社会不適合なのか自己評価してみた
世間では無職というだけで「社会不適合」の烙印を押される。私は「主夫」を名乗る無職なわけだが、そんな私は社会不適合者なのだろうか。個人的なこだわりとして、社会不適合ではなく、世間不適合だと思っている。世間を考察した本を読み、私が苦手かつ嫌いなのは社会ではなく世間だと感じたからだ。
そんな細かい話は置いておいて、今回は斉藤和義『社会生活不適合者』の歌詞をもとに、私の社会不適合度合いを自己評価してみる。個人的にかなり好きな曲です。
歌詞と対比してみた
以下、斉藤和義『社会生活不適合者』の歌詞を頭から順に抜粋し、その歌詞と自分の合致度合いを評価した。結論からいうと、そこそこ合致していた。
切符は一人で買える。ただ、電車に乗るのは月に1回あるかないか。基本は自宅に引きこもっているし、外出しても徒歩圏内が大半だ。ICカードや乗換アプリがない時代だったら、私も切符を買えなくなっていたかもしれない。
自分の住所は覚えている。ただ、郵便番号は忘れがち。重要ではない書類の場合、ぐちゃっと書いて誤魔化すことがある(住所書いてりゃわかるだろ理論)。
「アレ」って何だろう。飲酒、暴食、性行為。あるいは悪口やマウントか。いろいろ想像できるが、どれも死ぬよりはマシである。人間なんて簡単にハイになれる生き物だ。仮に「死にたい」と思っても、刹那的な快楽さえあれば生き延びられる自信はある。
これは100%同意。自分はこの世で最も尊い。天上天下唯我独尊。
すごい歌詞。世の中=経済社会とすると、確かに私は死んだ方が「世の中」のためでしょう。例えば納税額という切り口でみると、年収890万円未満の人は負担よりも受益が多い「受益超過」にあたる(参考)。私は年収1万円なので圧倒的に社会のお荷物だ。でも、死ぬ気なんてないし、このまま楽しい受益超過ライフを送りたい。高額納税者に感謝。
文句はそんなに言わない。言う前に逃走する。話を聞かないのは、心当たりがある。正直、私は妻以外の意見を軽視している。妻以外の人は基本的に私の行動の影響を受けないからだ。例えば、私が働かないで困る可能性があるのは妻だけなので、両親や義両親ですら部外者とみなしている。もちろん、私に意見するのは自由だが、私がその意見に影響を受けることはまずない。
気分次第で予定をキャンセルすることはない。特に数少ない友人との約束は守りたい。ただ、自分一人の予定だとコロコロ変わる。やりたいときに、やりたいことを、やりたいだけ、やる。これを基本にしている。
これまたすごい歌詞だが、ここの歌い方がかっこいい。物理的に「どけ」と思うことは少ないが、自分が決めた行動や考えを是正させられそうになると「俺様に意見するとは何様だ?」という気持ちが湧いてくる。例えば、退職して主夫になると決めた時の親の反応など。
時間は守る。
家事の効率化や料理において、PDCAのC(Check)をすることはある。これは反省といえば反省だろう。ただ、基本的には「反省」ではなく「受容」をする。例えば、大学受験で第一志望に落ちたときや、新卒1年目で退職を決意したときだ。「自分なんてこんなもんだ」と開き直るので、ふさぎこまない。勉強や仕事よりも、旨い飯や晴れた空のほうが圧倒的に重要だと思う。
この曲で一番好きな歌詞。人生なんて「勘違いした者勝ち」と思っている。どれだけ周囲に貶されようが、自分で「幸せだなぁ」と思い込めればいい。周りから見れば「社会のお荷物」だろうが、自分では「世界一カワイイ奴」だと勘違いできている。そうやって、楽しく笑って生きられれば良い。
共感。「勉強しろ」「学校に行け」と怒る親。「報連相を怠るな」「成果を出せ」と怒る上司。なぜ、そんなどうでもいいことで怒れるのか。勉強すること、学校に行くこと、顔も知らぬ資本家の事業を成功させること。あなたにとって、それのなのが重要なのか。ただ、生きている。それだけでいい。
学校教育や親の言うことを真に受けていると、いつの間にか「社会に適応せなば」と思わされる。しかし、私は人間が社会に適応すべきなのではなく、社会が人間に適応すべきだと思っている。たっぷり寝て、ゆっくり食べて、気の合う仲間と関わり合う。こんな当たり前の暮らしを実現するために苦しまなければならない社会なんて、適応する価値がない。
そんな社会からさっさと距離を置き、自分の世界に入り浸り、勘違いしたまま死んでいく。それが幸福だと思う。
あとがき
最後に社会適応に関する引用文を載せる。すごく示唆に富んだ文章です。