ダサい格好で出歩くと幸せになれる
3年前から自身の幸福のために「ダサい格好で出歩く実験」をしている。今回はその実験目的(と成果)について書く。
慣れが不幸を生む
以前読んだ本↓で「幸福の要件」と「幸福を感じる力」は別物と指摘されていた。驚きなのは幸福の要件が充実し過ぎると、逆に幸福を感じづらくなること。社会が発展すると幸福を感じる力が鈍るのだ。
幸福の要件はインフラや社会保障など、自分の外側にある環境や制度を指す。現代の日本は幸福の要件がかなり整っている。雨風を凌げる家に住み、餓死の心配もない。義務教育があるし、図書館だってある。経済的に困窮しても最低限度の生活が保障されている。
しかし、幸福の要件が一定レベルを超えると「あって当たり前」との慣れ、格差による不公平感、経済成長による環境破壊などの問題が顕在化する。
「当たり前のもの」だけで満足
格差や環境破壊を個人レベルで解決するのは難しい。しかし「慣れ」については個人の主観の問題だ。
安全な家があって、電気ガス水道ネットが使えて、食糧がある。これらは万人に共通した幸福の要件。絶対的な幸福の要件と言える。
一方「平均よりも上であること」が存在意義となっている要件もある(下に例を示す)。これらは相対的な幸福の要件と言える。
偏差値の高い学校に行く
大企業の正社員や公務員になる
タワマンや一軒家に住む
高級車に乗る
ブランド服を着る
海外旅行に行く
絶対的な幸福の要件が「当たり前」になった今、相対的な幸福の要件を満たさないと幸福を感じにくい状況になっている。
しかし、人々は相対的な幸福の要件を本当に望んでいるのか。実は現状で満足できるのに、世間に振り回されて相対的な幸福を追求する人が多いと邪推している。
自分軸で幸福を追求する
私は「自分にとっての絶対的な幸福の要件を知ることで、幸福を感じる力を回復できる」と考えている。
世間的な幸福観を無批判に受け入れ、比較し、落ち込む。こんなのは自傷行為に他ならない。世間の価値観に合わせようとするエネルギーを、内省に向けて「自分なりの幸福観」を知る方が効率が良い(少なくとも私は)。
「絶対的な幸福」の強みは比較する必要がないこと。そもそも「絶対」とは揺るがない基準から物事をみることだ。自分という揺るがない基準から幸福を定義すれば、世間の喧騒から距離を置いて粛々と生きていける。
(参考)私の要件
参考までに、私にとって絶対的な幸福の要件を書いてみる。なお、万人に共通する衣食住やインフラは割愛する。
徒歩圏内に図書館(あるいは古本屋)
徒歩圏内に庶民派スーパー
徒歩圏内に公園
コーヒー
音楽
結局、本とコーヒーと音楽と公園があれば良い。
着飾らない人になりたい
自分なりの幸福観については折に触れて考えているし、おかげで現状にも満足している。しかし、私はまだまだ「周囲を気にする弱い人間」だ。
周囲を一切気にしない人間なんていないのかも知れない。それでも、比較する頻度を極限まで減らしたい。だからこそ「着飾らない人」に憧れる。
着飾らない人とは「シンプルな服をサラッと着こなすオシャレさん」なんかではなく、真に着飾らない人。すなわち、次のような人に憧れる。
ヨレヨレのTシャツ
汚れた靴
ボサボサの髪の毛
無精ヒゲ
世間で「ダサい」とされる格好で堂々と生きることは、ひとつの理想系だ。他者の目を前提とした相対的な軸ではなく、自分を基準にして生きている感がある。
私は相対的な幸福観への依存度を下げるべく、ダサい格好で出歩く実験をしている。部屋着と外着の区別をなくしてみたり。寝癖を直さないでみたり。靴下を穴だらけになるまで履いてみたり。傘の代わりにポリ袋を頭に被って出歩いたこともあった。
訓練の成果も実感している。身に纏える布があるだけで感謝できるようになってくる。なにより、服や髪などの「外面的な飾り」を削ぎ落とすと、内面的にも「ありのままの自分の感性」を肯定できるようになってくる。外面的にも内面的にも「カッコつけよう」として無理をすることがなくなるのだ。今のところ実験は成功している。妻からの冷たい視線をかわしつつ、実験を継続したい。
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