主よ、憐れんでください
20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
(マタイによる福音書 20章29-34節)
毎日終電で帰る1週間。土曜も日曜もわからなくなった。そして今朝は始発。もはや家に帰る必要はあるのかという疑問を抱きつつ、状況に流される。さすがにやる気を出さないといけないタイミングだったが、どうにも頭も身体も回らない。そんな中での今日の本番は我ながら悲惨なものだった。ただ、そこで気づいたのは、自分が考えている以上に周囲が真剣に私のことをみてくれていることだ。自分ひとりで考え込んでいると、誰も自分のことなど見ていない、関わりたくない、などの思いにいつの間にかとらわれていくことがある。そしてその方が楽だと思ってしまったりする。ただ実際はそうでもない。人と人との関わりは想像以上にあたたかく、愛に満ちている。そこに人を通じて神が働いている感じがした。
2人の盲人はイエスに憐れみを求めた。彼らの求めは、本来生活に必要なお金でも、衣服でも、地位でもなく、主の憐れみであり目が開かれることだった。彼らは、周囲からの日常的な差別や迫害の中で、自分たちが何を本当に求めているのかを知っていた。むしろ目が見える私たち以上に既に真実がよく見えていたのかもしれない。だからこそ周囲の状況がどうあれ、ただ純粋に求めることができた。そして実際に盲人たちの目は開かれ、彼らは主に従っていった。
主に憐れみを求めること。自分の本当の求めが何なのかはわからないときも、この求めはけして忘れてはいけない。求めるからこそ、気づき、求めるからこそ、与えられ、求めるからこそ受け取ることができる。不安や恐れはどこかにおいておいて、まっすぐに主の御顔を仰ぎ、ただ憐れみを求めることができるように。
2021.2.22
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