街は春、出会いと別れはすぐそこに-よちよち歩きの人類学的思考1
3月という月、私たちはそれに出会いと別れとを結びつける。
たしかに誰かが卒業したり旅立つし、それからしばらくすると、誰かが新たにやってくる。
日本語では、私たちは「出会い」と「別れ」という順番でこの時期を表す。僕は最近その意味を考えている。答えはわからない。
出会いと別れの季節、私たちは悲しくもなるし、また、新しい環境に期待して心躍らせたりもする。
こんなにも心が動く時期というのは私たちの社会においては他にはないと思う。
今夜は桜が綺麗で、写真を撮っている人がいた。誰かがスマホで写真を撮り始めると、後からきた人もちょっと離れた位置に立ち止まって同じようにスマホで写真を撮る。この場合、明らかに影響を受けて行動しているけれど、自分が影響を受けたことを意識する人は少ない気がする。
人類学的思考から書いていく、と言ってはみたけれど、結局のところ「人類学的」とは何なのかを一言で説明できないなと思いながら歩きながら、僕はその光景をちらりと見ていた。
「人類学的」の内側と外側、そのあいだを見ていく必要があるだろう、と考えていた。でも正直言って範囲が広すぎるように思える。全部を把握することは全然できていない。どこから分け入っていくか、そのアイデアすら今のところ僕にはないけれど、とにかく書いてみるしかないだろう。
通りかかった会社のロビーでは、胴上げをしているのを窓越しに目にした。胴上げされていた人はこれから何をするのだろう。
それからまた別の街を歩きながら、ふと思い出した友人にメッセージを送った。県外に居るという。それから急に電話が掛かってきて、寝ぼけた声でその人は声を発した。卒業旅行で友人と出かけているという。そうか、卒業する学生にとっては卒業旅行の時期だ。卒業旅行が最後の楽しみだろうと思う。今年も海外に行けないのは可哀想だけれど、みんな国内旅行をするのだろうか。最後の卒業旅行を楽しみに日々頑張っている学生も多いことだろう。
もう3月30日。誰かが去ろうとしていて、もうすぐ誰かがやって来ようと
している。私たちは1年間とりあえずこの時期のために生きているところがあるかもしれない。境界の時間。
桜も重要な機能を持っていると思う。私たちは桜に意味を持たせている。やはり他の花とは違うだろう。
ひとまず、私たちの社会ではこんなデザインでやっている。では他の社会ではどうだろうか?
社会全体が一気に変わる境界もあるかもしれないし、ぽつりぽつり、一部の人だけが変化する、もっとゆるやかな形の境界を設けている社会もあるかもしれない。
とはいえ僕には事例の持ち合わせがないので、あとは宿題とする他ない。