「Lady Bird」をみた夜のこと
ひとりで行動するときは、頭は冷静なのに、心臓が妙に騒ぐようなことがあって、それは私の克服しえない幼少期の記憶とか、そんなようなものが重なって起きているのだろうなと思っている。
妙にそわそわしてしまって、ともすれば考えが口をついて出て、ロボットがオイルを口から漏らすように、独り言がとめどなく溢れてしまいそうな、そんな気分になってしまう。
大抵気分が沈んでいるときに、そんな気分になってしまうのだけれど、でも、一人で何かをすることをどうしても必要とする夜もあって、やはり気分が曇とした灰色に覆われているような夜。
そうしないと息が詰まって自分の話し方や感じ方をすべて忘れてしまいそうな夜があって、昨夜はそうだった。
思い立った日に一人で映画を観に行ける人間になることは、手の届く種類のあこがれであって、昨夜はそのあこがれに触れることを決めた。
昨夜は「Lady Bird」を観に、新しい銀色のサンダルで靴擦れを起こしながら一人で映画館に向かい、1時間ちょっと、スクリーンを見つめてすごした。
主人公のクリスティンは高校3年生で、彼女の年齢は、私にとっては少しだけ離れてしまった過去だったが、輪郭に少しずつ触れてゆっくり引っ張られて、私の高校3年生の時間がよみがえった夜だった。
彼女は生まれ育った町のことを田舎で、出ていきたい場所と評していて、まだ経験したことのないセックスを甘く美しいものだと胸をときめかせていて、口うるさい母親とは、うまく慈しみ合えなくて、ママは私のことを好きじゃない、などと口走る。彼女は男の子と愛し合ったり絶望させられたり、親友とくだらないことをだべりあったり、母親とぶつかりあって、お互いを思いやる気持ちを裏返して相手のポケットに入れてしまったりしながら、狭い町で高校3年生の1年を送る。ティーンエイジャーで、18歳になったその日にたばことポルノ雑誌を買ってみたりする。
物語の終盤で、少し大人の眼をした彼女は、初めて車を運転した時に、世界がまるで違って見えて、その感動をあなたに伝えたかっただけなの、愛してる、と母親に伝える。
愛している人に伝えたいことは、日々の喜びであったり、自分が新しく感じたりしたことだったよね。愛している人にそのときの自分の眼や脳みそや宙に舞った感情を伝えたいよね、余すところなく。そんなことを思って少し泣いてしまった、とてもいいシーンだった。
この映画でクリスティンの母親は、クリスティンよりも強情で意地っ張りに見えるところがあって、お互いを愛しているのに傷つけあったりしてしまう。
大人になったら、意地を張ってばかりいないで、言うべき時に言わないと後悔してしまうことを知っているから、娘より先に強情を解いて言う。
そしてそれを娘が聞いて、ママ!私も愛してるわ、ごめんなさい、、とこういう風に進むことが定石かしら、なんて思ってはいたけれど、少なくともこの作品に関しては全くそうではない。
でも、意地を張って、理屈ですぐに折れてしまわないところが、なんというか、人生ははかない瞬間が積み重なってできているよね、なんて思って、とても好きだった。
例えば意地をはったままで、素直な気持ちを伝えそこなってしまうことは、こと恋愛や家族関係などの人間関係においてできれば避けるべきことだとされているように思うけれど、とても無責任なことをいうと、ぶつかり合ったそのときの空気感が永遠に二人の間に残されて、素直な気持ちは秘められたままというのは、終わりのある人生において、とても美しい後悔だな、なんて思ったりした。
すかすかのシアターで、私の席の一つとなりが距離の近い男と女で、つまりはたぶんカップルで、映画が終わった後、二人で見えたものを共有して、感じたことを92%くらい伝え合えたらいいね、と思う。
帰り道のあなたもあなたも、愛している人に自分の感情や思ったことを伝えて、そうなんだね、と聞いてもらって、幸せな気持ちで薄く体が満たされるような夜になればいいね、と思いながら歩いた駅までの道のり。