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【東西両漢編】第1回 陳勝呉広の乱

しん帝国の命題

 始皇帝しこうていによる天下統一によって、中華世界に初めての統一王朝が誕生しました。映画やゲームの世界なら天下統一でめでたしめでたしですが、現実はそう甘くありません。誕生間もない秦帝国には、解決すべき課題が山積していました。

 秦が当時抱えていた課題を、大きく四つに分けて考えてみましょう。

 一つ目はインフラ整備です。全国の交通と流通の効率化のため、大規模な道路や運河の整備事業を進めました。交通網の発達は、これから述べる三つの課題を解決するためにも必要不可欠なものでした。

 二つ目は、秦の統治システムの普及です。しゅうは親族や功臣、地元の有力者を諸侯として任命し、彼らが代々その土地を治める|封建制《ほうけんせい》で統治していました。しかし、この制度では諸侯が周王を凌ぐ力を持ち、結果として春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代という長い戦乱の時代が生まれました。秦では商鞅しょうおうの変法以降、王が能力や実績に応じて官僚を任命する郡県制ぐんけんせいを導入しました。この制度によって効率的な国家運営が可能になり、秦は他国を圧倒して天下統一を果たしましたが、この郡県制を全国に浸透させることが課題となりました。これに伴い、文字や貨幣の統一も進められました。

 三つ目は治安の維持です。秦に滅ぼされた旧六国には、当然秦に対する不満を持つ人々が多く、反乱を未然に防ぐ必要がありました。武器を民間から集めて巨大な像を作るなど、反乱の火種を摘むための施策が取られました。さらに、巨大宮殿『阿房宮あぼうきゅう』や『始皇帝陵と兵馬俑』、そして『万里の長城』の整備により、反乱を企てるための経済力やマンパワーを抑え込もうとしました。
 また、始皇帝は後の中華帝国の皇帝と異なり、全国各地を巡行して各地の情勢を確認し、新しい時代の支配者としての威光を示しました。

 四つ目は国防です。かつての西周が犬戎けんじゅうに滅ぼされ、春秋時代の五覇ごはが頭を悩ませていたように、中華世界の支配者にとって異民族対策は常に最優先事項でした。特に始皇帝の時代、モンゴル系騎馬遊牧民族である匈奴きょうどが勢力を増しており、農耕民族にとって騎馬による攻撃力と機動力は脅威でした。戦国時代には北のえんちょうが『長城』を築いて匈奴に備えましたが、始皇帝はこれらの長城を補強・延長し、『万里の長城』を構築しました。この対匈奴の責任者となったのが名将・蒙恬もうてんであり、始皇帝の長子・扶蘇ふそも彼に合流しました。

 これらの施策は非常に重要である一方、民衆には過酷でした。万里の長城建設やインフラ整備事業に民衆が苦しみ、統治システムの刷新に対しては旧六国の貴族たちが不満を抱きました。重要なのは、庶民だけでなく、旧支配者階層からも反発があったことです。

 紀元前210年、始皇帝が病死します。『史記』によると、始皇帝の死を最初に知った宦官・趙高ちょうこう宰相・李斯りしと共謀し、始皇帝の死を一時的に秘匿します。彼らは、始皇帝の遺言を改竄して長子・扶蘇の代わりに幼く無能な胡亥こがいを二世皇帝に据え、扶蘇を自殺に追い込み、扶蘇の後見役であった蒙恬も殺害しました。

 こうして、始皇帝亡き後に生まれたばかりの大帝国の舵取りを任された胡亥、李斯、趙高の三人でしたが、その統治能力は始皇帝には遠く及ばず、次第に帝国は崩壊に向かいました。

 『史記』を読む限り、胡亥が自らの意志で行動した記録は少なく、彼は文字通りの操り人形に過ぎなかったようです。
 また、『趙正書ちょうせいしょ』という始皇帝の死にまつわる説話の中では、『史記』と違ってかなり積極的に兄・扶蘇の殺害等に関与しています。しかし、『史記』同様国の舵取りを誤り、悲惨な死を遂げることになります。
 政治家としてあまり評価する点がないのは共通しています。

 李斯は始皇帝のもとで数々の政策を提案・実行してきた人物で、政治家としての能力は非常に高いものでした。
 しかし、人を統率し、使いこなす点では、始皇帝には及びませんでした。始皇帝は李斯や蒙恬、王翦おうせんといった傑物を巧みに使いこなしましたが、李斯は蒙恬を恐れ、排除してしまいました。
 リーダーとしての狭量さが秦の衰退を早めたのです。

 ただ、もしも胡亥と李斯だけだったならば、秦の命運はもう少し長引いたかもしれません。

 一方、趙高は政治的なビジョンや信念を欠き、戦略的な思考能力も乏しい人物でした。彼が優れていたのは、権力闘争において生き残る術です。上の者には従い、下の者を酷使し、同僚を蹴落とす術に長けていました。その結果、秦は彼の野心と自己保身によって、急速に崩壊の道を歩むことになります。

 秦は、始皇帝の死からわずか3年で滅亡の時を迎えました。

王侯相将いずくんぞ種にあらんや

 紀元前209年の夏、この年は大雨に見舞われ、各地で水害が発生しました。辺境防衛のために徴兵された楚出身の農民900人がいましたが、彼らは任地への移動中、大雨のため現在の安徽省付近の大沢郷だいたくきょうで足止めを喰らってしまいます。
 秦の法律は厳格で、任地に期日まで到着できない場合は死刑、もちろん逃亡しても捕まれば死刑です。大雨のため期日までに任地に到着することは不可能で、到着と同時に処刑される運命にありました。

 任地に行けば死、逃げても捕まれば死。極限の状態に陥った農民たちのリーダーであった陳勝ちんしょうとサブリーダー格の呉広ごこうは、秦への反逆を決意します。
「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や貴族も所詮同じ人間ではないではないか!)」

 という陳勝の演説は農民たちを奮い立たせ、引率の秦兵を殺害します。更に武器を強奪し周辺の都市を次々と攻撃していきました。
 反乱は、かつて楚であった地域で決起したこともあり、秦の支配に不満を持つ人々が次々と陳勝と呉広の軍団に参加していきました。陳勝は非業の死を遂げた秦の皇子・扶蘇、呉広は楚の将軍・項燕こうえんの名を騙り、さらに勢力を拡大していきます。
 ちん(現在の河南省周口市)という都市を攻略した時には、総兵数は数万人に達したとされています。

 これが中国史上初の農民反乱『陳勝・呉広の乱』です。

 この反乱には秦の政治に不満を持つ庶民たちが参加しました。その中には陳勝たちと同様に、秦の厳しい法から逃れたアウトローたちも多くいました。
 罪人の英布えいふ、漁師兼盗賊の彭越ほうえつ、下級役人から転落した劉邦りゅうほうかんの貴族出身ながら始皇帝暗殺を計画して追われる身となっていた張良ちょうりょうなどが有名です。秦の支配下で肩身の狭い思いをしていた彼らは、次々と反乱に参加していきました。

 『陳勝・呉広の乱』は農民反乱であることは間違いありませんが、これに参加したのは農民だけではありませんでした。秦の支配に不満を持つ旧六国の王侯貴族たちにとってこの動きは渡りに船でした。
 せいではかつての王族が反乱に加わり、故国の復活を次々に宣言していきました。

 旧支配階級の反乱参加者の中で特に重要な役割を担ったのが、楚の項梁こうりょうとその甥・項羽です。項梁の父は、かつて秦の統一戦争で『キングダム』の主人公・李信りしんを撃破した楚の英雄・項燕でした。呉広が項燕の名を騙っていたのに対し、項梁と項羽は正真正銘の項燕の血縁者です。
 項梁と項羽は反乱に参加しようとした会稽かいけい郡(現在の浙江省紹興市)の長官を殺害し、その後軍勢を掌握して反秦の戦いに参加しました。

秦最後の名将・章邯

 陳勝・呉広の乱に対して、当初秦は有効な対策を打てませんでした。その理由はいくつかあります。

 一つ目は、トップにいた趙高が軍事に関して無知であったことです。宦官としての彼のキャリアを考えれば、軍事に関わる機会がなかったのは当然です。人生の大半を宮中で過ごし、宮廷内の権力闘争に明け暮れていた趙高にとって、政治や戦争は認識の外だったと考えられます。

 二つ目は、秦の主戦力が国境防衛の任務についており、国内の反乱鎮圧に振り向ける余力が不足していたことです。蒙恬の死後、その軍団と任務は名将・王翦の孫である王離おうりが引き継いでいましたが、強力な匈奴の騎馬軍団と対峙していたため、反乱鎮圧に迅速に対応できませんでした。

 三つ目は、趙高を恐れて積極的な献策がされなかったことです。
 宰相の李斯は、二世皇帝胡亥に対して政務を真剣に取り組むように諫言し、緊急性の低い事業を停止して優先度の高い事業にリソースを振り分けるよう提案しました。
 しかし、これらの動きは、自らの利益と保身しか考えていなかった趙高に疎まれ、李斯は紀元前208年7月、凄惨な拷問の末に腰斬刑に処され、その一族も処刑されました。史上屈指の政治家であった李斯の最期は、あまりにも悲惨なものでした。
 李斯の刑死は反乱発生から1年余後の話ではありますが、当時の秦の中枢がいかに迷走していたかがわかるので、今回取り上げさせていただきました。このような状況では、まともな対応策が出るわけがありません。

 秦の隙を突いた陳勝は勢力を拡大し、自ら王を名乗り、張楚ちょうそという独立国を建てました。張楚は将軍たちを各地に派遣し、斉や魏の新しい王たちを支援しました。さらには派遣された将軍の中には趙王や燕王として独立する者も現れました。
 彼らは、秦が天下統一する前の状態に戻そうとしていたのです。そして反乱軍はついに秦の最終防衛ラインともいえる函谷関かんこくかん(河南省山門峡市)を突破し、首都・咸陽かんようの目前にまで迫ります。

 しかし、この頃ようやく秦も重い腰を上げて反乱鎮圧に乗り出します。さすがの趙高も危機感を抱いたのでしょう。
 紀元前209年9月、章邯しょうかんという人物が囚人を使った軍隊を提案し、自らその囚人軍を率いて反乱鎮圧に乗り出しました。章邯は咸陽に迫った反乱軍を撃破し、反乱軍の将・周文しゅうぶんを自害に追い込みます。陳勝はこれに対し、右腕ともいえる呉広を派遣しますが、呉広は部下の裏切りに遭って死亡。その後、呉広を殺害した部下たちも章邯の前に敗れ去ります。

 さらに章邯は、復活したばかりの斉と魏も打ち破り、斉王と魏王を自害に追い込みます。連戦連勝を重ねる章邯に対し、二世皇帝胡亥は増援を送りました。増強された戦力をもって、章邯は反乱の首魁である陳勝との直接対決に臨みます。
 陳勝はカリスマ性とスケールの大きさを持つ一代の風雲児でしたが、国や軍団を運営するノウハウには乏しかったのです。陳勝は章邯に敗北し、逃亡の末に部下に殺害されました。
 
紀元前209年12月、反乱の開始からわずか半年のことでした。

 陳勝に勝利した後も、章邯は止まりません。この強敵を倒すべく、楚の項梁が立ち上がります。
 項梁は決起後、范増はんぞうという軍師の助言に従い、楚の王族を探し出し、その人物を新たな楚王・懐王かいおうとして即位させて楚軍を一致団結させていました。
 陳勝にはなかった名門貴族としての名声や人脈、そして持ち前の戦略眼をフルに活用し、難敵・章邯に対抗します。

 快進撃を続ける章邯でしたが、項梁との最初の戦いで敗北を喫します。続く戦いでも章邯は項梁に連敗し、ついに定陶ていとう(山東省菏沢市)という城にまで追いつめられました。
 しかし、これは章邯の罠でした。連勝による項梁と楚軍の油断を見越し、章邯は機を待っていたのです。紀元前208年9月のある夜、章邯率いる秦軍が楚軍に対して奇襲を仕掛けます。楚軍はこの奇襲に対応できず、項梁は戦死し、楚軍も大損害を受けました。

 項梁は決して無能な人物ではありませんでした。時流を読み取り、持てる力を最大限に活用して楚の復興を成し遂げました。彼にとって不運だったのは、立ち上げたばかりの組織で名将・章邯と戦わざるを得なかったことです。

 反乱軍の中でも最大規模を誇った楚に決定的な勝利を収めた章邯は、次の標的を北の趙に定めます。章邯の電撃的な攻撃の前に、かつて趙の首都だった邯鄲かんたん(河北省邯鄲市)はあっさりと陥落しました。邯鄲は堅固な要塞として知られ、かつての名将・白起はくきでさえ攻略に困難を感じ、撤退したこともあった場所です。普通に戦えば攻略に数年はかかるとされた邯鄲をあっさりと陥落させた章邯に、反乱軍は戦慄しました。

 趙の残存勢力は鉅鹿きょろく(河北省邢台市)に追いつめられます。さらに章邯は北方防衛の任についていた王離率いる秦の最精鋭部隊20万と合流し、最後の戦いに臨みます。
 王離は天下統一の際に活躍した王翦の孫で、王賁おうほんの子です。蒙恬が鍛えた精鋭部隊を王賁の子供が率いるという展開は、『キングダム』ファンにとって感慨深い展開です。

 章邯は鉅鹿攻撃を担当し、王離は兵站の確保と敵援軍の撃退を担当します。他地域の反乱軍は援軍を送り込みますが、これらは王離軍によって撃退されてしまいました。

鉅鹿の戦い

  項梁が戦死したとはいえ、楚の勢力はなおも健在でした。楚の懐王は、宋義そうぎという人物を項梁の後任として上将軍に任命し、趙を救援するよう命じます。しかし、宋義は趙救援に消極的だったため、項梁の甥である項羽の怒りを買い、項羽に殺害されてしまいます。
 項羽は宋義の軍隊約10万をそのまま率いて、趙救援作戦を続行
しました。名ばかりの王である懐王は、これらの出来事に対して追認することしかできませんでした。

 紀元前208年の年末、10万の楚軍を率いた項羽は鉅鹿に到着し、王離率いる秦の精鋭20万と黄河こうがを挟んで対峙します。
 楚軍の先鋒は、囚人出身の将軍・英布。英布はこの後、多くの戦場で活躍する勇猛な将軍ですが、数と練度で勝る秦軍に苦戦を強いられました。

 英布の苦戦を目にした項羽は、前代未聞の作戦を実行に移します。
 船で黄河を渡った項羽は、渡り終えると船を沈め、鍋を破壊し、三日分の食料だけを残して他の物資を全て捨ててしまいました。この作戦は「破釜はふ沈船ちんせん」と呼ばれます。敵に勝利して食料を奪わなければ死ぬという状況を作り出したのです。
 死地に追い込まれた兵士たちは、普段以上の力を発揮するという「背水はいすいの陣」の考え方です。

 こうした気合と根性による作戦が成功することは珍しいですが、項羽の戦いとなると話は別です。
 項羽率いる楚軍は、相手の半分以下の兵力でありながら、真正面からの戦いで秦の最精鋭部隊を圧倒的な力で打ち破りました。
 
主将の王離は捕虜となり、秦軍の将軍たちも多くが戦死しました。秦の最精鋭部隊は、この一戦で事実上壊滅します。
 兵站を担っていた王離軍の消滅は、秦軍全体の崩壊を意味します。章邯は敗残兵と、もともと率いていた囚人部隊をまとめて抗戦しますが、致命的な敗戦を防ぐのがやっとでした。

 この常識外れの勝利をもたらした項羽の武名は、天下に轟くことになります。こうした戦い方は、項羽でなければ真似できないでしょう。

 章邯は項羽の前に粘り強く戦いましたが、消耗は日に日に激しくなっていきます。章邯は首都・咸陽に応援を求めますが、趙高はこれを却下し、逆に章邯たちを敗戦の罪で処罰しようと画策。章邯らの家族を処刑してしまいました。秦本国からの増援は望めず、家族も失い、自身もまもなく処刑されるという絶望的な状況に追い込まれた章邯は、ついに秦兵20万を率いて項羽に降伏します。
 秦最後の名将と呼ばれた章邯も、さすがに項羽と趙高を同時に敵に回しては太刀打ちできませんでした。

 降伏を受け入れた項羽ですが、20万人もの降伏兵の処遇に頭を悩ませることになります。武器は取り上げたものの、数が多すぎて、万が一反乱が起きた場合には大きな脅威となります。また、食料の調達も問題でした。
 ある晩、楚軍は武器を取り上げられた降伏兵を奇襲します。丸腰の降伏兵たちは崖に追い込まれ、次々と突き落とされて命を落としました。
 助かったのは、章邯をはじめとする一部の上級将校のみです。
 この襲撃により反乱のリスクは消え、食料問題も一時的に解決したかのように見えましたが、この蛮行が非難されないはずもなく、項羽や章邯のその後の運命に暗い影を落とすことになります。

 最強の敵・章邯がいなくなった今が好機と見た楚の懐王は、秦の首都・咸陽攻撃の命令を下します。
 そして、咸陽に最初に到達した者を函谷関以西の地、関中かんちゅうの王にする、と宣言しました。諸将は競い合いながら咸陽を目指して進撃を開始しました。
 この秦滅亡レースの最有力候補は、鉅鹿の戦いで圧倒的な強さを示した項羽でした。しかし、実際に最初に咸陽を攻略したのは項羽ではなく、農民出身の男・劉邦でした。
 次回は、劉邦の半生と咸陽攻略、そして秦滅亡以後の世界についてお話しします。

 ここまでの解説で、陳勝たちは決して秦に、始皇帝に取って代わろうとしたわけではないことが解ると思います。彼らはいくつもの国があり、それぞれの国に王がいる今までの世界を取り戻そうとして戦いました。
 それは項羽も同様です。楚の名門貴族だった彼にとって何百年も続いた春秋戦国時代こそが当たり前で、そこに回帰することになんの疑問もなかったでしょう。
 しかし、歴史がそうはならなかったのはご存知のとおりです。陳勝・呉広の乱から始まる戦乱は単純に秦との戦いだけでなく、封建制と郡県制の戦いでもあったのです。