました。夫は部下を大切にし、戦うとなると私事を顧みませんでした。しかし、息子は部下には威張り散らして私財を蓄えることばかり考えています。
息子は夫に遠く及びません。
どうしても息子を将軍にするのであれば、失敗しても残された家族に責任が及ばないようにしてください」
孝成王はこれらの反対意見はすべて却下し、廉頗に代わり趙括が秦軍と戦うことになります。
そして同時に秦軍も総大将が変更されました。ただし、こちらは敵に悟られないように密かに交代が行われました。
王齕に代わって総大将に起用されたのは白起でした。
最強VS最弱
白起は名将と評価される人物ですが、好敵手との名勝負や奇跡の逆転勝利と言ったエピソードは特にありません。ただ、記録に残る全て戦いに圧倒的に勝利し続けただけです。
勝ち目のない戦いはしない傾向があり、一見有利な状況でも敗北の気配を正確に察知する能力に長けていました。逆に勝てると判断した戦いは必ず勝利し、多くの敵を虐殺してきました。
白起という必勝必殺の切り札を切った秦軍の対して、趙括は総攻撃を仕掛けます。白起の偽装退却に対して深追いした趙軍は隊列が伸びた所で秦軍の奇襲を受けます。分断され、指揮系統が消滅した部隊が戦闘を行うことは困難です。各個撃破された趙軍の敗残兵は長平城に立て籠もります。
白起は長平城を包囲。さらに秦本国からは国内の予備兵力を投入して長平城の食糧供給を完全に遮断します。そして昭襄王自身も前線に赴き将兵を激励するという総力戦の構えを取ります。
46日間の包囲の末、趙括は秦軍に対して決死の突撃を仕掛けますが、弓矢による反撃で趙括は戦死します。兵法の天才と呼ばれた男の最期の策とは『死ぬ気でがんばる』でした。
史記や資治通鑑には40万人の趙兵が秦に降伏したと記述されています。しかし、廉頗の仕掛けた持久戦により秦軍にこれだけの捕虜を受け入れる余力はありませんでした。そして、上党の住民が強固に反抗してきたという経緯もあり、白起は恐るべき決断を下します。
若年兵240人余りを趙に帰し、残りを40万人を虐殺しました。
さすがにこれは話を盛りすぎだろうと、昔から言われてきました。しかし、近年虐殺を裏付ける人骨群が長平周辺から次々と発掘されています。
写真は山西省の高平市人民政府HPからの引用です。人骨”層”というのがヤバい。
秦一強の時代
長平の戦いにより趙の力は一気に衰退していきます。更にこの時期に藺相如が病死してしまいます。そして孝成王から嫌われた廉頗も趙を去ります。廉頗はその後諸国を放浪し、楚で亡くなります。
秦は長平の戦いの後、趙の首都・邯鄲を包囲します。しかし、白起はこれに反対して戦いをボイコットしてしまいます。
廉頗の持久戦による戦力の低下。邯鄲城の防衛能力。そして、趙の救援に駆け付けた魏の信陵君と楚の春申君の力量。そして白起の不在により秦軍は邯鄲攻略に失敗し、本国に撤退します。
大功を挙げた白起ですが、上記の様な勝手な行動も多かったため昭襄王や范雎から疎まれるようになりました。
紀元前257年、白起は昭襄王から賜死、つまり自害の強要を受けます。白起は剣を手にし、
「私にいったいどんな罪がある。
いや、長平で投降した趙の兵士を殺戮した。この事だけでも十分だ」
そう言い残して自ら命を絶ちました。
范雎はその後自ら引退を申し出、天寿を全うしたと史記にあります。
しかし、1975年に発見された史料『睡虎地秦簡』には紀元前255年に范雎がかつての恩人の罪に連座して処刑されたと思われる記述があります。
紀元前256年、秦の将軍・嬴樛が滅亡寸前であった周を攻撃し、周は秦に降伏します。翌年、王者の証である九鼎も秦に接収されました。
これを以っておよそ800年間続いた周は滅亡したとされます。
昭襄王は紀元前251年に死亡します。在位56年、75歳でした。
息子が孝文王として即位しますが、昭襄王は非常に長命であったため孝文王も既に当時としては高齢でした。孝文王は即してから3日で死亡します。
孝文王の後を継いだ荘襄王もわずか3年で死去します。そして荘襄王の息子が14歳で秦王に即位します。
この少年王・嬴政に秦王としての諡号はありません。一般的に彼は『始皇帝』と呼ばれます。