【春秋戦国編】第10回 始皇帝 その3【天下統一 新しい世界のかたち】
紀元前247年に秦王として即位した嬴政は親政を開始すると積極的に他の六国への侵略を開始します。
初めに紀元前230年に内史・騰の攻撃により韓が滅亡します。そして紀元前228年、名将・李牧を喪った趙が王翦によって攻略されます。
紀元前227年に燕の刺客・荊軻による秦王暗殺未遂事件を受けて、翌紀元前226年に王翦が燕を攻撃します。燕は壊滅的な被害を受けますが、秦の矛先が他国へ向いたため紀元前222年までなんとか存続します。
魏の滅亡と対楚戦
紀元前225年に王翦の子・王賁率いる秦軍60万が魏の首都・大梁を攻撃します。
戦国時代初期の覇権国だった魏ですが、秦軍に二度も勝利した信陵君も既に亡く、秦に対抗できる力はありませんでした。
大梁に籠城しますが、黄河を利用した水攻めの前についに力尽きます。最後の魏王・假は秦に降伏し、資治通鑑によれば処刑されたようです。
秦王・政は魏攻略しつつも、秦は次の標的である楚攻略について臣下を集めて議論を行いました。
楚は名将・司馬錯による巴蜀攻略、宰相・張儀のペテン等により秦に対しては劣勢に立たされていました。しかし、西から秦の圧迫を受ける一方で西の長江下流域に支配地を拡大していました。優秀な人材が出現すれば決して侮れない相手です。
現実に春申君という切れ者宰相が健在のうちは、その才覚によって楚は強国としての力を取り戻しつつありました。ただし、春申君は老いからくる判断力の低下と、楚国内の内紛によって紀元前238年に非業の最期を遂げていました。
若年の将軍・李信は兵力20万で楚の攻略は可能であると主張します。対してベテランの将軍・王翦は60万の兵力がないと楚に勝つことは困難であるといいます。
秦王・政は李信の意見を採用し、李信と蒙恬という将軍に楚攻略戦を任せます。
李信の出自は不明ですが、対燕戦線で活躍し秦王暗殺未遂事件の首謀者である燕太子・丹を破っています。
蒙恬は祖父・蒙驁、父・蒙武と三代に渡り秦に仕えた武門の出です。
この決定に対して王翦は病と称して自身の本拠地に引き籠ってしまいました。息子である王賁が活躍していることからもわかる通り、この時点で王翦はそこそこの年齢であったと推察されます。
貪財の名将
紀元前225年、李信と蒙恬は二手に分かれて楚に侵攻を開始します。
また、2人に先立って嫪毐の乱でも功績のあった昌平君を楚の旧都で当時は秦領になっていた陳、現在の河南省周口市に派遣します。昌平君は楚の王族であったため、旧楚領の鎮撫に最適な人材と判断されたのでしょう。
李信と蒙恬の2人は快進撃を続け広大な楚を次々と攻略していきます。そして楚の首都・寿春の目前にまで迫ります。
秦の勝利目前の所で昌平君の裏切りが発生します。背後で発生した反乱に対して李信たちは西に軍を反転して陳へと向かいます。
そんな秦軍に対して楚の将軍・項燕が三日三晩の猛追を行い奇襲を仕掛けます。敵国領内で孤立した秦軍は背後からの猛攻撃を受けた結果、将校7名が戦死するという大敗北を喫します。
李信、蒙恬の敗北により秦王・政は隠居状態であった王翦を起用します。
当初は渋っていた王翦でしたが、兵力60万と褒賞の約束を取り付けることでようやくその重い腰を上げました。
王翦は遠征準備中はもちろん遠征中にもひっきりなしに褒賞の確認をして秦王・政を呆れらせました。ある者が王翦を窘めると、王翦はこう答えました。
「秦王は非常に猜疑心が強い。秦の戦力のほとんどを私が掌握している状態は秦王にとって心が休まらないだろう。
私が褒美で頭がいっぱいな様子を見せれば秦王は安心し、私が粛清されるようなこともないだろう」
処世術に長けた王翦ですが、その軍事的手腕も確かなものでした。
猛烈な勢いで進行していった李信とは対照的に、蒙恬の父・蒙武と共に侵攻した王翦はじっくりと守りを固めながら楚領内を進んでいきました。
紀元前223年、首都・寿春を陥落させ楚王・負芻を捕らえて楚は滅亡しますが、項燕は昌平君を楚王として抵抗の姿勢を見せます。
項燕と対峙した王翦でしたが、相変わらずの堅守を優先した戦いを展開します。守りを固める王翦に手を焼いた昌平君と項燕が一旦仕切りなおそうと後退し始めたところ王翦は一転攻勢に出ます。予想外の攻撃を受けた楚軍は混乱状態に陥り、この戦いで昌平君も項燕も戦死し楚は完全に滅亡します。
始まりの皇帝
楚滅亡の翌紀元前222年、王翦の子・王賁が燕の残存勢力を掃討して燕王・喜を捕らえます。実質的な滅亡状態だった燕もこれで完全に消滅します。
そして最後に残った斉は燕との戦いによる衰退と、秦による買収工作で国内が機能不全に陥っていました。王賁と蒙恬に対してほとんど抵抗ができないまま、一時は東帝とまで称した大国・斉は滅亡を迎えます。
秦は滅ぼした各国に郡や県を設置します。これはつまり、従来の王侯貴族が自身の土地を支配する封建制から、中央から派遣された官僚が支配者の意志の元政治を行う郡県制への転換を意味します。
これは私的な意見ですが、天下統一とは単純に一つの国が他国を滅ぼしたことだけではなく、滅ぼした他国を中央集権という新しい世界のルールで統治することで完成したといえるのではないでしょうか。
秦王・政は王の上位の存在として『皇帝』を名乗り、皇帝の命令を『詔』、皇帝の一人称を『朕』として、自身は史上一人目の皇帝・『始皇帝』と名乗ります。
紀元前221年時点で38歳であった始皇帝は精力的に仕事に励みます。
文字や貨幣、度量衡の統一。道路などのインフラ整備。万里の長城等国防にも力を入れました。民衆から武器を没収して反乱の抑制と治安維持にも取り組み、新しい支配体制を世に知らしめるため全国を巡行しました。
始皇帝についてはその出自以外にはスキャンダルやロマンスとは縁のない人物でした。立場的に司馬遷が忖度したとは考えにくいですし、本当に仕事第一主義だったのではないかなと思います。皇后にあたる人物の名前すら残っていないですし、文化的な逸話も特にありません。焚書坑儒を文化的な逸話と言えばそうなのかもしれませんが。
始皇帝は非常な強固な意志と明確な政治的ビジョンを以って、秦の中央集権化に命を削るように邁進していきました。
彼の推し進めた中央集権国家の基礎部分は清朝まで継承され、東アジアの政治体制に非常に大きな影響を与えました。非常に効率的で完成度の高いものでした。
灌漑農業を主要産業とする社会では、食料の余剰生産が発生しやすく官僚制度を維持することが可能になります。逆に農耕主体の社会の発展には治水や流通に関わる大規模インフラ事業が必要ですが、これら効率的に推進するには官僚制とはかなり相性がいいといえるでしょう。
このように優れたシステムを持った秦とそれを推進した始皇帝でしたが、統一から11年後の紀元前209年に49歳で亡くなります。
いかに優れたシステムであったにしても、秦以外の国に暮らす人々にとって、秦の支配体制が浸透するには時間が短すぎました。始皇帝という巨大な存在が消えた結果、秦に滅ぼされた国々で反秦の火の手が上がりました。
そして紀元前206年統一からわずか15年で秦は滅亡を迎えます。