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3:14 エリシャは言った。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられる。わたしは、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、あなたには目もくれず、まして会いもしなかった。
3:15 今、楽を奏する者を連れて来なさい。」楽を奏する者が演奏をすると、主の御手がエリシャに臨み、
3:16 彼は言った。「主はこう言われる。『この涸れ谷に次々と堀を造りなさい。』
3:17 主がこう言われるからである。『風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。』
3:18 これは主の目には小さいことである。主はモアブをあなたたちの手にお渡しになる。                             (列王記下 3章14-18節)

 何をしても、しなくても結局、そんなに悪い結果にはならない。私は、基本的にいつもそう考えて生きている気がする。それは精神的な安定につながる一方で、無気力状態を生むようなところがあり、一概に良いとは言えない。待っていればいつもうまくいくわけではなく、何かしら自分から動く必要があることもある。ただ、その場合の自分発信と思っている行動も、本当に自分の意志によるものかと考えると、必ずしもそうでもない気がする。何か抗えない力によって動かされているような気がする。そもそも自分の意志などというものが本当にあるのだろうか。

 やるべきことのようなものがあるとして、それは自分で探究し課題設定しているようでいて、実はあるべき姿が用意されていて、混沌とした中からそれを見つけ出す作業なのではないかと思ったりする。また、その作業を進めていくためには、準備や心構えが必要であり、ただ何もせずじっとしているだけでは、一向に進まない。本当に大事なものを受け取るためには、自分の意志がどうかということ以上に、自らをしっかりとした器のようなものにしていく必要があるのかもしれない。ただ、それがなかなか難しい。

 水が足りなくなったイスラエルの部隊に対して主は、今は涸れている谷に堀をつくることを告げられた。これは、今自分たちの目に見えていることに対処するだけではなく、来る救いのために道を整えることの重要性を示しているように思う。その備えは、祈りであり、賛美であり、奉仕なのかもしれない。

 主の招く声に耳を傾けよう。今自分にできることを捧げよう。

2021.5.4

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