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【東西両漢編】第6回 武帝の光と闇

黄金時代のはじまり

 漢は名君と呼ばれる文帝ぶんてい景帝けいていが出現によって文景ぶんけいの時期を迎えます。減税や労役の軽減によって庶民の暮らしは豊かになり、国庫の蓄えも年を追うごとに増えていきました。
 さらに呉楚ごそ七国しちこくの乱の早期鎮圧によって地方の諸侯王は権力を失い、皇帝の持つ権力はより一層強化されました。
 呉楚七国の乱で活躍した周亜夫しゅうあふは皇后擁立問題等で景帝と対立し、晩年は不敬罪として罪に問われ、最終的に餓死してしまいます。これによって建国の功臣とその末裔たちも政治の第一線から消えることになりました。功臣たちの末裔は華々しい表舞台からは一線を退く形になりましたがその家は存続していきました。例えば三国時代の英雄・曹操そうそうは元々夏侯嬰かこうえいの末裔で、曹操の父の代に曹参の家系に養子に入っています。
 諸侯王と功臣という漢創成期の政権の担い手が、どちらも景帝の時代に力を失い中央集権化はより加速していくことになります。

 景帝が紀元前141年に亡くなると、当時16歳の九男・劉轍りゅうてつが皇帝に即位します。彼は後世武帝ぶていと諡されます。多くの兄がいましたが、母親が皇后となったことで後継者レースの勝者となりました。
 当初は祖母、つまり文帝の皇后だった竇太后とうたいごうが実権を握り『文景の治』を踏襲した政治を行います。紀元前135年に竇太后が亡くなると年齢的にも成長した武帝による親政が始まります。
 武帝はその生涯から推察するに、天上天下唯我独尊な気質の持ち主で、ナンバーワンでありオンリーワンでもありたい、極めて自尊心が強い人物でした。武帝は歴史上唯一無二の偉業を成し遂げようと様々な政策にチャレンジしていきます。

 武帝が課題としたのはまず対外政策でした。
 劉邦りゅうほう匈奴きょうど冒頓単于ぼくとつぜんうに敗れて以降、漢は匈奴に対して弟分としての振る舞いを余儀なくされていました。自尊心の高い武帝にとって匈奴は許すことのできない存在でした。また武帝個人の意見は別として、外交や国防の面から見ても、いつまでも匈奴より立場が弱い立場というのは問題であり、解消すべき課題でした。
 文帝も積極的に戦うということはありませんでしたが、国境付近での屯田の実施や、軍馬の育成を推進するなど、匈奴問題の解決は漢の皇帝にとって無視できないものでした。

 正確な時期は不明ですが、武帝は即位直後に匈奴と敵対していた大月氏だいげっし張騫ちょうけんという外交官を派遣して同盟を画策しました。張騫は途中匈奴に捕まり、また大月氏も匈奴と積極的に戦う意思が無かったためこの大戦略は実りませんでしたが、帰国した張騫が持ち帰った西域の貴重な情報は、これ以降の統治になくてはならないものになりました。
 また、60歳で採用された賢良の士・公孫弘こうそんこうに命じて匈奴の内情を探らせるなどしました。

北辺の勇者たち

 紀元前133年、馬邑ばゆう聶壱じょういつという人物が偽って匈奴に投降し、冒頓単于の孫・軍臣単于ぐんしんぜんうを討ち取ろうと計画しました。しかしこの計画は失敗し、匈奴はこの事件をきっかけに頻繁に漢への攻撃を行うようになりました。
 ちなみにこの聶壱は匈奴からの報復を警戒し、名字を張と改めます。三国志に登場するの名将・張遼ちょうりょうはこの聶壱の子孫と謂われています。

 紀元前129年、武帝は4人の将軍を起用し、匈奴の支配領域に大規模な攻勢を仕掛けます。4人の将軍のうち3人は匈奴に敗北し、特に漢随一の将軍だった李広りこうは匈奴の捕虜になってしまいました。
 李広は『飛将軍ひしょうぐん』とも渾名される名将で、弓の達人としても有名でした。人気漫画『キングダム』の主人公・李信りしんの子孫と言われています。その軍事的才能は文帝からも評価されていました。
「楚漢戦争の頃に生まれていれば、大いに出世できただろう」
 三国志に登場する呂布りょふの飛将軍という渾名はこの李広に由来し、水滸伝すいこでんに登場する弓の達人・花栄かえいの渾名は小李広です。
 そんな李広ですら手痛い敗北を喫するのが対匈奴戦線でした。この厳しい戦いの中でただ一人、匈奴相手に戦果を上げたのが羊飼い出身の将軍・衛青えいせいでした。

 衛青は漢と匈奴の支配領域が接する地域の出身で、幼少期は羊飼いをしていたと言われています。生活の中で自然と匈奴の生活習慣や思考方法、更には騎乗の技術を学んでいきました。
 父親は鄭季ていきという武帝の姉嫁ぎ先である平陽侯へいようこう家に仕える下級役人でした。『季』は末っ子という意味です。母親は衛媼えいおうといいますが、『媼』もおばさんという意味です。どちらも大した身分ではないということです。
 母親の姓を名乗っているのは正妻ではなかったからで、鄭季の家では虐待されながら奴隷のように生活していたようです。
 衛青の姉・衛子夫えいしふが武帝の後宮に入り、寵愛されたことで運命が一変します。衛子夫に嫉妬した陳皇后ちんこうごうの手の者に拉致・監禁され、友人の公孫敖こうそんごうに救助されるという事件もありました。

 匈奴戦線での功績に加え、姉・衛子夫が男児を出産して皇后となったことで衛青は車騎しゃき将軍に出世します。翌紀元前129年には3万の匈奴軍を撃破し、数千人を斬首。更に紀元前127年にはオルドス地方を奪取、漢の支配領域とします。漢はここに朔方郡さくほうぐんを設置して行政機構を整備、更に要塞化して北方防衛の拠点とします。衛青はこの功績で長平侯ちょうへいこうとなり、衛青の公孫敖ら部下も出世します。
 紀元前124年の遠征では匈奴では単于に次ぐ地位である右賢王うけんおうの部隊を奇襲により撃破し大将軍となります。
 翌紀元前123年には2回の遠征を行います。1回目の遠征では匈奴軍に大損害を与えますが、匈奴の本隊と遭遇した別働隊が壊滅してしまいます。2回めの遠征では当時18歳だった衛青の甥・霍去病かくきょへいが参加します。騎兵800を率いた霍去病は初陣ながら敵地深くに侵入し、2000人以上を討ち取り匈奴の幹部クラスの人物を複数名討ち取ったり生け捕りにしたりしました。

漠北の決戦

 紀元前121年、今度は霍去病が遠征を行い、これには李広や張騫、公孫敖も参加しました。この遠征では軍団間での連携失敗が目立ちました。張騫は李広との合流が遅れたため李広は部隊の半数を失ってしまいます。失態を犯した張騫は身分を庶民に落とされてしまいます。

 霍去病も公孫敖が合流に失敗し敵地ど真ん中で孤立することになってしまいました。しかし、霍去病は更に敵地奥深くまで侵入して、重要拠点・祁連山きれんざんを攻略、3万人以上を討ち取り、匈奴軍幹部や匈奴の皇后を捕虜にしてしまう大戦果を収めます。
 その年匈奴の幹部の一人渾邪王こんやおうが漢に降伏します。偽装降伏ではないかと警戒した武帝は霍去病を派遣し、霍去病は渾邪王とその部下約10万の降伏を受け入れます。

 そして、紀元前119年、衛青と霍去病はそれぞれ5万の兵を率いて遠征を行います。霍去病軍は特に精強な部隊を割り当てられます。匈奴は単于自ら最精鋭部隊を率いて決戦に挑みました。
 匈奴の本隊と激突したのは衛青軍でした。衛青は防御を固めて匈奴軍の攻撃を凌ぎます。そして強風によって匈奴軍に混乱が生じると、その隙きを逃すことなく総攻撃を仕掛け、匈奴軍は総撤退に追い込まれます。匈奴は単于が一時行方不明になるほどの大敗北でした。

 霍去病率いる漢の最精鋭部隊は匈奴の別働隊を次々と撃破しながら進軍し、戦功は衛青を凌ぐほどでした。

 匈奴はこの敗戦により求心力が大きく低下し、やがて北と南に分裂することになります。
 霍去病はその後24歳の若さでなくなりますが、衛青は引き続き対匈奴戦線で活躍を続けます。衛青は苦労人だった過去から常に控えめで、国家の重鎮でありながら内政にはほとんど口を出すことはありませんでした。

 また、武帝は匈奴だけでなく現在のベトナムに当たる南越なんえつ衛氏えいし朝鮮を滅ぼし領土を拡大。匈奴の勢力が弱まった西域にも進出しその支配領域を広げていきました。

栄光の代償

 連年行われる大規模な遠征は漢に大きな経済的負担を与えることになりました。文景の治によって蓄えられた文字通りの『貯金』も使い果たし、武帝は資金捻出に頭を悩ませることになります。武帝のもと、財務官僚・桑弘羊そうこうようらによる経済政策が展開されることになりました。

 紀元前119年、生活必需品である塩と鉄を国家の専売としました。これらは非常に大きな収入源となりました。この以降歴代中華王朝では塩と鉄が国家の専売となり、重要な財源の一つとなります。武帝死後には塩、鉄に加えて酒も国家の専売となります。
 生活に直結する塩や鉄の価格を操作することで財源を増やす手法は、低コストで、即効性があり、確実に収入が増える悪魔的スキームです。緊急時には優秀な財源であると同時に、その反面で人々の生活を直撃し、特に経済的に貧しい層にとっては時として致命的な事態を引き起こすこともありました。塩鉄の過剰な値上げは格差拡大、社会不安を引き起こし大規模な反乱を引き起こすこともありました。塩の密売人である黄巣こうそうが起こした『黄巣の乱』はその代表で当時のとう王朝に致命傷を与えました。

 また、世界史の教科書にも載っている均輸きんゆ平準へいじゅんを実施します。
 当時は商人が穀物等を投機的に買い占めたり、高額で売りさばくなどをしていました。また、物資の多い土地で安く買い占め、物資が不足している土地に輸送して高値で売ることで、巨万の富を得ていました。
 均輸法は国が地方の物資を徴収し、不足している地域で物資を売却する制度です。これによって地域間の格差を是正し、国も収入を得ることができます。
 平準法は豊作時に穀物を国が安値で買取って備蓄し、不作の際に販売する制度です。これは商人による急激な市場操作を抑制し、市場経済の安定を図る政策です。
 格差是正に市場安定と一見すると良いことだらけに見えますが、実際はそうも言い切れませんでした。国による積極的な市場への介入は経済成長を阻害することにも繋がります。新しいビジネスモデルを見つけてもすぐに国によって規制される可能性があるとなれば経済発展が停滞するのは必然と言えます。
 更に複雑で手間の多い税制は官僚への負担を増やしました。そして多くの人が認識していると思いますが複雑な制度は不正や腐敗の温床となりやすい性質を持ちます。漢だけでなく歴代中華帝国は、官僚機構の肥大化と腐敗という生活習慣病と長く付き合っていくことになります。

 また、呉楚七国の乱で大きな勢力だった呉が自国内で貨幣を鋳造していたように、呉ほどの規模ではなくとも郡や国、民間でも貨幣の鋳造が行われていました。
 紀元前118年に武帝は今までの半両銭はんりょうせんから貨幣を新しく五銖銭ごしゅせんに改め、更に紀元前114年には国の鋳銭所以外での鋳造を禁止しました。悪貨を駆逐することで貨幣経済の安定化を図りました。
 五銖銭は唐の時代に開元通宝かいげんつうほうができるまで700年以上市場に流通することになります。

 これら経済政策は戦費や公共事業費の捻出や一時的な市場経済の安定というある程度の成果を挙げることができました。しかし、長期的に見るとマイナスとなる面もかなりあり、評価の分かれるところです。武帝の死後には国による経済介入の是非が議論され、その内容は塩鉄論えんてつろんとして現在でも読まれています。

2000年の道標

 武帝は即位当初から人材登用を積極的に行いました。祖母である竇太后は自然との調和を重視して政府の過剰な政治介入を忌避する黄老こうろう思想を信奉していましたが、武帝は儒教じゅきょうを重要視しました。

 儒教は春秋戦国時代、孔子こうしに端を発する思想です。古代の政治家・周公旦しゅうこうたんを理想として、道徳に基づく徳治主義を掲げていました。秦から漢の初めは法家ほうかが国家運営の主体でありましたが、儒教を学ぶ儒家じゅかも大きな勢力として存在していました。
 儒教で重要視されるこう』すなわち子が親に尽くすことや、ちゅう』すなわち臣下が主君に尽くすという概念は皇帝権力の正当化と秩序の維持にとって都合のいいものでした。武帝本人の意見や心情が記録されているわけではありませんが、彼の言動を鑑みるに儒教に傾倒していたというよりは秩序維持のロジックとして有用だったこと、政敵といえる祖母・竇太后へのカウンターとして儒教を推していたと推察できます。

 紀元前124年には首都・長安ちょうあん高等教育機関である太学たいがくが作られます。太学は儒教的素養を持つ人材育成機関として機能することになり、魏晋南北朝時代にも継承されていきます。
 紀元前134年に景帝の代から学者として仕えていた董仲舒とうちゅうじょは郡や国から親孝行で清廉潔白な人間を推挙するよう提案しました。孝廉こうれんは以降漢における官吏任用の最も重要な基準の一つとなります。三国志に登場する曹操もこの孝廉による推挙で任官しています。彼が親孝行で清廉潔白かどうかは深く考えないことにします。
 紀元前136年には儒教の5つの経典・五経ごきょうを研究する五経博士ごきょうはくしという官職が設置されます。

 従来武帝の時代に儒教の国教化がされたと言われていましたが、実際のところ先述の経済政策などは法家的なものであり、刑罰による締め付けも強い時代でした。酷吏こくりと呼ばれる法家の素養を持つ行政官僚も活躍しており、儒教一強というわけではありませんでした。

 完全に国家運営の軸足を儒教に置いたわけではありませんが、武帝の儒教政策は以後2000年続く中華帝国にとって非常に大きな転換点でした。特に、官僚に道徳という儒教的素養が求められた結果、腐敗や不正が蔓延しても命に代えてもそれを浄化しようという人々が現れ続けました。中華帝国が2000年の永きに渡り君臨し続けたのは、道徳心の篤い名も無き官僚たちの存在なしには語れません。
 最終的に思想的な停滞を招き、19世紀には列強に蹂躙されることとなりますが、道徳を官僚の第一に求めるという姿勢は一定の合理性があると言えるでしょう。

巫蠱の獄

 武帝には元々陳皇后という正妻がいました。しかし、不仲で衛青の姉・衛子夫を寵愛し、彼女が男子を出産したのを機に陳皇后を廃位して衛子夫を皇后としました。この時生まれた男子は劉拠りゅうきょといい、当然皇太子となります。
 武帝の寵愛はその後他の女性に移ることになりましたが劉拠の地位が揺るぐことはありませんでした。

 しかし、江充こうじゅうという人物が出世することで雲行きが怪しくなってきます。江充は小さな不正も許さない正義感の持ち主として知られ、高官や皇族が小さな罪を犯してもそれを厳しく指摘し、武帝からの信任を得ました。皇太子・劉拠も例外ではなく、皇帝専用の通路を無断で使ったことで江充から厳しく非難されました。この件は特に武帝から称賛されたようです。
「臣下の鑑である」

 この時期、漢では巫蠱ふこに関する事件が多数摘発されました。巫蠱とは呪いのことで、当時呪いで人を殺そうとすることは非常な重罪です。江充は次々に巫蠱事件を摘発していきました。
 武帝は晩年になってくると体調も崩しがちになり、神秘主義に傾倒していきました。そんな武帝にとって巫蠱は脅威であり、ますます江充への信頼を篤くしていきました。
 紀元前91年、長安を離れ病気療養中の武帝に衝撃的な情報が伝わります。江充が皇太子・劉拠による武帝呪殺未遂を主張し、証拠を発見したのです。武帝の体調不良も劉拠による巫蠱が原因とされました。

 進退窮まった劉拠は長安で反乱の兵を起こします。江充を殺害した劉拠でしたが、鎮圧軍に追い詰められ彼も自害してしまいます。
 巫蠱と反乱という大罪を犯した劉拠本人は亡くなりましたが、その罪は当然親族にも及びます。衛皇后は自殺を強いられ、死後廃位となりました。衛青はこの時すでに病死していましたが、衛青の子孫も処刑されてしまいました。劉拠の妻子も当然許されるはずもなく、生後数ヶ月だった劉拠の孫・劉病已りゅうへいいを除き全て殺されました。劉病已は皇族の身分を剥奪され、獄中の女囚に養育されることになります。

 劉拠の死後に行われた調査で、巫蠱の証拠が捏造されたものだったことが判明します。そして、江充が告発した多くの巫蠱事件も冤罪でした。
 江充は武帝への密告をもみ消す代わりに賄賂を受け取っており、巨万の富を築いていました。そして自身に反対する者、賄賂を拒んだ者を次々と巫蠱を捏造して抹殺していったのでした。

 真実を知った武帝は江充の一族を皆殺しにし、劉拠の名誉回復を行いました。また子思宮ししきゅうという宮殿を建て、我が子を無実の罪で死に追いやったことを悔やみ続けました。

 紀元前87年、武帝は後継者を末子・劉弗陵りゅうふつりょうを後継者に指名した後、世を去ります。55年の永きに渡って君臨し、漢の黄金時代を築いた剛腕皇帝が最期に何を思ったかはわかりませんが、少なくとも栄光に包まれた満足な死とは程遠いものだったのではないでしょうか。