ベネターの反生殖主義はフェミニズムの批判を受け入れるべきである
※本記事で展開する議論はショッキングな内容を含みます。この記事を読むことによって精神的負担が生じてしまう恐れがありますので、あらかじめご了承ください。
本記事の目的は、ベネターに代表される反生殖主義(anti-procreationism)はフェミニズムによる批判が正しいことを受け入れ、その批判に応じて自身の主張を修正する必要があることを明らかにすることです。そのために、➀まずベネターの反生殖主義の内容を簡潔に確認します。ベネターの議論を知っている読者はこの部分を飛ばして次の話に進んでください。ベネターの主張を理解したら、その次に➁この記事で扱うフェミニズムの定義とその主張内容をある程度明確にします。フェミニズムはかなり多様な立場を包括する思想であり、本題に入る前にここで扱うフェミニズムはどのようなものであるかを示す必要があるのでその作業を行います。そして最後に、➂フェミニズムによる反論を展開し、それが反生殖主義にとって重要な指摘であることを述べます。
ここで直ちに注意をしなくてはならないのですが、本記事で問題にしたいことは反生殖主義によって女性に対する抑圧が強まる恐れがあるということですが、ここで言う女性は必ずしも生物学的女性に限るわけではありません(ジェンダーに関する説明はMikkola 2008[2022]を参照)。さらに、本記事の筆者はシス男性なので無意識に不適切な表現を使用してしまう可能性があるため、もし気になる点があればコメント欄でご指摘ください。
1 ベネターの反生殖主義
最初にベネターの反生殖主義において有名な「快苦の非対称性」の内実を確認します。ここで展開される議論は、生殖をする「生殖者」(procreator)と、生殖行為によってこの世に生まれる「被生殖者」(procreatee)において前者は後者に危害を加えているというものです。実は、ベネターの反生殖主義は「生まれてきて良かった」かどうかの問いではなく、むしろ「生殖をしてもよいのか」どうかを問うものです。というのも幸福な生を生きている者でもなお生殖は道徳的に不適切であることがあり得るからです。逆に、不幸な生を生きている者であったとしても、生殖をすることは道徳的に許容される可能性があります。以上から、「生まれてきて良かったのか」という問いはベネターの反生殖主義ではなくむしろ「誕生主義」(Birthism)という別の立場であると理解するべきであり、反生殖主義と混同しないように注意する必要があります(榊原 2021 Cf. 中川 2020)。
さて、生殖者が被生殖者に対して与える/与えない快苦の評価は4つに分類することができるとベネターは主張します。それは以下のようになります(Benatar 2006, p. 30)。
(1) 苦を与えるのは悪い
(2) 快を与えるのは良い
(3) 苦を与えないのは、それによる利益を享受する主体が存在せずとも良い
(4) 快が与えられずとも、それが誰かの簒奪によって発生したものでない限り悪くはない
(1)と(2)は広く同意が取れる主張であると思います。というのも、ある行為によって他人に危害が生じればそれは悪いことですし、利益が発生すれば良いことであると評価するのは自然なはずだからです。しかし、問題は(3)と(4)です。
まず(4)から見ていきましょう。(4)が言っているのは快の不在はそれが奪ったものでなければ悪くはない、ということです。つまり、誰かが食事をしているところでいきなりその食べ物を奪ったら、食事をしている人の快は減少します。これは食べ物を奪った結果として快が無くなったのでこの場合の快の不在は悪い(かつその責任は食べ物を奪った人が負う)ということになります。しかし、そもそも最初から食べ物がないことによる快の不在の場合は誰かが奪われた結果としてそうなったわけではないので、少なくとも誰かが悪いわけではありません。
とはいえ、奪われていないとしても、食べ物がないことによる快の不在は悪いように思えます。やはり簒奪でなくとも快の不在は悪いのではないでしょうか。この点に鑑みて、ベネターはここで言う「快の不在」を明確にしようとします。それによると、「快の不在が悪いと言うとき、苦の存在による悪さと同じ意味で言っているのはな」く(Benatar 2006, p. 41)、というのも苦の存在の悪さは絶対的な(intrinsically)ものである一方で、快の不在の悪さは相対的なものに過ぎないからです(Boonin 2012, p. 12)。それゆえ、ベネターが言いたいのは、快の不在を道徳的に評価するとき、少なくともそれが「簒奪を意味しない限り、快の不在は快の存在よりも悪くはない」ということになります。このようにして、(4)をより具体的に定式化し直すと次のようになります。
(4) それが誰かにとって簒奪を意味する場合、その場合のみにおいて、快が与えられないのは快が与えられるよりも悪い(Boonin 2012, p. 12 強調は原文)。
次に(3)も以上の言い方に従って定式化し直してみましょう。
(3) 苦の不在はそれによる利益を享受する主体がいなくとも、苦の存在よりもより良い(Boonin 2012, p. 12 強調は原文)
さて、ややこしいのは(3)です。というのも(4)の場合は快を享受している主体と快を享受していない主体を比較すればよいのですが、(3)の場合はそうではないからです。つまり、存在している主体が苦を感じている場合と主体が存在しないゆえに苦が存在しない場合を比較しようとしているのです。
ここで感じる疑問は、主体が存在しないのに苦が良いとはどういうことなのか?というものです。というのも、苦というのは現に存在している者が感じるものであって、そもそも存在していない者は苦を感ずることができないため、それが不在であることは当然のことだから肯定的な評価を下すことはおかしいように思われます。
以上の疑問に対してベネターは、Feinberg(1992)の議論に従いながら、凄まじい苦境に陥っている人々に関してはその人々は死んでしまったほうがよいと言うのはまったく問題がないと言います。しかしその理由は死んだ状態の方が苦境にいる状態よりも良くなるからではなくむしろ、そのような苦境に陥るくらいならその人々の厚生の観点からみて最初から非存在であった方が良かったという理由からなのです。
もう一つ例を出すと、あるカップルがこれから生まれてくる子どものために貯金をしていたとしましょう。このとき子どもはまだ存在していないにもかかわらず、これから生まれてくるから養育費をためておく方がその子にとってより良いという判断をそのカップルはしているのです。これは逆に言えば、子どものために貯金をしないことは貯金をすることよりも悪いという判断をしていることにもなります。この評価を生殖そのものに適用すれば、未だ子どもが存在していないとしても生殖をすることはその子どもにとって悪いことであるという評価は可能になるのです。
つまり、(3)が言っていることというのは、ある主体が存在する場合と存在しない場合というのを「想定して」、ある主体が存在するときに苦が生じればそれは悪いことであり、それゆえ主体が存在しないことによる苦の不在は良いことであると判断すべきであるということです。この評価をするに当たっては、その主体が実際に存在しているかどうかは問題ではありません。
以上の議論を踏まえて、快苦の非対称性の内容を改善させてもう一度以下に示します(Boonin 2012, p. 13)。
(1) 苦を与えることは絶対的に悪い
(2) 快を与えることは絶対的に良い
(3) 以下のどちらかが成立するとき、苦が与えられないのは苦が与えられるよりも良い。(a)現実に存在する主体の利益は、苦が不在であることによってより良く実現される場合、もしくは(b)まだ存在していない主体がこれから存在すれば苦が与えられるとき、その主体の潜在的利益はその苦が不在であればより良く実現される場合。
(4) 現実に存在する主体の利益は快を与えられることによってより良く実現する場合(つまりそれが簒奪を意味しない場合)、その場合のみにおいて、快が与えられないのは快が与えられるよりも悪い。
以上の定式に基づいて、ベネターの主張を簡潔に述べます。まず、生殖者が生殖することによって被生殖者はこの世に生まれます。現世において被生殖者は何らかの快と苦を受けます。このとき、以上の快苦の非対称性によれば、この世界で存在している被生殖者は、(3a)によれば、生殖されることによる苦が存在しない方がその利益はより良く実現されることが明らかであり、しかし(4)が言うように、生殖されることによる快は被生殖者の利益をより良く実現するかどうかは不明であるため、生殖することで快を与えることは生殖しないことによって快が与えられないことよりも良いとは言えないとベネターは主張します。
さらに、まだ存在していない被生殖者に関しては、(3b)が言うように、この世界で受ける苦が存在しなければその主体の利益はより良く実現されることが明らかであり、かつ(4)においては生殖をしないことによる快の不在は現に存在する主体から何かを奪っているわけではないので、生殖をすることによって与える快と苦に関しては苦の方がより重大な事柄であることが示され、それゆえ被生殖者をこの世界に連れてくることによって快を与えるよりも、この世界に連れてこないことによって潜在的被生殖者に苦が発生しない状態を優先すべきであるとベネターは最終的に結論します。これがベネターの主張です。
2 フェミニズムの定義とその基本的立場
前節ではベネターの主張を簡単に確認しました。そこで次にフェミニズムによる批判を見ていきたいのですが、その前に本記事が依拠するフェミニズムがどのようなものであるかを明示する必要があります。というのも、フェミニズムという思想はとても多様な用法と意味を持つものだからです(McAfee 2018)。フェミニズムは大きくわけて、各国で歴史的になされてきた女性の権利運動などの政治活動群を指すものと、女性に対する不正義を問題とする思想を指すものがあります(ibid.)。本記事では、後者の思想としてのフェミニズムにフォーカスします。
思想としてのフェミニズム、特に倫理思想として議論されるフェミニズムは以下の3つを理解、批判、改善することを目的とします。①ジェンダーはバイナリーであるという見方、➁歴史的に男性が保有してきた特権、➂セクシュアリティや性的自認などのジェンダーに対する観念が、他者、特に歴史的に従属を強いられてきた少女や女性を抑圧的な社会秩序や慣行によって傷つけられる状態を維持すること(Norlock 2019)。多くのフェミニズム倫理思想は、女性に対する抑圧・利益への限定的なアクセスや男性の特権を問題視するのです。
このようなフェミニズム思想にとって、生殖の問題は非常に重要なものとなります。なぜなら、生殖は特に女性の自由が不当に制限される場面が多く、女性は生殖を直接的/間接的に強制されるからです(Brake and Millum 2012[2021])。例えば、子どもを生むことを拒否した女性は自己中心的で、自然なことではなく、悪魔的だと非難されるような状況があります(Overall 2012, p. 2)。このとき、「女性は子を産むべきである」という女性像が押し付けられ、その結果女性に対する抑圧が発生しているのです。ここでフェミニズム思想が問題にしていることというのは、女性は自身がどのように生きるべきかを決定する能力を持つべきであり、それは生殖の領域においても同様であるということなのです。
次節で展開するフェミニズムの議論が根底に持つ考えというのは、女性がただ女性であるというだけで差別を受け、その自由が狭められることは到底受け入れられるものではないというものであり、反生殖主義への批判もこの考えをもとになされます。次にその議論を見てみましょう。
3 フェミニズムの批判とベネターの応答
ここまでの議論では、反生殖主義の問題を生殖者と被生殖者の間で成立するものとして扱ってきました。しかし、この世界における生殖プロセスは生物によって異なることに注意するべきです。そもそも生殖とはある生物が自分と同じ種の新しい個体を生み出す行為ですが、それには単一の個体だけで行う無性生殖と二体で行う有性生殖があります。本記事で(主に)対象にしている生物はホモ・サピエンスですので男性(より厳密には精子提供者)と女性(より厳密には子宮と卵子提供者)による生殖細胞が接合することによって生殖が完了します(より詳しい説明は中川 2020を参照)。ここで言いたいことはつまり、ホモ・サピエンスにおいて(通常は)生殖者は必ず二人存在しなければならないということです。
そしてさらに重要なことに、ホモ・サピエンスの生殖プロセスにおいては女性の肉体的・精神的負担が男性に比べて極めて大きいというは改めて指摘しておく必要があります。つまり生殖における負担が両性でまったく均一ではないのです。例えば一部の魚類は、雌が外の卵を出してそこに雄が直接精子をかけて生殖をしますが、この場合はホモ・サピエンスほど雌が負う負担は大きくないように思われます。しかしホモ・サピエンスでは、女性は通常10か月ほど胎児を身体の中に収める必要があり、それに伴う身体的・精神的苦痛は大きいものである一方、男性はただ精子を提供すればあとは何もせずとも生殖は完了します。つまり、生殖プロセスにおいて男性は女性にフリーライドしていると言うことができます。
それにもかかわらず、むしろそれだからこそかもしれませんが、被生殖者への責任は主に女性が担うべきものであると考えられてきました。しかし、生殖プロセスにおいては男性も参加しているのであり、女性にフリーライドをしてきた分女性よりも大きな責任を持つことが要求されてもよいように思われます。今述べた生殖における女性の過剰負担と正当化されていない責任の引き受けの問題は、反生殖主義においても生じえます。というのも、生殖プロセスで女性は大きな負担を負うがゆえに伝統的に生殖の責任も引き受けなければならないと(必ずしも正当化されない形で)考えられてきているので、反生殖主義の非難が主に母親のみに対して向けられる恐れがあるのです。このことを踏まえて、ベネターの反生殖主義は女性に対する抑圧につながる恐れがあると論じた議論を見ていきましょう。
ベネターの反生殖主義をフェミニズムの観点から批判した論者にクリスティーン・オーヴァーオールという者がいます。オーヴァーオールはベネターが主張する「苦しい人々を存在させることを回避する義務があり、しかし幸福な人々を存在させる義務はない」ことに同意したうえで(Overall 2012, p. 113)、ただし幸福な人々を生み出す義務がない理由は女性の身体的自律と女性の厚生に対する尊重が重要であるからによっても説明できると述べます(Overall 2012, p. 114)。つまり、女性が自身の身体に対する権原を考慮すれば、身体権は生殖の義務は否定されるべきであることが帰結されます。
この点に関してはベネターも同様の結論に至っています。ベネターは「もしわれわれの側において(on our part)重大な犠牲を強いられるのであれば、積極的義務は多くの人々を作り出す義務を含めることはできないというのは共通の認識である。もし子どもを持つことが(少なくとも妊娠している女性に対して)かなりの犠牲をもたらすものであれば、非対称性ではなくこれこそが幸福な人々を生み出す義務が存在しないことの理由を最もよく説明する」と述べ(Benatar 2006, pp. 32-33)、一見フェミニズムと親和的な主張をしているように見えます。しかし、同時にベネターは、「そのような犠牲を伴うことがなくなれば、幸福な人々を生み出す義務が生じうる(would)。換言すれば、生殖行為においてわれわれに対する多大なコストが発生しない場合には、幸福な人々を生み出さないことは間違いになりうる」と主張するのです(Benatar 2006, p. 33 強調は原文)。
オーヴァーオールは以上の議論を三つの観点から批判します。一つ目は、ベネターが言う「われわれ」には女性が含まれていないように見えるというものです(Overall 2012, p. 114)。以上のベネターの主張は、もし子どもを持つコストが少ないことが判明したら、男性や社会は女性の意志にかかわらず生殖を義務として課してもいいと言っているように見えます(ibid.)。これは明らかに問題があります。というのも、生殖に伴うコストが大きかろうと小さかろうと生殖するかどうかは女性自身が決めるべき事柄だからです。
二つ目の批判は、「生殖が一切の犠牲やコストを要求しないということが本当に可能なのか?」というものです(Overall 2012, p. 115)。むしろ、現に女性は生殖の領域において多大な犠牲やコストの負担を強いられてきたのであり、この点に関してベネターの主張は明らかに間違っていると言います。
最後の批判は、ベネターの反生殖主義は女性に対する敵対的態度を促進しうるというものです。以下にその批判を引用します(Overall 2012, p. 115)。
一般に、ベネターは自分の理論が女性の権利と厚生に与える影響に驚くほど無頓着である。子孫繁栄に関する彼の議論のほとんどは、奇妙なほどにジェンダー中立的である。同時に、ベネターの理論は女性の生殖労働(reproductive labor)が悪い結果を生むことを暗示している。つまり、どんな場合でも生まれてこない方が良いという考え方は、妊娠、出産、授乳、そして育児における女性の生殖労働がこの地球上の純危害(net harm)の蓄積に貢献することを暗示するのだ。
特に、女性の地位が主に出産という役割に依存している社会では、このように子作りを軽視することが女性の地位向上につながるとは考えにくい。ベネターの理論が信憑性を持つとすれば(ありえないかもしれないが)、最も女性差別的な社会においてでさえ(あるいは特に)認められている女性の主要な社会貢献の一つが、負債(liability)とみなされることになる。このような考え方は、女児の嬰児殺や妊婦への暴行を増加させるかもしれない。
以上三つの批判に対してベネターは、オーヴァーオールが述べたように女性を取り巻く状況を「すべて認識している」と主張します(Benatar 2019, p. 365)。まず女性に対して強制的生殖の義務が課され得るという一つ目の批判と、本当に生殖のコストがなくなることがあるのかという二つ目の批判に対してベネターは以下のように応答します。
しかし、片方もしくは両方の潜在的生殖者による生殖において、まったくあるいはほんのわずかなコストしか発生しないという仮説的(hypothetical)および実際的(actual)なケースが可能なのだ。子孫を残すことはほとんどの男性にとってすでに最小限の犠牲しか伴わない(特に、生まれた子どもを育ててくれる者がいる場合には、子どもを養育する費用を割引くことができる)。しかし、女性がそれほどの犠牲を払わなくてもよい状況もある。例えば、ある女性が卵子を余分に保有する場合、それを体外受精に使用することに同意し、その後、希望する妊娠者に移植するか、将来的には人工子宮に移植してもそれほど大きな負担にはならないだろう。このように(妊娠や育児という)犠牲を払う意志のある者がいれば、他の者にも生殖の義務がある、という状況は十分にあり得る(Benatar 2019, pp. 365-366)。
以上の応答が十分なものであるかは疑問を感じます。現に女性は大きな負担を負っているという点を否定しておらず、生殖のコストが少なくなる可能性があると言うだけに留めているに過ぎません。さらに、代理母出産に関しても結局その負担は女性が負っているため(代理母の場において女性はあたかも「胎児を入れるコンテナ」として扱われていることを指摘し、批判する議論としてはBaron 2019を参照)、男性に比べてやはり女性が相対的に大きな犠牲を払っていることはなお事実です。そして、自発的に生殖の負担を負う者がいるからといって、それがなぜ他の者に対する義務を発生させることになるのかが疑問であり、この点に関してベネターは十分な根拠を示していないように思われます。したがって、生殖の義務は女性の厚生の観点から否定されるべきであり、しかも現に生殖においては女性が不当に負担を強いられていることが帰結されます。
次に、反生殖主義が女性(特に妊娠していたり子どもを持つ者)に対する敵対的態度を促進するという三つ目の批判に対して、ベネターは以下のように言います。
オーヴァーオール教授がここで主張していることの中には、間違っているものもある。最も注目すべきことは、私の主張の中に養育が悪いと言っているものはないということだ。子どもが存在するのであれば、食べさせ、育て、養う必要がある。私の見解とは生殖行為は間違っているというものであるが、存在するようになった人々の世話については同様に間違っていると言うわけではない。第二に、私は避妊や早期中絶が道徳的に必要であっても、避妊や中絶を法的に義務付けるべきではないことを明確に主張した。それゆえ、もし―非常に大きなもしではあるが―私の結論がすべて広く受け入れられたとすれば強制的な避妊や中絶は存在せず、女性も男性も自発的に避妊を行いそれが失敗した場合には、女性は自発的に中絶をするだろう。〔...〕もし反出生主義が広く受け入れられれば女性は苦しむことになる、と簡単に主張し、その根拠を示すことは可能であろう。しかし、その逆、つまり、反出生主義の社会では生殖の役割から女性が解放されるとフェミニストの多くが主張し、その根拠を示すことも同様に容易だろう。オーヴァーオール教授も認めているように、反出生主義が女性やフェミニズムにとってプラスかマイナスかということは、反出生主義が正しいか間違っているかということとは関係がない。しかし、もし反出生主義が女性にとって悪いものであると主張するのであれば、単にそう主張する以上のことをする必要があるだろう(Benatar 2019, pp. 366-367 強調は原文)。
確かに、反生殖主義それ自体は女性にプラスに働く場合もあり(ベネターによれば、反生殖主義はとても解放的な思想であると述べる女性がいるといいます Benatar 2019, p. 366n71)、人々の振る舞い次第ではマイナスに働く場合もあるため、反生殖主義の女性に対する影響は社会における女性の理解如何によって変容するということになります。
この点に関しては、以上の引用においてベネターは女性に対する不正なバイアスを持っているように思えます。なぜなら、なぜ主に女性だけが避妊や中絶の措置を受けなければならないのかを十分に説明していないからです(一応男性にも言及はしていますが)。むしろ、男性もパイプカットの避妊をするべきであると積極的に述べるべきです(橋迫 2019, p. 196n4)。現代の科学技術では性器を直接切断する「物理的去勢」だけではなく、薬物の投与によって男性ホルモンのメカニズムに働きかけることによって性欲の抑制をする「化学的去勢」という方法が可能です(若松 2016, pp. 40-41)。避妊措置においても女性は大きな身体的苦痛を伴うだろうことに鑑みれば、女性だけが積極的に避妊措置を受ける道徳的義務があると述べるのは正に女性に対する不当な抑圧になりえます。したがって、現にベネター自身が女性に対する差別をしているので、オーヴァーオールが主張するように反生殖主義は女性に対する敵対的態度を促進する可能性があると思います。
4 女性の利益と被生殖者の利益が衝突するときはどうすればよいか
今の世界では事実として女性に対する抑圧が存在し、女性は生殖をするかどうかを自由に選択できる状況にないと言っていいでしょう。例えば、経済的事由から望まない結婚を強いられる状況が発生していますし(Satz 2004[2013])、「孫の顔が見たい」であったり「跡取りを作れ」という直接的/間接的強制によって非自発的な生殖をさせられる場合があります(Roberts 1997)。そのような場面では、その生殖行為の悪さは少なくとも女性に帰属させるべきものではなく、そのような強制をした男性もしくは親族たまは社会がむしろ道徳的咎を負うべきであると考えます。つまり、生殖行為をしたからといってその悪さがただちに女性に帰属するものであると必ずしも言えないことに注意するべきです。
以上の主張を敷衍しましょう。まず、危害を与えたからといってその行為がすぐに悪いものになるわけではないことに注意しましょう。例えば、私と友人が外を歩いていると、野球のボールが凄い勢いで飛んできて友人の頭に当たりそうになり咄嗟に私が友人を突き飛ばしたとしましょう。突き飛ばすことによって私は友人に危害を加えたのですが、しかしそれによって野球のボールが友人の頭に当たって怪我を負うことを回避できたので、私は友人に危害を加えたにもかかわらず突き飛ばすことは道徳的に問題がないということになります。
それゆえ、ある行為が道徳的に許容されるかどうかを判定するためには、その行為による帰結だけに注目するのではなく、その行為をする理由にも着目する必要があります。それゆえ、生殖行為が悪いかどうかは、なぜその生殖をする必要があったのかを十分に説明することができるかどうかによって決まるということになります(Harman 2004, p. 100)。ホモ・サピエンスの生殖行為は二つの主体による有性生殖なので、生殖をする理由は最大で二つ存在する場合があります。そこで、仮想的に三つのケースを見てみましょう。
ケースA 男性が生殖を望む理由はそれによる快楽を得たいからである。女性が生殖をする理由はそれによって男性との肉体的関係をもちそれによって結婚をし経済的安定を得るためである。
ケースB 男性が生殖をする理由はそれによって「親になる」という社会的な地位を得たいがためである。女性が生殖をする理由も同じである。
ケースC 男性が生殖をする理由はそれによる快楽を得たいからである。女性は男性から生殖を強制されているが、それを受け入れる理由は身の安全を確保するためである。
以上の三つのケースすべてにおいて、生殖の結果子どもが生まれたとします。このとき、その生殖行為がなぜ悪いか、誰が悪いのかの道徳的評価は三つのケースすべてにおいて決定的に変わるように思います。特にケースAとケースCにおいては、女性も被生殖者と同様に生殖による被害者であると言えます。それゆえ、その場面で被生殖者が女性を生殖者だからといって非難するのはその対象を間違えています。むしろ、ここでは生殖を強制した男性を非難するべきであり、さらにその非難は被生殖者だけではなく女性もすることができるのです。
つまり、生殖行為においては両方の生殖者が同じ程度だけ悪いわけではないのです。しかしこれは同時に厄介な問題を生み出します。なぜなら、ケースCではレイプが行われていることになっているのですが、このとき女性は生殖をするか、身の安全を危険に晒すかの二択を迫られていることになります。この時点で、被生殖者に危害を及ばさないために女性は危険を犯してでも生殖を常に拒否しなければならない理由が何なのかわかりません。 以上の状況では中絶をすることも有効な手段ですが、もしその女性が属する社会においてそのような医療施設が整っていない場合や宗教的に中絶をすることが困難である場合も想定することができます。
確かに将来存在する被生殖者の利益も重要ですが、今その女性が直面している危険も同じように重大なのです。このとき、生殖者の女性の関心と被生殖者の関心が衝突しています。私は、反生殖主義が言うように後者の利益を常に優先すべきである理由が何なのか見当が付きません。女性は確かに生殖者になることがありますが、それによって被生殖者と同じかそれ以上の危害を加えられている場合があるのです。
5 結論
本記事で論じたのは、反生殖主義は女性に対する敵対的態度を促進しうるものであり、かつ現実における女性に対する抑圧があることに鑑みれば、生殖をしたからといって直ちに女性が悪いとは言えないということでした。確かに被生殖者が正当ではない理由で生まれることは道徳的に間違っています。しかし、その悪さがどう悪く誰によるものなのかは注意深く検討する必要があります。生殖をした者は全員悪い、という単純な話ではもはやなくなっているのです。
<参考文献>
Baron, T. (2019) 'Nobody Puts Baby in the Container: The Foetal Container Model at Work in Medicine and Commercial Surrogacy,' Journal of Applied Philosophy, 36(3), pp. 491–505.
Benatar, D. (2006) Better Never to Have Been, Oxford: Clarendon. (小島和男・田村宜義訳『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』すずさわ書店、2017)
Benatar, D. (2019) 'Not "Not' Better Never to Have Been'": A Reply to Christine Overall,' Philosophia, 47(2), pp. 353-367.
Boonin, D. (2012) 'Better to be,' South African Journal of Philosophy, 31(1), pp. 10-25.
Brake, E. and Millum, J. (2012[2021]) Parenthood and Procreation. In E. N. Zalta ed., The Stanford Encyclopedia of philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/parenthood/. (最終閲覧日 2022年2月16日).
Feinberg, J. (1992) 'Wrongful Life and the Counterfactual Element in Harming,' Social Philosophy & Policy, 4(1), pp. 145-178.
Harman, E. (2004) 'Can we harm and benefit in creating?,' Philos Perspect, 18(1), pp. 89–113.
McAfee, N. (2018) Feminist Philosophy. In E. N. Zalta ed., The Stanford Encyclopedia of philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/feminist-philosophy/. (最終閲覧日 2022年2月16日).
Mikkola, M. (2008[2022]) Feminist Perspectives on Sex and Gender. In E. N. Zalta ed., The Stanford Encyclopedia of philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/feminism-gender/. (最終閲覧日 2022年2月16日).
Norlock, K. (2019) Feminist Ethics. In E. N. Zalta ed., The Stanford Encyclopedia of philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/feminism-ethics/. (最終閲覧日 2022年2月16日).
Overall, C. (2012) Why Have Children?: The Ethical Debate, Cambridge, Mass.: The MIT Press.
Roberts, D. (1997) Killing the Black Body: Race, Reproduction, and the Meaning of Liberty, New York: Pantheon.
Satz, D. (2004[2013]) Feminist Perspectives on Reproduction and the Family. In E. N. Zalta ed., The Stanford Encyclopedia of philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/feminism-family/. (最終閲覧日 2022年2月16日).
榊原清玄(2021)「反生殖主義とは何か:その定義と内容に関する論点整理」『人文×社会』、2、pp. 35-51.
中川優一(2020)「産むことと生まれてきたこと 反出生主義における「出生」概念の考察」『現代生命哲学研究』、9、pp. 54-79.
橋迫瑞穂(2019)「反出生主義と女性」『現代思想』、47(14)、pp. 189-197.
若松良樹(2016)「犯罪者を薬物で改善してもよいか?」瀧川裕英編『問いかける法哲学』法律文化社、pp. 40-56.