同意不在型反出生主義の検討
反出生主義と言えばベネターによる基本的非対称性の議論がまず挙げられますが、この記事では同意不在型反出生主義(consent-based anti-natalism)を検討します。結論から述べると、ベネター型反出生主義がいうように出生が常に間違いであるとは言えませんが、それでもこのタイプの反出生主義は有力な立場です。この記事では、Seana Shiffrinの議論をさらに発展させたAsheel Singhの議論を紹介します。ベネターの議論に関して別の記事で書いてます。
本記事を書くにあたっての参考文献を掲示します。
シフリンの論文
Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm(1999)
Harm and Its Moral Significance(2012)
シンの論文
Furthering the Case for Anti-natalism: Seana Shiffrin and the Limits of Permissible Harm(2012a)
Assessing anti-natalism : a philosophical examination of the morality of procreation(2012b)
The Hypothetical Consent Objection to Anti-Natalism(2018)
1 Shiffrinによる(あまり積極的ではない)反出生主義
これからシフリンの議論をみていきますが、そもそもシフリンは反出生主義を擁護しようとしていたわけではないことに注意する必要があります。シフリンは、「ロングフルライフ訴訟というものは、重要で、しかしあまり論じられることのない、出生の道徳性を巡る哲学的問いを突き付けており、さらに一般的にみれば、道徳的に重要な害悪と利益を同意なしに与えられる条件に関する道徳的重要性を投げかけ」ていることを認識し、シフリンにとってはこれを検討することが元々の動機だったのです。したがってベネターのように絶対に反出生の立場を取らず、むしろその立場を何とかして回避しようとしています。
私は、子作りがすべての面で間違っているという主張をしているわけではない。同意を得ずに負担を強いる行為は道徳的に問題があるとはいえ絶対に許されないものではないと思うし、子作りを特殊なケースであると考えることに矛盾はないだろう。私が言いたいのは、子作りには大きな負担を同意なしに[子供に]課すことになるのでそれは道徳的に問題があり、その負担を課した者はその有害な結果に対して責任を負わなければならない、という主張である。Shiffrin(1999) p.139
しかし、シンによれば、シフリンが展開する議論を突き詰めれば、反出生主義の結論が導かれると主張します。まず、シフリンは生殖(procreation)は道徳的に非常に問題がある行為であると言います。なぜなら、その行為には必ず「深刻なモラルハザード」を含まれているからです(Shiffrin 1999: 136-7)。生殖をおこなう者全員が考慮しなければならないのは、新しく人間を生み出すことはその人たちに重大な害を与える、ということなのです(Ibid. 136-7)。それは「押し付け」であると言います。なぜならそれは存在しない者が同意できない害だからです(Ibid. 123-4)
つまりシフリンは、同意されない害を与えることを問題とするのです。しかし、前もって同意がない場合に害を与えても許される状況を示します。それはより大きな害を回避する場合のみである主張します(Ibid. 128-9)。例えば、救助者や外科医が事故や病気による害から救い出すために何らかの害を与えなければならない場合、このような状況でのみ同意なしでも害を与えることが正当化されるのです。そして生殖はこの観点からは正当化できません。なぜなら、生殖はより大きな害を与えるためではなく、むしろより大きな「純粋利益」(pure benefit)を与える行為であり、これは道徳的に正当化できないと主張します(Ibid. 126-7)。この利益はより大きな害を取り除くものではなく、例えば感覚的歓楽、物質的豊かさを上げることができます(Ibid. 124-5)。この純粋利益によって危害が相殺されることもないと主張されます。
純粋利益を与えるために害を同意なしに付与することがどう悪いかを示すために、以下のような思考実験を行います。
富裕さん/不運さんの思考実験
富裕さんはとても裕福です。ある日この人は、近くの島に住む隣人たちに自分の富の一部を分け与えることにしました。その島に住んでいる人たちはお金に困っているわけではありません。富裕さんは、金の延べ棒を100個持って飛行機に乗り込みました。富裕さんの目的は、この延べ棒を空から落とすことです。誰にも当たらないように気をつけながら投下しました。富裕さんは、自分の行為によって誰かが傷を負ったり、死んでしまったりする可能性があることを承知していますが、自分の富を分配する他の手段を持ち合わせていません。金の延べ棒を受け取った人の多くは、思いがけないプレゼントに驚きながらも喜んでいます。不運さんは、落ちてくる延べ棒に当たってしまい、その衝撃で腕を骨折してしまいます。不運さんは、人生を変えるほどの大金を手に入れたことを喜ぶのですが、それを受け取るために危険な目に遭うことを事前に承諾していたかどうかはわかりません。Ibid. p.127
以上の思考実験を見ると、富裕さんは総体的に見れば不運さんに(金の延べ棒という)利益を与えてはいるのですが、深刻な害を同意なしに与えてもいるのです。これとアナロガスに、生殖によってその子供に総体的には利益が与えられたとしても、両親はその子供に重大な害を潜在的に与えることになるのです。
たとえ[富裕さん]が細心の注意を払っていたとしても、より実質的な害を避けるために必要であるという正当な理由なく、他人に危害や傷害のリスクを同意なしに課したのである。日常的な子作りも同じような言葉で表現されるかもしれない。Ibid. p.136
そもそも、まだ生まれていない非存在の子供は、助けを求めている人や病人とは異なることに注意しなければなりません。したがって、生まれてくる子供の害を取り除くという目的で生殖が行われるのはあり得ないことであり、ただ「負担」とないまぜになっている純粋利益を与えることが生殖なのです。以上の議論から、シンは、正当化できる害の付与を定式化します。
シフリンの許容可能な危害の原理(原理A)
次の条件が満たされる場合に限り、同意されずかつ些細ではないほどの危害を被危害者Aに故意に与えることが許される:a)それによって被危害者Aを既に存在する/予想される害を軽減する場合と、あるいは救うことができるという合理的な期待がある場合、b)与えられた害は、軽減対象の害よりも小さい害である場合。Singh 2012a p.106, 2012b p.21
この原理によれば、救助や治療による危害の付与は許容される一方で、生殖はa)とb)のどちらも満たさないことから正当化できないことになります。なぜなら、非存在には既に存在する/予想される害はないからです。そうなるならば、生殖は害を軽減するのではなくて、純粋利益を与える行為なのです。したがって、生殖は道徳的に問題のある行為であり、行うべきではないという帰結が導かれるのです。シフリンは以下のようにまとめます。
これ[生殖]は、本人の同意なしに重大な負担やリスクを課すことを禁じる、リベラルで反パターナリズムの基本原理に抵触するものである。これは、たとえそれで影響を受ける人に全体的な利益をもたらすものであっても、この原理に反するものだ。したがって、子作りは、どのような場合でも、結果として生まれる子供に大きなリスクと負担を強いることになり、道徳的に危険な行為となる。重大な負担やリスクを課すことは、例外的で異常な子作りの特徴ではなく、すべての子作りの特徴である。Shiffrin 1999 p.137
2 シフリンの原理への反論
原理Aによって反出生主義が支持され、次にこの原理に対する反論が提示されます。その反論は4つあります。
A)もしその被危害者が「仮定的同意」(hypothetical consent)をするとされる十分な理由があれば、同意なしの危害は許容される(permissible)。したがって生殖者はこの仮定的同意の概念に訴えることができる、
B)もし被危害者が、その危害を「承認する」(endorse)と合理的に予測できる場合、危害をその被危害者に与えても許容される。そして多くの子供が親の生殖を(おそらく)承認するため、この事後承諾(subsequent endorsement)によって生殖が許容される蓋然性は高い、
C)生殖によって親が子どもに危害を与えていたとしても、事後的に「十分な補償」(adequate compensation)を親が行えばその危害は許容可能である、
D)親がその子供に生命という危害を与えることは、もしそれが「第三者への利益が意図されている」(intended benefit to third parties)と事後的に判明すれば、許容される。(Singh 2012b 7-8)これからこの反論をそれぞれ検討します。
3 仮定的同意に関する予備的考察
まず、森岡先生(以下敬称略)の「反出生主義とは何か ― その定義とカテゴリー」(2021)という論文で、同意不在型の反出生主義への反論がなされていますのでそれを検討します。論文は以下のリンクから読めます。
反論は二つあります。まずは一つ目をみてみます。
出生以前にはそもそも同意主体が存在しないので、同意を取ることは原理的に不可能である。同意主体が存在するときに同意を得ずにその主体に何かを強制するのは間違いになり得るが、その論理は同意主体が存在しないときには適用できない。したがって、「同意がないから子どもを存在させることは間違っている」とは言えないことが導かれると同時に、「同意がないから子どもを存在させることは間違っていない」とも言えないことが導かれる。要するに同意不在論は子どもを生み出すことについて何の結論も導けないのである。森岡 2021 p.65
もし同意主体がいないから同意を取ることが原理的に不可能であるならば、例えば、ロールズのような原初状態による契約論も無効ということになります。なぜなら、原初状態の思考実験では実際の人間が想定されているわけではありません。しかしだからといって、そのような議論は現実的ではないとは言えても、そのような契約は原理的不可能であると言う場合は仮定として考える場合の同意もすべて排除されてしまうように思えます。例えば、私と友達が二人で歩いているときに前方からいきなりボールが飛んできて、もし何もしなければそれが友達に当たってしまうから私が咄嗟に友達を突き飛ばして回避させた場合、突き飛ばした場合の危害を事前に同意してもらったわけではありませんが、もしそれができる状況であればしてくれるだろうという「仮定」を置くことができるから突き飛ばすわけです。この例は同意主体が既に存在する場合の話ですが、同意主体が存在しない場合でも同じ理屈が成り立ちます。以下の例を見てみましょう。
改ざん不可能な時限装置に取り付けられた爆弾を、7年間不使用なまま幼稚園に隠しておくことは明らかに間違っている。それは、今はまだ存在せず、生命の権利を持っていないにもかかわらず、死ぬことになる子どもたちの生命の権利を侵害することになるからである。自分の行動が、後に保有することになる権利の侵害につながる連鎖を引き起こすのである。Joel Feinberg, HARM TO OTHERS (1984) note13, at 97.
もし「同意主体が存在するときに同意を得ずにその主体に何かを強制するのは間違いになり得るが、その論理は同意主体が存在しないときには適用できない」のであれば、例えば成人になったら奴隷としてその子供を売るという契約をその子供を生む前に親が契約しても許容されることになります。なぜならそのときに当事者である子供はまだ存在せず、同意をすることはできないからです。この帰結は明らかに間違っており、したがって現在同意主体がいなかったとしても、同意を取らずに生殖をおこなうことに関して真偽を問うことは可能ですし、問うべきであると考えます。
次に二つ目の反論を見てみましょう。
子どもが生まれて成長したあとから、自分の誕生を振り返って、「なぜ自分が同意していなかったのに、自分を産んだのか」という問題提起がなされ得るから、そもそも子どもを産むべきではないという反論が行なわれることがある。しかしこれについては、その問題提起そのものが「出生前に同意主体が存在する」という誤認に基づいていると解釈できるので、そもそも正しい問いになっていないと言える。もし誤認していないのならば、その反論はふたたび前パラグラフの論点[一つ目の反論]に直面する。 もしこの問題提起が「自分を産まなければ苦しまなくてすんだのに、お前が産んだからこうやって苦しんでいるのだ」と親を指さして恨むものであったとしたら、それは非常に一面的である。というのも、その恨みは「なぜお前は若いときに自殺しなかったのか。自殺していれば私は生まれていなかった」とか、 「お前はなぜ結婚を選んだのか、結婚していなければ私は生まれていなかった」など、産む行為ではないところにまで拡張できるはずであるし、さらには祖父母に向かって「なぜお前は私の親を産んだのか」と恨むところまで拡張できる。 さらには日本に向かって「なぜ戦争に負けたのか。負けなければ私は生まれて いなかった」と言うところまで行くことができる。このように恨むべき対象は無限に広がり得るにもかかわらず、目の前の親のある時点の性交渉にのみ焦点を絞って恨むという点できわめてバランスを欠いている。いちばん距離の近い親を名指しする心理はよく理解できるものの、論理全体としては弱いと言わざるを得ない。森岡 2021 p.65-66
一つ目の反論に関する部分は既に論じ終えたので、「自分を産まなければ苦しまなくてすんだのに、お前が産んだからこうやって苦しんでいるのだ」という部分に着目します。これは後にみる承認(endorsement)に関わるのですが、これは「一面的」なものであるとされます。なぜならその恨みは、「産む行為ではないところにまで拡張できる」からだそうです。しかし、もしそうであるならば、もし誰かが私をいきなり殴ってきたとしたら、私はその殴られた行為を恨むことができなくなります。なぜなら、それは「殴る行為ではないところにまで拡張できる」からです。しかしこれは明らかにおかしい帰結です。つまり、何かを恨む場合は危害を発生させた直接の行為(生む、殴る)だけを対象にすればいいだけの話であり、それとは関係ない拡張は端的に不合理な(irrational)な恨みなので却下すればよいのです。しかし、依然として生む行為は危害を与える行為であり、私が殴られたことを承認(endorse)しないのと同じように生殖を承認しないことは正当であると思われます。以上の議論から、同意不在型反出生主義は少なくとも検討に値する考えであることを主張できると考えられます。
4 仮定的同意
さて、これから仮定的同意の話を考察していきますが、ここでいう「同意」が何を指すかを示しておきます。シンはJohn Simmonsの定義を借用し、同意とは「通常は委託者のみが自由に行動できる領域内で、委託者が他の者に特別な行動権を与えること」とされます。したがって同意とは二人かそれ以上の人数で行われ、自己決定権(autonomy)をある程度他人に譲渡する行為であるとされます。そしてこの定義に則れば、仮定的同意は事後同意(subsequent consent)や承認とは異なります。同意は必ず複数人の間でなされるものである一方で、承認は個人内で完結しているものであるとされます。詳しくは承認の議論で触れます。
生殖に関する仮定的同意とはつまり、子供の自己決定権をある程度無視して利益を与えることですが、この同意には二種類存在します。一つ目は客観的基準(objective criteria)による同意、二つ目は主観的基準(subjective criteria)による同意です。客観的基準による同意で最も有名なものはロールズによる「原初状態」による契約です。ベネターは原初状態では反出生主義的結論が導かれると論じていますが、ベネターの議論は詳しく論じません。まず主観的基準の同意にフォーカスし、「もしある人の固有の目的に照らして、どのような提案がその人が同意すると予測するのが合理的なのか」(Singh 2018 p.1142-3)という基準を考察します。これはパターナリズムの原理として定式化されます。
パターナリスティックな危害許容の原理(原理B)
自分の行為に対する客観的な仮定的同意を前提とする正当な理由があれば、無同意の被危害者Aを些細でない程度まで故意に危害を加えることは許される。Ibid. 1144
先の富裕さんの例で、もし富裕さんが島に住んでいる住人たちと普段から仲良くしており、その住人たちの利害や関心、選好を熟知した上で同意を取ることができることが合理的に期待できるのであれば延べ棒をばらまくことは許容されるかもしれません。このとき、富裕さんは住人たちの主観的基準による仮定的同意に訴えていることがわかります。しかし、これはあくまで主観的基準によるものなので、依然として同意が取れない場合もあるのでやはり延べ棒をばらまくのは許容できないとも結論できます。
しかし、生殖の文脈では、この主観的基準による仮定的同意に訴えることは不可能です。なぜなら、これから生まれてくる子供がどのような利害や選好を持つかなどわかりようがないからです。しかし、例えば、子供がどのような選好を持つかを予測することはできると反論されるかもしれません。とはいえ、同じ親の子供であっても兄弟の間で好みが大きく異なることが多いという事実があります。さらに、子供の選好が親の予測に収まる合理的な理由もありません(Ibid. 1143)。さらに、シフリンは、このようなことは稀とはいえ、子どもは存在に対する主観的選好を持っていない場合もあると言っているのです。
では客観的基準による同意を取ればいいではないか、と思われるかもしれません。しかしそれも困難だと思われます。富裕さんの行為は、純粋利益を与えるために危害を加えたのですが、これは原理Aによって拒絶されるし、またその客観性は被害を受ける人によって主観的に評価されるからです。客観的に望ましいものであってもそれを同意なしに押し付けていいかどうかは明らかではありません。シフリンはこう言います。
本人の意思に関する具体的な情報がない場合の仮定的同意に対するアプローチには、利益と不利益の非対称性が存在するように思われる。私たちは、より大きな害を回避したい場合には(反論可能な形で)[仮説的同意の存在を]推定し、より大きな利益を与えるための害の場合には、推定が逆転する。Shiffrin 1999 p.131
つまり、「私には、不運さんが同意するかどうかは明らかではないと思う。また、同意が確実か、合理的に要求されるか、可能性が高いかなど、どのような基準(test)が関連するかも明らかではない」(Ibid. p.132)。例えば、親は生まれてくる子供の選好をどのようにすれば過不足なく知ることができるのでしょうか? また、実際の子供ですら本人の選好をしっかりと把握しているとも言えず、相反する選好を持っている可能性があるのです。その場合に、純粋利益を選好するであろうとする根拠はいったいどこに求められるのでしょうか?
健康な生活を客観的な基準としましょう。この基準に照らすならば、喫煙は健康を害するために客観的にみて望ましくないのですが、だからといって禁煙を今喫煙している個人に押し付けることができるのでしょうか?健康的な生活が客観的に望ましいことと、それを押し付けてもよいという主張は即座に繋がるものではありません。こうしてみると、客観的基準の同意に訴える議論は主観的基準の同意よりも強い議論であるとは言えないと思われます。
4.1 仮定的同意が与えられる危害の程度に関する考察
私には、客観的基準で同意を得られそうな危害は、原理Aにみるような「より大きな危害」を取り除く場合であるように思われます。純粋利益を与えるために危害を与えるのはその利益が客観的にみて良いものであったとしてもそれが同意を得られるかどうかは不明です。そして、生殖という行為は将来の危害を軽減するものではないことは明らかな以上、仮定的同意によって生殖を許容可能にするのは非常に困難なように思われます。
原理Aのb)は、「与えられた害は、軽減対象の害よりも小さい害である場合」にその危害は正当化されると述べています。ここから、例えば以下のようにして生殖を正当化することが可能かもしれません。ある利益が、その利益を手にすることにどれほどの害があるかにかかわらず、最も不合理な人だけが反対するような強い魅力を持つ場合は、その利益のために危害を与えることができるという主張です。しかしシンによれば、そのような反論は成立しないと述べます。
夕日の例
あなたは熱帯雨林の中を走る列車に乗っている観光客の一人です。他の乗員と同様に、あなたも夢を見ずに深い眠りに落ちていました。しかし、ツアーリーダーは起きていて、列車の窓の外を見ると、とても美しい光景が目に飛び込んできます。さて、このツアーにはかなりの人数が参加しており、太陽がちょうど地平線の下に消えようとしています。しかしツアーリーダーには車内を駆け巡って皆を起こすほどの余裕はありません。あるボタンを押すと、座っている人や寝ている人に微弱な電流が流れ、眠っている人を起こしてくれます。ツアーリーダーはこのボタンをキーホルダーにつけていて、それを押します。あなたをはじめとする乗員の全員が、はっと目を覚まします。列車の客車が夕日の柔らかなオレンジ色の光に照らされ、最も印象的な最後の瞬間を迎えています。Singh 2018 p.1147
以上の夕日の例は、夕日が間違いなく客観的な利益であり、おそらく誰もが受け取りたいと思うはずの利益で、それを受け取るために害を受ける必要があるとされるものです。ここで念頭に置かれる利益とは、全く素晴らしい美的体験のことです。電流を流して皆を起こすというパターナリズムな行為は、利益の促進のためだけに行われ、害の防止のためには行われません。
ツアーリーダーが行った行為は果たして正当化されるでしょうか? 上記の例では、夕日の光景という純粋利益に対して、微弱な電流という危害が加えられました。これぐらいの危害であれば、他の乗員たちもまあそこまで怒らないかもしれませんが、もしこの電流が凄まじいものだったらまた話は変わってくるでしょう。つまり、何か客観的によい利益を与えるための危害の程度が重要になるのです。しかし、生殖という行為は夕日という例とは大きく異なるように思われます。なぜなら、生殖によって与えられる利益は客観的に良いとは言えず、また生殖によって与えられる危害はかなり深刻なものであると思われるからです。生殖は、寝ている乗員を起こすような行為ではありえません。しかも、夕日の例とは違い、生殖によって与えられる危害は半永久的に子供に影響を及ぼす可能性も否定できないのです。以上の議論から、仮定的同意によって危害を正当化する原理Bによって生殖を正当化することは困難であることがわかります。生殖によって軽減できる危害は、子供の観点からは存在しないのです。
5 承認(endorsement)による生殖の正当化
同意ではなく、承認によって生殖を正当化しようとする議論があります。承認とは、「私のためにあなたがあれをしてくれたのは嬉しい」"I'm glad you did that for me. "という言葉で表されます。多くの人が自分が生まれたことについて話すときに、このような意味で「承認」を理解しているように思えます。大多数の人が自分の存在を承認しているように見えるという事実と、この事実が生殖の道徳にどのような意味を持つのかについては、詳しく検討する必要があります。(Singh 2012a p.108)
承認によって同意なしの危害を正当化する原理は、以下のように定式化されます。
承認による危害許容の原理(原理C)
次の条件が満たされている場合に限り、同意なしに被危害者Aを些細ではない程度に故意に傷つけることが許容される:a)被危害者Aが自分の行為を後になって惑わされず(undeluded)に承認する(endorsement)と推定する正当な理由がある場合、b)この危害を予見(foresee)していても意図(intend)はしていない場合。Ibid. p.109
つまり、承認によって生殖を正当化しようとする論者は、まず生殖がある程度(pro tanto)悪い行為であることを認めます。そのうえで、のちにその生殖がその子供によって承認されることが合理的に予測できれば、その生殖は許容されると主張するのです。つまり、その人生は生きる価値があり、生まれてよかったと思うことができ、重要なポイントとして、そのような評価は惑わされたものではない(undeluded)ことがわかれば正当化できるのです。したがって、そのような承認が可能であれば、すべての生殖が間違いとは言えないと結論づけられます。例えば、以下の例があります。
サプライズパーティーの例
ジャネットとヨーコは友達です。ジャネットは、ヨーコが仕事で大きく昇進したことを祝うためにサプライズパーティーを開きたいと考えました。ヨーコの気をそらしたり、誤解を招いたり、嘘をついたりするのです。パーティの当日、ジャネットは車のキーを隠しました。その結果すねたヨーコに「パーティのために」ジャネットの家に来なければならないようにして、ヨーコ自身の予定を達成できないようにまでしてしまいます。ジャネットがここまでするのは、ジャネットがパーティーを内緒にしたことを、ヨーコがとても喜んでくれるとジャネットが確信しているからなのです。というのもヨーコは、パーティと同じくらいサプライズが好きなのです。Ibid. p.109
サプライズパーティーが純粋利益であり、それをするためにジャネットはヨーコは危害を加えます。しかし、このジャネットの行為はおそらく許容可能でしょう。なぜなら、まず、ジャネットは危害を与えることを意図しているわけではなく、ジャネットは自分の行為を許してくれるだろうと合理的に予測できるからです。そしてこの例とアナロガスに、生殖はその子供に危害を与えることが意図されておらず、しかもその子供が事後的に承認してくれることがわかるために、生殖は許容可能であると主張されるのです。
5.1 承認による正当化への反論
しかし、以上の主張はうまくいかないように思われます。その反論として、a)どのような承認が有効なのか、b)本当に惑わされずに承認できるのか、c)承認されても依然として許容できない危害がある、の三つを挙げることができます。それをみていきます。
A)そのような承認が有効なのか
ある行為を承認するといっても、その承認の仕方が不合理なものであるならば、その承認は有効にはならないと思われます。シンによれば、子供が親の生殖を承認する場合、実は二つのケースがあると言います。
E1. 感情的な(emotional)承認:
「私は生まれてきてよかったと思う。だから(あるいは、「言い換えれば」)、私は自分の[親の]生殖を承認する。」
E2. 合理的な(rational)承認:
「両親が私を生み出したことは、すべてのことを考えても正当だと思う。したがって、私は自分の[親の]生殖を承認する。」Ibid. p.110
明らかに、E1のような承認は認められないでしょう。なぜなら、感情的な承認が認められるならば、感情的な不承認も認めなければならないからです(私は生まれたくなかった。だから、私は自分の親の生殖を承認しない)。したがって検討に値するのはE2の承認になるということになります。しかし、感情的にならず、完全に理性的に考えて親の生殖を承認する人などいるのでしょうか。ベネターの議論やここまで行ってきた議論を踏まえると、生殖に対する理性的な形での承認可能性には重大な嫌疑がかけられていると思われます。シンにとっては、「ほとんどの人は、哲学的な考察をあまりしていないがために生まれてきてよかったと考えており、そして、そのような考察なしには、自分の[親の]生殖を本当の意味で「承認」することはあまりない」ようにみえるのです(Ibid. p.111)。
さらに、E1のような形の承認でも生殖の肯定は難しいとシンは論じます。なぜなら、人は承認を行うとき、しばしば「生きているときの喜び」(gladness at being alive)と「生まれたときの喜び」(gladness at being born)を混同しているからです。この二つは同じではありません。例えば、臨死体験をすると、自分の人生の価値を見直して生きていることのありがたみを改めて感じることがあります。しかし、往々にしてそのような体験は、生まれた時(人生の始まり)ではなく、死(人生の終わり)という観点から自分の人生を評価するようになり、依然として生まれたことに関しての評価ではないのです(Ibid. p.111)。したがって、原理Cに訴えて生殖を正当化するのであれば、あくまでも生まれたことそのものを評価する必要があり、人生の内容や質によって判断されてはならないのです。自分の人生にある程度満足していたとしても、ある時期の苦しみが許容できないほどであるために生まれてきてよかったとは言えないケースも想定できるため、「生きてきて良かった」は必ずしも「生まれてきて良かった」を肯定しないことに注意しなければなりません。
B)本当に惑わされずに承認できるのか
自分の生殖を承認するとき、そのような承認は単に選好適応によるものではないと言い切れるのでしょうか? ベネターが2006年の本で論じているように、人々は自分の人生がひどいものであると認めたくがないために、しばしば自身の認知を変容させるのです。したがって、そのような現状バイアスを排したうえで承認ができるかどうかを、示す必要があります。人はしばしば反出生主義を「反直観的」であるとして拒絶しますが、反直観的なものがなぜ即座に間違いであると言えるのでしょうか? その直観がもしかしたら選好適応によって「惑わされた」認知による産物である可能性を排除したうえでなければ、そのような反応は合理的であるとは言えません。
C)承認されても依然として許容できない危害がある
以上の議論では、そもそも承認よる生殖の正当化は望めず、したがって原理Cは棄却されるべきであるということを述べましたが、もしそのような承認が可能であったとしてもなお生殖は許容できない場合があります。シンは以下の例を示します。性的暴行を受けた人が、加害者の行動を支持するようになったとします。おそらく被害者は、加害者が自分に対する愛情を表現していると考えるようになり、そのうちその愛情を喜ぶようになったのです。一方加害者は何らかの理由で、自分の行為が重大な被害をもたらすものではないと判断したと考えています。さらに、加害者がこのような有害な行為をする動機は、おそらく、自分のパートナー(被害者)が、自分が被害者に対して、自分の魅力をここまで積極的に見せようと決めたことを喜んでくれると信じているからだとも考えられます。つまり、端からみれば許容できない行為も、当事者が問題ないと考えるようになってしまう場合があるのです。シンによれば、人類の歴史の中で、おそらく多くの結婚にこのようなシナリオが含まれ、残念ながら今もあるだろうと考えられるのです(Ibid. p.113)。このケースのように、自分に対する危害を承認したとしても、それが許されないものである可能性が排除されません。
シンは、「理性的な」(reasonable)判断と「正しい」(correct)判断を区別する必要があると主張します。吟味するべきなのは、生殖が「承認されると信じるに足る合理的なものかということではな」く、それを承認することが正しいのかどうかなのです。
6 補償による生殖の正当化
次にみるのは、生殖というものが確かに危害を与えるものであったとしても、事後的に「十分な補償」(adequate compensation)をすることが出来れば、そのような生殖は許容されるという議論です。シフリンは補償があれば生殖は正当化されると考えていました。このように言っています。
同意されていない混合利益(利益と同時に重大な害を与えること)は、付随的な害が認められ(acknowledged)是正される(remedied)限り、すべて道徳的に許されると考えられる。Shiffrin 1999 p.129
他者を存在させることは、すべての面を考慮して正当化されるかもしれないが、それが正当化される条件は、ある害を防ぐためにさらに危害を与えることが正当化される条件[原理A]とは異なるように思われる。具体的には、この正当化は、与える側が結果として生じる害に対して責任を負う場合にのみ、許容される。Ibid. p.134
しかしシンは、このような立場を拒絶し、補償によっても生殖は正当化しえないことを主張します。まず、補償によって生殖が正当化されるという主張は、以下のように定式化されます。
補償による危害許容の原理(原理D)
次の条件が満たされている場合に限り、同意なしに被危害者Aを些細ではない程度に故意に傷つけることが許容される:a)その危害が合理的な範囲(reasonable limits)に収まっていなければならない場合、b)利益が予測されるものであり、その程度は与える危害よりも大きいものでなければならない場合、c)被危害者Aがその利益の主な受益者でなくてはならない場合、d)危害を与える者は被危害者Aに危害を与えることを意図してはならない場合、e)危害を与えるに先立って、危害者は被危害者Aに対してその危害の十分な補償(adequate compensation)を提供しなければならない場合。Singh 2012b p.63
しかし、シンによれば、原理Dによって生殖を正当化することはできないと主張します。なぜなら、補償をしたにもかかわらず許容不可能な危害が存在するからです。
6.1 補償による正当化への反論
まず、シンは補償においてa)与えた危害を埋め合わせること(making up for a harm)とb)危害を許容可能にする(rendering that harm permissible)は別であると論じます(Ibid. p.73-4)。つまり、ある害に対して補償をしたところで、その害による損害が軽減されるだけであり、危害を与えたことは依然として間違いであることは変わりないのです。与えた危害に対して補償を行うことは正当であったとしても、それによって自分の危害が許容可能になるかはまったく不明なのです。もし誰かが私の腕をいきなり切り落とした場合、それに対して数十億円の補償によって私は腕を無くしたことによる損害をいくらか軽減できるとしても、なお私は腕を切り落としたことは許容できないと考えます。これは、富裕さんと不運さんの例でも同様です。富裕さんがばらまいた延べ棒によって不運さんは腕を骨折してしまいますが、不運さんは手にした金で腕の治療をする以上の利益を得ることができます。しかし依然として不運さんは延べ棒のばらまきを許容しないだろうことが予測できるのです。金の延べ棒のばらまきはより大きな害を回避する行為ではなく、単に純粋利益を与えるだけの行為であり、それによって補償をする必要が生じてしまうなら最初からそのようなことはしない方がいいように思われます。生殖も単に純粋利益を与えるだけであるならば、それによる害に対して補償をするぐらいなら最初から生殖はしないのが良いように思われます。
もし、富裕さんが自分の行為によって生じた損害に対して継続的な補償をする場合、不運さんは以前よりも快適な生活を送ることができるようになるでしょう。しかしその場合に得られるものは「許し」(forgiveness)だけです(Ibid. p.75)。これは先ほどみた承認と同じであるのか不明ですし、許しを得たからといって許容可能性が発生するのかも不明です。さらに補償しなければならない規模がもともと予想していたものよりも大きくなってしまった場合、そもそも補償自体が不可能な場合も想定できるのです(つまり、原理Dのa)を生殖が満たすことができるのか不明です。例えば、数的同一性と質的同一性を踏まえた場合に、損傷させたものを数的同一性のレベルで補償することが果たして可能でしょうか)。したがって、原理Dは棄却されなければなりません。
7 第三者の利益のために生殖を許容する議論
最後に見る議論は、生殖は子供に害をなす行為であると開き直って、しかし子供以外の第三者に利益を与えるならば許容される、という主張です。これは以下のように定式化されます。
第三者への利益による危害許容の原理(原理E)
同意なしに被危害者Aを些細ではない程度に故意に傷つけることが許容されるのは、もし、被危害者Aではない他者に多大な利益を与えるか、もしくは/かつ他者に降りかかる大きな害を取り除く場合に限られる。Ibid. p.81
しかし、シンによれば、この原理Eは二つの理由により間違っているとされます。なぜなら、a)もし原理Eが正しくても、生殖はこの原理Eによっては正当化できないからと、b)そもそも原理Eは正しくないからです。
7.1 第三者への利益による生殖許容に対する反論
原理Eが成立したとしても、生殖が正当化されるとは言えないように思われます。なぜなら、その生まれた子供が第三者への利益となったり、また第三者への害を軽減しているかどうかが不明だからです。むしろ、その子供が生まれたせいで、親が不幸になってしまったケースがあるのではないでしょうか(その子供からすればはた迷惑な話ですが)。例えば、ある人が、自分の親から「孫の顔が見たい」と言われたとしましょう。果たしてその理由だけで生殖をおこなってもよいのでしょうか。私は違うと思います。他には、例えば人類の絶滅を回避するために生殖は許容されると主張されるかもしれません。しかし、人類が絶滅することそれ自体は必ずしも悪いことではないと思います。いきなり暴力的に絶滅させられるような、そのような無計画な絶滅が悪いのであって、計画的に人口を減らす絶滅が悪いかどうかはまだ真剣に検討されていないように思われます。おそらく地球の資源はいつか枯渇しますし、いつか必ず人類は絶滅するはずなので、人口を増やすために生殖を肯定するのは、問題を先送りにしているだけのように思われます。シンによれば、原理Eを肯定したとしても「誰が」生殖をおこなっていいのかという問いが残り、なぜなら社会を存続させるならすべての人間が生殖を行う必要はないからだと主張します。人口を増やすとその分地球の資源が枯渇するスピードが速まり、むしろ第三者にとっては害悪になってしまうのです(Ibid. p.84-5)。私もこの主張に賛同します。したがって、生殖によって第三者に対して利益を与えることは自明ではないため、原理Eが生殖の許容可能性を裏付けることは疑わしいように思えます。
次に、「そもそも原理Eは正しくない」という議論を見ます。そもそも、第三者のために誰かに危害を加えることは正しくないのです。例えばアパルトヘイトやその他の奴隷制度を考えてみてください。この制度によって特権的利益を得る者がいる一方で、この制度によって重大な害を受ける人もいます。しかし、原理Eによれば、このような制度も正当化できてしまうのです。したがって、生殖という行為が子供に大きな危害を与えて第三者に対して利益を付与するものであるならば、それは正当化できないのです。
8 結論
この記事ではベネターのように基本的非対称性に訴えなくても、反出生主義を主張することを示しました。日本ではまだ同意不在型反出生主義は深く検討されていませんが、私はこの立場も非常に有力であると主張します。さて、もしあなたが生殖を行った場合、それは本当に必要な行為だったでしょうか?その子供はそれを同意してくれるでしょうか?