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【東西両漢編】第4回 粛清の嵐

北方の覇者

 紀元前202年、垓下がいかの戦いで覇王・項羽こううを滅ぼした劉邦りゅうほうは皇帝となりました。現代を生きる我々からすると特に驚くようなことではありませんが、当時の人達からしたら衝撃だったでしょう。我々からすれば、『皇帝』も『覇王』も昔の偉い人の称号で、それ以上でもそれ以下でもありません。
 しかし、『皇帝』とは唯一無二の支配者で中央集権国家の象徴であり、『覇王』とは封建時代の力の象徴である『覇』と徳の象徴である『王』を合わせたものです。2つの称号の持つ意味は全く別物、というか真逆の意味を持つのです。
 『皇帝』を名乗るということは中央集権的国家運営を行う意思表示であり、『覇王』を名乗るということは封建社会を引き継ぐという意思表示です。この事は、春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代や項羽の目指した封建ほうけん社会ではなく、始皇帝しこうていの中央集権国家を目指すということです。

 一方、しんの支配が短期間で破綻したのは事実であり、秦の模倣をすればよいというわけではありません。実際の問題として、韓信かんしん彭越ほうえつ英布えいふといった実力者は半独立勢力として健在でした。また、臧荼ぞうと韓王信かんおうしんといった項羽によって王に建てられた者たちもいました。
 劉邦は首都・長安ちょうあんを中心とする直轄地を郡県制ぐんけいんせいで支配し、地方を功臣や一族を諸侯に封じる封建制を敷きました。郡県制と封建制ハイブリッドであるこの制度を郡国制ぐんこくせいといいます。

 郡国制でスタートした漢帝国ですが、劉邦と相国しょうこくとなった蕭何しょうかはより強力な中央集権国家を目指します。つまり、諸侯の排除です。
 当時、諸侯王の中で劉氏ではない王は7人いました。
 楚王・韓信
 梁王・彭越
 淮南わいなん王・英布
 燕王・臧荼
 韓王・韓王信
 趙王・張耳ちょうじ
 長沙ちょうさ王・呉芮ごぜい
 韓信は元々斉王でしたが、項羽の後釜として故郷である楚の王になりました。一見すると栄転のように思えますが、70の都市を擁する斉と比較して楚の都市数は50程度と規模が小さく、国力は斉に劣りました。この人事は、韓信という強大な存在を抑えるための戦略だったと考えられます。

 劉邦が皇帝となった紀元前202年、その年のうちに燕王・臧荼が反乱を起こしますが、この反乱はすぐに鎮圧されます。臧荼は韓信が背水の陣で趙を打ち破った後に服従してきた人物なので、元々劉邦とは距離のある立ち位置でした。

 臧荼の反乱制圧後、韓信が反乱を企んでいるとの噂が発生します。韓信をまともに討伐するわけにはいかないので、陳平ちんぺいは巡幸中の劉邦に挨拶に来たところを捕縛してしまいます。項羽死後楚王の座を引き継いでいた韓信ですが、淮陰侯わいいんこうに格下げされてしまいます。

 紀元前201年に北方で異変が発生します。モンゴル系の騎馬遊牧民族である匈奴きょうど冒頓単于ぼくとつぜんうというカリスマ指導者のもと漢の領域へと侵攻してきました。これに対応したのが、韓王信という人物です。国士無双の韓信とは同姓同名なので、一般的には韓王信と呼ばれます。張良ちょうりょうの祖国・韓の王で楚漢戦争では最初期から劉邦の味方をしていた人物です。この韓王信は冒頓単于に敗れ投降してしまいます。
 一大事と判断した劉邦は32万の大軍を率いて匈奴討伐に向かいます。匈奴軍の先鋒を見事打ち破った劉邦でしたが、勢いに任せて追撃したところ白登山はくとさんで匈奴の精鋭部隊から奇襲を受け孤立、包囲されてしまいます。
 絶体絶命のピンチでしたが、陳平が冒頓単于の妃を説得します。
「漢の皇帝が捕虜になったら何としても助け出そうとするでしょう。きっと都会のオシャレな美女が大勢送られて来るに違いありません。そのとき、冒頓単于のあなたへの愛は変わらないでしょうか?」
 相手の嫉妬心や疑念を煽ってコントロールするのは陳平が最も得意とするところです。匈奴の妃は冒頓単于を説得し、劉邦は九死に一生を得ますがこれ以降漢は外交面で匈奴に対しては忍耐の時期が続くことになります。

 紀元前199年、すでに死亡していた張耳の子、趙王・張敖ちょうごうが劉邦暗殺未遂の疑いで捕縛されます。彼は直接暗殺計画には関わっていませんでしたが、彼の部下が暗殺計画の首謀者であったことから王から降格処分となります。劉邦と呂雉の間に生まれた娘・魯元ろげん公主こうしゅを妻にしていたことも降格で済んだ一因でしょう。

走狗たちの末路

 紀元前196年陳豨ちんきという人物が反乱を起こします。この反乱は劉邦自らが討伐に向かい、樊噲はんかい酈食其れきいきの弟・酈商れきしょうの活躍により鎮圧されますが、この反乱に淮陰侯に格下げされていた韓信が関わっていたことが発覚します。
 劉邦不在の首都・長安でそのことを知った劉邦の妻・呂雉りょちは蕭何に相談します。蕭何は反乱がまだ鎮圧されていない段階で
「陳豨の反乱は失敗した」
と、発表します。そして蕭何は韓信に反乱鎮圧の祝辞を言いに来るよう伝えます。仮に、これを言ったのが張良や陳平であれば韓信も警戒したでしょう。しかし、蕭何はかつて自分の身分も顧みず韓信を引き留め、劉邦に推薦した人物です。他の誰が敵となっても、蕭何は自分の味方と考えていたのでしょう。
 韓信は蕭何の元を訪れ、そして殺されました。
 死の間際、自分に第三勢力として独立するように助言した蒯通かいとうの言葉を思い出した韓信はこう呟いたとされています。
「あの時、蒯通の言葉を聞き入れていればこうはならなかっただろう」

 陳豨の反乱鎮圧後長安に凱旋した劉邦はこの段階で、初めて韓信の死を知りました。当初は嘆き悲しんだ劉邦でしたが韓信の最期の言葉を知り激怒します。蒯通を逮捕して処刑しようとしますが、蒯通は堂々とこう述べます。
「誰もが天下を争ったあの時代、主君のために策を献じることの何が罪ですか」
 その言葉に納得した劉邦は蒯通を釈放しました。

 韓信が死んだ紀元前196年、りょう王・彭越ほうえつが謀反を計画しているとの讒言があり、彭越は劉邦に捕縛されました。劉邦は戦友でもある彭越を死刑ではなく流刑にしようとします。しかし、呂雉がこれに強硬に反対します。最終的に呂雉の意見が通り、彭越は処刑されます。そして彼の首はさらし者にされ、残った体は切り分けて塩で防腐処理されたあと各地の諸侯に送り届けられました。見せしめという訳です。
 その後、彭越の部下だった欒布らんふという人物が彭越の首を勝手に埋葬してしまいます。劉邦は欒布を殺そうとしますが欒布はこのように言いました。
「彭越様がいなければ項羽に勝てなかっただろう。それなのに確かな証拠もないのに殺してしまうなどみんなどう思うだろうか。彭越様が死んだ今、生きる理由もない。殺したいなら殺せ」
 欒布の言葉に思うところがあったのか、劉邦は欒布を処刑することなく釈放しました。

 劉邦自身がこのような粛清をどう捉えていたのか、その心情について記録はありません。しかし、韓信や彭越の死後の対応を見るに思うところがあったのではないでしょうか。

猜疑心の虜

 韓信、彭越の死に一番危機感を持ったのは英布でした。粛清を恐れた英布はついに反乱を決意します。
 韓信、彭越亡き今、単独で英布に戦える武将はいません。劉邦自らが親征して英布と戦うことになりました。灌嬰かんえい、陳平、酈商に加え、従兄弟のけい王・劉賈りゅうか、弟の王・劉交りゅうこう、息子のせい王・劉肥りゅうひと補佐役の曹参そうさんがこの戦いに参加しました。漢が現状動かせる戦力を可能な限り動員した形です。

 歴戦の猛将・英布との戦いは熾烈を極め、劉邦の従兄弟である荊王・劉賈は戦死、弟である呉王・劉交は敗走し、劉邦自身も重傷を負うことになります。それでも国力、兵力で勝る劉邦軍は英布軍を撃破し、英布は敗走中に地元の住民に殺害されました。

 英布との戦いのあと、故郷のはいに立ち寄った劉邦は宴を開きました。その時、地元の子どもたちに歌を歌わせました。
「大風起こりて、雲飛揚す
 威は海内に加わりて、故郷に帰る
 安にか猛士を得て、四方を守らしめん」

 大風起こりてとは秦末からの戦乱の時代を意味します。
「大きな戦乱が起きたが、ようやく安定してきた。
 漢の威光は天下に広がり、こうして私は故郷に帰ってきた。
 どこかで勇者を仲間に加え、天下を守らせたいものだ」

 故郷に錦を飾った劉邦でしたが、その体調は急速に悪化していきました。長年の連戦に加え、英布との戦いで負った傷が致命的でした。
 体調の悪化とともに劉邦の猜疑心は強くなっていきました。臧荼死後に燕王となっていた盧綰ろわんが反乱を企てているのではないかと疑い始めます。盧綰は劉邦の幼馴染であり、子供の頃からの付き合いがある人物でした。劉邦はもう一人の幼馴染である樊噲に盧綰討伐を命じました。
「劉邦様は今は体調不良で心が弱っているだけだ。きちんと説明すれば潔白を信じてくれる」
 盧綰は親友である劉邦を信じていましたが、劉邦の猜疑心は更に悪化していきます。劉邦は盧綰討伐軍の大将で、何度も自分の命を救ってきた樊噲を疑い、捕縛と処刑を命じました。

 ただ、樊噲捕縛には『家庭の事情』もあったと考えられます。劉邦は側室のせき夫人とその子・如意にょいを溺愛しており、如意を後継者にと考えていました。後継者は張良の助言もあって呂雉の子・えいに決まりましたが、このような経緯もあり戚夫人と呂雉は激しく対立していました。そして樊噲の妻は呂雉の妹でした。劉邦は樊噲が戚夫人や如意の敵となることを危惧したと思われます。

 樊噲は陳平に捕らえられます。陳平は劉邦が意見を変える可能性が高く、更に樊噲を処刑した場合は呂雉と対立することになりそれは非常にまずいと考えました。陳平は樊噲を処刑せずに長安に護送して劉邦の沙汰を仰ぐことにしました。

 しかし、その間も劉邦の病状は急速に悪化していきました。呂雉は劉邦に今後のの人事について尋ねました。
「政治は相国しょうこく・蕭何に任せれば間違いはない。蕭何の後釜は曹参が良いだろう。
 その後は王陵おうりょうが良いだろうが頭が硬すぎるから陳平に補佐をさせると良い。ただし、陳平は頭が切れすぎるからすべてを任せるのは危険だ。
 最終的に漢の天下を安定させるのは周勃しゅうぼつであろうな」
 呂雉は更にその後はどうすればいいかと尋ねると
「お前はいつまで長生きするつもりなのだ。その後のことはお前は関係ないだろう」
 紀元前195年劉邦は崩御しました。後継者は呂雉との間にできた劉盈です。劉盈は後世恵帝けいていと諡される人物です。

 具体的な年代は不明ですが、劉邦は生前に群臣たちと『白馬の盟』という約束を交わします。
「劉氏以外の王が生まれたら、皆で協力してこれを討伐せよ」
 これは劉邦の子孫の権力基盤をより強固にするための盟約でした。

劉邦死後の世界

 劉邦の死に絶望したのは燕王・盧綰でした。親友の劉邦が生きていれば弁解の余地はあったのですが、劉邦が死んだとなってはそうもいきません。盧綰は漢を亡命し、匈奴の冒頓単于を頼ることになります。
 一方で樊噲の処刑は中止となり釈放されました。陳平は賢く立ち回った形になります。

 劉邦死後は相国・蕭何が国政を取り仕切りますが紀元前193年、劉邦の後を追うように亡くなります。蕭何は自身の後任に曹参を指名しました。曹参は当時、劉邦の子・劉肥のもとで斉の宰相をしていましたが、漢に復帰して相国となります。
 曹参の政治は劉邦と蕭何の時代を引き継ぎ、漢国内の安定に成功しました。新しい政策を行わない曹参に対して誹謗中傷もありましたが、蕭何が完成させた統治システムを忠実に稼働させ、建国間もない漢を安定させたことは紛れもない曹参の功績と言えます。
 蕭何と曹参の就いた相国という役職は、この2人に匹敵する人物がいないということで400年間誰も名乗るものが現れませんでした。

 国内の安定とは裏腹に、この時期宮中の動きは慌ただしいものでした。劉邦の死後、呂雉が自身の子ではない劉邦の子どもたちを粛清し始めたのです。
 標的となったのは斉王・劉肥と趙王となった劉如意です。劉肥は劉邦と呂雉が出会う前に他の女性に産ませた子供で、嫡子ではないが長子であるという非常に微妙な立ち位置の人物でした。そして劉如意は先述の通り劉邦から最も溺愛された子供でした。
 呂雉はまず劉如意を殺そうと画策しますが、実の息子である恵帝がこれを阻止します。恵帝は常に劉如意を自分の身辺に置き、母が手を出せないよう目を光らせます。しかし、恵帝が狩りのため劉如意と別行動をとったタイミングを見計らい呂雉は劉如意を毒殺してしまいました。紀元前194年、劉邦が死んだ翌年のことでした。
 劉如意の生母である戚夫人も呂雉によって殺害されました。史記には手足と視覚、聴覚、声を奪われ、便所に落として人豚と呼び、その有様を恵帝にも見せたと記録されています。

 劉肥も呂雉から命を狙われますが、恵帝が兄である劉肥を庇い、劉肥はなんとか生き延びることができました。
 呂雉のこうした行動は嫉妬の感情もあったとは思われますが、恵帝と自身の権力強化のためと見るほうが自然でしょう。ただ、恵帝はかなり温厚な性格だったようで、政敵となるはずの異母兄弟の命を救おうと奔走しています。
 そんな恵帝は母の凶行や劉如意や戚夫人の死を目の当たりにし続けた結果、次第にその精神をすり減らしていきました。

 紀元前190年に相国・曹参が死ぬと、翌年、王陵が右丞相に陳平がその補佐として左丞相になります。王陵は母親が項羽の人質になったときも劉邦を裏切らなかった人物で、劉邦からも頭が硬いと評された人物です。劉邦の遺志とその血統をなんとしても守ろうとする王陵と、実子の恵帝と呂氏一族の繁栄を望む呂雉は何度も衝突し、陳平がその仲裁をするという形で政権が運営されることになります。

 そして、紀元前188年恵帝がわずか23歳で崩御します。精神を病み、酒色に耽った結果、命を縮めたと言われています。
 葬儀の際、呂雉は大声で泣いたもののどういう訳か、涙が全く出ませんでした。陳平は恵帝という政治的後ろ盾を失った呂雉が自身や一族の行く末を案じ、心から悲しむことができなかったのではないかと悟ります。
「呂氏の人々を政府の要職に就け、権力を確固たるものにしましょう」
 陳平の進言を聞いて呂雉はホッとしたのか、初めて涙を流しました。

 恵帝の死後、彼の子供が新皇帝となりました。
 史記呂后本紀には以下のように記されています。
「宣平侯女為孝惠皇后時、無子、詳為有身、取美人子名之、殺其母、立所名子為太子。孝惠崩、太子立為帝。」
 宣平侯の娘が恵帝の皇后となったが、子がなく、身重のフリをして、後宮の女性の子供を奪い自分の子供とし、母親を殺して、皇太子とした。恵帝が崩御すると、その皇太子が皇帝となった。