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ショートストーリー バンザイW(ダブリュー)|ピーター・モリソン


 バンザイW(ダブリュー)


 妻はジェットコースターを愛していた。

 知り合ったときから既にそうだった。全国の主要なものは制覇していたし、そろそろ海外にも足を延ばしたいと、度々口にするほどの熱の入れようだった。
 だから妻とつきあい出してすぐ、テーマパークや遊園地に誘われるだろうなと思っていたが、予想に反して、デートはそれ以外……。
 妻はわざとそうしているようで、どうも僕のことを見定めている様子だった。両親に紹介できるかどうかではなく、ジェットコースターに一緒に乗る男としてふさわしいかを。
 つきあい始めてからちょうど一年経ったある日、どんな審査基準をクリアしたのかはわからないけれど、近くの遊園地に誘われた。妻が最初に選んだのは絶叫系マシンではなく、適度なループが組み合わさったスタンダードなものだった。
「ねえ、バンザイダブリューしようよ」
 ジェットコースターに乗り込むと、妻は嬉々とした面持ちで、僕を見つめた。
「手を繋いで、両手を上げるの」
 ちょっとよくわからない。
「何かのおまじない?」
「まあ、そんなもんかな」
 バンザイW。二人の人間がそうやるのを想像してみる。
 まあ、確かに、Wの形になるか。
 それは妻が命名したものか、それともマニアの界隈ではそんなふうに呼ぶのかはわからないけれど、僕はその誘いに同意した。
 シートに腰掛け、安全バーを下ろすと、僕らは手に手を取った。見つめあい、笑顔を交わす。密やかな儀式の始まりのようだった。
 二人を乗せたジェットコースターはカタカタと傾斜を昇っていく。視界が開け、風にさらされる。地上の風景がどんどん小さくなっていった。
「いつ手を上げればいいの?」
 妻に訊くと、しばらくの沈黙があってから、重たそうな口を開いた。
「落ち始めてから……」
 どこか苦しそうなその様子に、妙な違和感を覚えたものの、僕はとりあえず頷いておいた。
 傾斜を半分くらい昇ったところだった。
 繋いでいた手から力が抜けていくのが、はっきりとわかった。ふと見ると、妻の顔から血の気が失せている。さっきまではしゃいでいたのに、今は見る影もない。
「……どうしたの?」
 そう発したものの、一瞬で、僕の声はその場に置き去りにされた。落下を始めたジェットコースターは、容赦なく、苛烈な勢いに僕らを巻き込んでいった。
 激しい振動と空気の摩擦の中で、妻が意識を失っているのが見て取れた。遠心力に弄ばれる彼女の身体を何とか押さえつけようとするが、それにも限度がある。
 いったい妻はどうしてしまったのか? よくない考えがよぎるが、なすすべがない。
 サイクロン、コークスクリュー、ループ。長過ぎるルーティンを終え、やっと、ジェットコースターは然るべき降車場で停止した。
 ぐったりとなった妻に声をかけながら、僕は係員を呼んだ。協力して救護室へ運ぶ。簡易ベッドに寝かせ、しばらく見守っていると、妻は意識を取り戻した。
「……びっくりしたよね、ごめんね」
 ぼんやりとした視線を泳がせる妻の手を僕は掴んでいた。
 病院で診察を受け、その日のうちに帰れたものの、その後、妻は不安障害という病気を発症した。
「ただ怖いんだ」
 妻はジェットコースターに乗れなくなっていた。
 あれだけ好きだったものに、もう乗れない。妻の気持ちを思うと、かける言葉が見つからなかった。
「大丈夫だから……。気にしないで」
 突然バチンと、スイッチが切り替わったみたいだったと、随分あとになってから、妻はそう話してくれた。

 それからというもの、僕らはジェットコースターなしのデートを重ねた。
 ドライブに行ったり、映画を観たり、食事をした。……往来の快活さが影をひそめ、妻は少し大人になったように感じられた。僕も彼女に釣りあうように、自分を改めた。
 僕らは数年つきあったのち、婚約し、そして結婚した。
 すぐに息子に恵まれ、新しい命に一喜一憂しながら、日々を送った。
 妻は症状がひどくならないように、不安障害の治療を続けていた。高所や閉所、乗り物などがだめになることあるらしいが、幸いなことにそこまでひどくはならなかった。
 ときどきテレビで新しいジェットコースターの紹介があるが、彼女はそれを横目でやり過ごす。乗れなくてもとくに生活に支障ないと言わんばかりに、目の前の家事に集中する。
 確かに、僕らは育児や仕事で手一杯だった。
 だからこそ、お互い助けあいながら、何とかうまくやっていたはずだった。
 その日がくるまでは……。

「なんか、物が二重に見える……」

 目を擦りながら、妻がそう呟いた朝のことは、今でもよく覚えている。
「今日は休んだ方がいいよ」
 出社の支度をすませ、ダイニングで様子をうかがっていた妻は、ちらりと時計を見ると、静かに立ち上がった。
「だいぶマシになってきたみたいだから、やっぱり行くね。……悪いけど、コウちゃんの保育所、お願い」
 笑顔を見せて出かけていった妻だったが、昼過ぎに仕事場で倒れて、そのまま意識不明になり、三日もしないうちに帰らぬ人となった。
 脳の腫瘍が原因だったと、医者から説明を受けた。その腫瘍は随分前から妻の中に小さくあって、僕らの知らないうちに成長し続け、ついには妻の命を奪ってしまったらしい。
 ……そうですかと、何とか答えたものの、人の身体の深部で起こっている密やかな変化に、どう気づけばいいのか? ……いや、もしかしてと、僕はゆっくりと顔を上げる。
 妻がジェットコースターに乗れなくなったのは、その腫瘍のせいだったかもしれない。……もしそうなら、あのときもっと検査を入念にして、何らかの対処できていたら……。
 今更……。
 首を左右に動かし、その考えを振り払う。
 何がどうであれ、妻はもう戻っては来ない。それは確かなことだから。

「コウキ、朝だ。起きて……」
 息子と二人きりの生活が始まった。
 仕事をこなし、家事をしながら、コウキの面倒をみる。目が回るほどの忙しさだった。
 コウキにも負担を強いたが、彼は素直にそれを受け入れた。そのうえ僕に気をつかってなのか、妻の話を持ち出すことはなかった。
「おやすみ……コウキ」
 心の底におりのようなものが溜まっていく。そんな感覚が胸の奥にひっそりとあった。
 最初、取るに足らない感情の成れの果てのように感じられたけれど、僕らが気づかぬうちに、それは心の深い部分を少しずつ浸食していたようだった。
「学校に行きたくない」
 ちょうど妻が死んで一年が経った頃、コウキの様子がおかしくなった。
 ベッドの上、膝を抱えて座り込み、目を伏せている。今年、小学校に上がったばかりだった。何か理由があるのか問いただしてみるが、すぐに顔を埋めて泣き出してしまう。
「わからない」
 一言だけやっと話してくれた。あらがえない何かに翻弄されている。丸められた小さな背中から、それがひしひしと伝わってきた。
 妻の死をいたみ、喪に服す時間を、僕らはもっともうけるべきだったかもしれない。
 一応学校と相談してみたが、いじめのようなものはないと言う。コウキのことが心配で仕事も手につかない状態だったが、そうそう会社を休むわけにもない。自分一人ではどうにもできないところに来ている。僕はそう感じ始めていた。
 わらをも掴む思いで、近くに住んでいた義理の姉を頼ることにした。ときどき話し相手になってくれれば、コウキの気も紛れるかもしれない。
 妻の姉は僕より三つ歳上だった。一度結婚に失敗していて、今は一人暮らし。大手のIT企業でエンジニアとして務めていた。僕から連絡するのは初めてだったが、快く相談に乗ってくれた。
「実は今月で会社を辞めることになって……」
 コウキの状態を聞き終えると、姉は少し言いにくそうに近況を教えてくれた。住んでいるマンションは会社借り上げのため、退職後には新しい住処すみかを探さなければならないという。
「コウちゃんの面倒をみる代わりに、しばらくそこにいさせてもらうと助かるんだけど。次の仕事が決まるまで……迷惑かな……?」
 まさに渡りに船だった。僕は二つ返事で、姉を迎え入れた。
 姉は大きめのスーツケース一つでやってきて、違和感なく妻の部屋に収まった。妻が生きている頃から、ときどきここへ来て泊まっていたこともあったので、コウキも姉の存在をすぐに受け入れた。
「コウちゃん、明日はどこに行く?」
 姉は学校に行けないコウキをいろんなところへ連れ出してくれた。博物館や水族館、海辺の散歩やアスレチックまで。
「私の方こそ、気分を紛らわすのにコウちゃんにつきあってもらってるみたいで……」
 苦笑いをしながら、姉は食器を洗った。
「仕事を失うと、やっぱり気分が落ちるもんなんだよね」
 そんな二人の小休止が功を奏したのか、徐々にコウキは本来の溌剌はつらつさを取り戻していった。塞ぎ込むことも少なくなくなり、姉が来てくれてから一ヶ月も経たないうちに、週に数日ではあるが、学校に行けるようになっていった。
「よかったね」
 仕事から帰ってくると、リビングから笑い声が聞こえる。それだけでほっとした。
「コウちゃん、お箸の握り方、変だよ。ここをこうやって、こう。……やってみて」
 息子の箸のもち方にも、気を配れなかった自分に気づく。
 同時に、僕らを理解してくれる人がいる、そのありがたさをしみじみと感じた。

 「これ、借りてもいいよね?」

 物をもたない姉は、クローゼットから妻の服を取り出して身につけた。
 退職を機に長かった髪を短くしたせいか、リビングでくつろいでいる姿を見て、どきっとすることが何度もあった(妻はずっとショートボブだった)。微妙な違いはあるけれど、やはり姉妹、醸す雰囲気はよく似ていた。
 姉のことを、初めて女性として意識したのは、深夜のリビングで映画を観ているときだった。
 コウキの学校のことが落ち着くと、姉はWEBデザインやライターの仕事をフリーランスで始めた。多彩な仕事の範囲の中に、動画配信サービスの映画を観て、それに関しての記事を書くというものがあった。
「ちょっと面白いかなと思って」
 コンタクトレンズを外した姉は、いつも少し大き目の眼鏡をかける。
「どんな映画です? 今夜は」
 金曜の夜、コウキが寝静まってから、酒やスナックを用意して、長ソファで観始める。僕もだいたいそれにつきあった。
 部屋を暗くして、姉がリモコンを握る。
「これなんだけど。ジャンルは……」
 二人とも映画には詳しい方ではなかったので、初めて観る映画が多かった。姉はスマートフォンで公開年や俳優、監督などの情報を調べつつ、再生ボタンを押した。
 ビールを片手にテーブルのスナックを口にしながら、大きめの画面を二人きりで眺めた。長ソファに間をあけて座っていたが、同じ皿をつつき、ワインを酌み交わす頃には、その距離はだいぶ近づいていく。
 ホラー映画を観るときなどは顕著で、僕らの距離はほぼゼロになる。不穏な序章が始まると、姉は座る位置を少しずつずらし近寄ってきて、中盤の展開で僕のスエットの肘を掴み、ラストは僕の肩越しに観る、そんな感じだった。
 布越しに伝わる姉の体温を感じる度に、映画に集中できないことがあった。妻が隣にいるような安心感。手を伸ばせば触れられる距離。それらを悩ましく思ったが、それ以上のことは何も起こらなかった。
 心の片隅から、妻が見ているような気がしたからだ。
 ときどき行き交う僕らの体温は、家族という名の無害な温度へ落ち着き、映画は終わる。
「おやすみなさい」
 リビングから自分の部屋に入り、ドアを背にしてときどき思う。
 姉は、僕のことをどう思っているのだろうかと。

「このままでいいの?」

 たまたま実家に身を寄せたとき、母親がそう切り出した。
「これからどうしたいのか、あなたからちゃんと伝えないと。一緒に暮らし始めて、結構長いでしょ」
 外から見たら、そんなふうに思うのかとぼんやりと考えた。急に罪悪感のようなものを覚えて、返す言葉が見当たらない。伝えるって言われても、僕はいったい何を伝えたらいいのか。
「そんなんじゃ、ないんだ」
 姉には感謝してもしきれない。しかし、そんなことをわざわざ伝える必要もない。もちろん、母親が意図するところは理解できているつもりだ。
 コウキを連れて三人で出かけると、普通に親子連れと思われた。姉の手前、その度に訂正していたのだが、最近は面倒になって、そのまま通すことが多くなっている。
 だからといって、なし崩しのように妻のかわりを姉にお願いするというのも、何かが違うような気がしてならない。姉のことは尊敬しているし、ずっと一緒に暮らせたらいいとは感じている。……けれど。
「曖昧にしておくのは、よくないと思うけどね」
 母親の言い分もわかるし、世間の目も気にならないわけじゃない。ただ、僕の心が定まっていないのに、それを無理やり、言葉に変えてしまってもいいものなのか……。
「このままでいいの?」
 母の問いかけはときおり頭をかすめ、僕の心を乱すのだった。

 姉の三十三回目の誕生日を、リビングで祝った。

 フライドキチンを食べて、ロウソクが消えたケーキを切り分けた。三人でゲームを始めると、すぐにコウキは夢中になった。自然と身振り手振りが大きくなり、ソファの上で何度も笑い転げた。こんなにはしゃぐ彼は珍しかった。
「じゃあ、もう一回しよう」
 夜が更けるにつれ、コウキは目を擦り始めた。欠伸の回数が増えていくのを横目に、僕は声をかけた。
「これでラストにしようか」
「まだ、したいけど……」
「また今度ね」
 肩に手を添えて、姉はくすくすと笑った。
 コウキが部屋へ戻るのを見送ってから、僕は熱い飲み物を二つ用意した。
「ありがとう。……楽しそうだったね、コウちゃん」
 姉はカップを受け取りながら、頬を緩めた。
「自分の誕生日と間違えてるんじゃないですかね……」
 いまだに姉に対して敬語をつかうけれど、それを気にしたことはない。
「また一つ、歳をとっちゃった……」
 姉はカップに口をつけ、細く息をついた。
「三十のときに旦那と別れて、もう三年。新しい人生をスタートさせたはずなのに、すぐに妹が死んじゃって。いろいろ重なったせいか、自分を見失ってた。今ここにいるのも、何か信じられない感じがするし……」
 妻によく似たその横顔を、僕はただ眺めた。
「ああ、勘違いしないでね。ここにいることが、いやだってわけじゃないんだから……」
 姉が真剣な表情を見せたとき、ふっと、心が揺らぐのを感じた。
 姉に対して何か言うべきなら、今なんじゃないかと……。
「もしよかったら……」
 いくら探してみても、この想いを伝えられる言葉なんて見つからない……。それなら。
「もしよかったら、僕らと本当の家族になりませんか?」
 口にしたものの、その言葉には心がないように聴こえた。物足りなさと、余韻の不自然さで、居たたまれない気持ちになっていく。
「コウキも喜ぶと思うし、それに……」
 言葉を重ねてみても、何も変わらない。姉にどんなふうに伝わったのか、想像もできなかった。
 姉は少し驚いたような仕草を見せてから、静かにうつむいた。
「……少し考えさせて」
 僕らは他人から見れば家族だった。
 けれど、そこには何の約束事もない。いつ損なわれるかしれない危うさがある。そんな当たり前のことに、今更ながら僕は気づいてしまった。

 会社から帰ると、姉の姿はなかった。

 妻の部屋にあった荷物がなくなっている。机の上のノートPCも、数冊の本も、クローゼットの服も、銀色のスーツケースも……。
 ネクタイを緩めながら困惑していると、コウキがやってきた。学校から帰ってきたときにはもう、姉の姿はなかったらしい。その手には姉の書き置きが握られていた。

〈突然、出て行ってごめんなさい。困ったときは遠慮なく言ってください〉

 それだけだった。
 僕は深い溜息をついた。こんなことになるなら……あんなこと、言わなければよかった。
「どうして出ていったの?」
 コウキが小さな声で尋ねてくる。抱き寄せて、その背中を擦る。
「お姉さんの都合もある。ずっと一緒に住むわけにはいかないよ……」
 そんな言い分で納得するとは思えなかったが、それ以上のことは言えなかった。
 とりあえず二人で食事をして、風呂に入った。姉がいないだけで、夜は長く静かだった。なかなか寝つけないコウキのそばに寝転んで、同じ天井を見上げる。
「もう戻ってこないのかな……」
 寂しさを埋めるように、コウキは姉と二人で遊びに行ったときのことを、ぽつりぽつりと話してくれた。
「二人で泣いたんだ」
 科学センターのプラネタリウムで夜空を眺めていたときに、姉が突然泣き出したらしい。
「どうして泣いてるの? って訊いたけど、何でもないって、また泣いて」
 他人を想うとき、人は空を見上げるという。ドームいっぱいに映し出された星々を見ているうちに、コウキも泣きたくなったようだ。
「手を繋いで、こうしてくれた」
 コウキは僕の手を取って、自分の頭にあてた。
「同じ匂いがした、お母さんと……」
 コウキの髪を撫でているうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。しばらく寝顔を見守っていたが、静かに起き上がって、コウキの部屋をあとにした。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、リビングのソファに腰を下ろす。背もたれに身体をあずけ、姉やコウキの涙のわけを一人考えた。
 僕らは同じ喪失感を共有しているから、家族のようになれたのだろうか。互いに傷ついた心を癒し、補いあっているから……。
 いや、本当にそれだけなのだろうか?
 落ち着けず、妻の部屋へ行ってみた。閉め忘れたクローゼットの扉が開いている。
 こんなにも呆気なく、人はいなくなるものなのか。あのときも、そして、今も……。
 クローゼットの折れ戸に背中をあずけるように座り込んで、ビールの缶を床に置く。僕の重みで、戸がレールを滑って開いていき、そのまま仰向けに寝転がった。
 クローゼットの中に頭を斜めに突っ込んだまま、何も考えず、呼吸だけを繰り返した。
 頭上に、ハンガーで釣られた妻の服の群れがある。その布の僅かな隙間に、妻の気配が今もまだ残っている気がした。その気配というか、匂いを吸い込むうちに、妙な安心感に包まれていくのを覚えた。
 まるで妻に頭をあずけているような、そんな錯覚に陥った。
 緩やかな微睡まどろみの中へ、僕は身をゆだねようとしていた。

 気づくと、そこは夢の中だった。

 くぐもった喧騒が聞こえ、視界がゆっくりと開けていく。
 ここはどこかのカフェで、向かいには妻が座っていた。チャコール色のパンツスーツ姿の彼女は、穏やかな表情で僕を見つめていた。
 そのスーツはあの日、身につけていたものだと、すぐに気がついた。
 妻の死を受け入れられなかった当時、スーツ姿の妻が会社から帰ってくるところを何度も想像した。パンプスを脱ぎながら、どうしたの? と僕のことを不思議そうに見つめる。そうか、あれは夢だったのかと、現実と想像を入れ替えて、記憶を煙に巻いた。
 姉がやってきたとき、その想像が真実になったような気がした。
「やっぱり、そうなるんだね」
 妻は僕の心を見透かすように切り出した。
 きっと僕と姉のことを言っているのだろうと思い、途端にうしろめたい気持ちでいっぱいになる。
「……大丈夫。コウキのことを頼んだときから、まあ、そうなるんじゃないかなって思っていたし」
「頼んだ……?」
「そう、頼んだの。お願いってね」
 どうやって? という言葉を飲み込んで、困惑した表情で妻を見返した。
「姉妹って、そんなものなの。無意識で繋がってるんだよね。だから、普通のことだよ」
 姉妹のすべてがそうだとは限らないと思いつつも、ストローでぐるぐるとかき混ぜられる、妻のグラスに視線を送っていた。
「それなのに、お姉ちゃん。出ていったんだね。あらら」
 呆れたように笑う。
「まあ、二人のことは二人にまかせるけれど、一つ心残りがあって」
「心残り?」
「そう」
 もう一度、ジェットコースターに乗りたいと、妻は言った。
「……あなたと一緒にね」
 妻は僕の胸の辺りを指差した。
「そうしたらさ、気持ちに勢いがつきそうで」
 勢いって、何だろうと思った。なぜ、それを求めているのか。妻は逝くべきところへ行けてないのだろうか……。急に心配になる。
 それを妻に問い返そうとすると、その夢はすっと終わってしまった。
「一緒にって……」
 頭上で揺れる妻の服を見つめながら、僕はクローゼットの中で呟いた。

 新型のインフルエンザの影響で一年遅れになった妻の三回忌。

 そこで、僕と姉は再会した。
 姉が出ていってから、一ヶ月が経っていた。あれから音信不通というわけではなかったが、SNSでの淡白なやりとりにとどまっている。
 だからだろうか。僕の心はずっと止まったままになっていた。
 黒紋付を身につけた姉は会釈をしただけで、距離を取っている様子だった。気まずい、そんな彼女の態度が気になりつつも、読経に耳を傾け、妻の冥福を祈った。
 法要が終わると、一人佇んでいた姉に声をかけた。夢で見た、妻の心残りを何とかしたいという想いがそうさせた。
「これから少し、時間ありますか?」
 姉は僕の表情をうかがいながら逡巡しゅんじゅんしたのち頷いた。
「コウちゃんは?」
「……送ってもらいました。学校の行事が午後からあるので」
「そうなんだ。コウちゃんも、もう二年生だもんね」
 連れだって歩く中、何か話しかけようとしたが、うまくいかなかった。妙なよそよそしさが態度に滲んでしまう。押し黙ったまま霊園からの坂道を下り、並んでいたタクシーに吸い込まれるように乗り込んだ。
「どこに行くの?」
 姉がちらりとこちらを見たので、僕は運転手に行き先を告げた。
「……遊園地まで」
 不思議そうにする姉に視線をあわす。
「ジェットコースターに乗りませんか?」
「……今から?」
 否定とも肯定ともとれない口調だったが、とくに嫌がることもなく、姉はシートに背中をあずけ、呟いた。

 僕らを乗せたタクシーはバイパスを走り、遊園地の正面ゲート近くで停止した。
 さすがに土曜日、遊園地はそれなりの混雑だった。
 二人分の入場券を買い、ゲートをくぐる。法事を終えたばかりで、その場の雰囲気に馴染めないのではと思ったが、歩を進めるうちに独特の高揚感に包まれていった。
「あの、あれに乗りたくて……」
 僕は不意に立ち止まって、比較的シンプルなジェットコースターを指差した。
 姉は額に手をかざし、頭上に張り出したレールを振り仰いだ。
「並びませんか……」
 黒いスーツに黒い着物、僕らは遊園地に似つかわしくない格好の二人だった。列をつくる人々がちらちらとこちらを見てくるので、互いに顔寄せあい、小言で話した。
「どうして、ジェットコースターに?」
 そう訊いてきた姉に、クローゼットの中で見た夢のあらましを伝えた。ずっとあれから、妻の心残りのことを考えていたことも。
「心残り……か」
 ゴロゴロと音を立て、五月晴れの中を横切るジェットコースターに視線が奪われる。
「それで、私を連れてきたんだ」
 淡々と言う姉の隣で、僕は小さく頷いた。
「所詮、僕が見た夢なんです。……死んでもなお、妻がそんなことを考えているかどうかわからないですし。きっと無意識のうちに、自分に都合のいいような内容になってるだろうし……。でも、ずっと気になっていて」
「いいんじゃない。……なんかその夢、感じるところもあるし」
 姉は前髪を指で整えた。
「だって、妹だったあの子が私の中にいて、奥さんだったあの子があなたの中にいる。それを足したら、一瞬でもここにあの子がいることになるんじゃないかな……」
 胸に手をあて、姉は確信に満ちたような表情をして見せる。
「私たち姉妹ってね、不思議な繋がりがあるんだ。ときどき、すっと重なるときがあるっていうか」
 夢の中で妻も同じようなことを言っていた。そのことを姉には伝えていないけれど、二人の言い分がまさに重なっている。だから余計、その繋がりに神秘を感じてしまう。
「私の記憶って妹に触れたときから始まってるの。生まれたての妹の頭に恐る恐る触れたときから……」
 憂いを帯びたその瞳を、僕はいつしか覗き込んでいた。
「そのときから私というものが始まったの。それまでは私はただの肉の塊で、魂なんかなかったのね。私が忘れてきた魂を、妹がもって生まれてきてくれたんだと……思ったんだ」
 姉は記憶を辿るように揃えた指をこめかみにあてて、どこか神妙に語った。

 待ち行列は着実に進み、僕らをジェットコースターの乗り場まで導いた。

 係員の指示に従い、シートに身体を落ち着けると、安全バーを下ろした。
「本当に、久しぶり」
 囁くように言う姉と視線があう。
 発車ベルが短く鳴り、レールの上をガコンと動き出した。乗り場の屋根が途切れ、光に包まれ、屋外へ。早速、ゴトゴトと傾斜を昇っていく。
 やっぱりというか、当然というべきか、かつて妻と乗ったときのことがフラッシュバックしてくる。彼女の嬉々とした様子。そのあとのぐったりとした姿。……ありありと甦ってくる。
「……ああ、そうだ」
 思わず僕は声を漏らした。
「手を繋いで、いいですか?」
「え?」
 差し出された僕の手を見つめ、姉は少し身を引いた。
「……バンザイダブリューしたいので」
 よどみなく言うと、姉の表情に懐かしさが満ち満ちていくのがわかった。
「……ああ、あれね」
 説明なくして通じたのが嬉しかった。きっと姉妹で一緒に乗ったことがあるのだろう。
 開けた視界の先に、霞んだ港が見えた。風に包まれた風景がいつもより小さく感じる。
 ふと、初めてジェットコースターに乗った日のことが思い出された。部活の友人たちとテーマパークへ行って、そこでだった……。その楽しさは今も頭の片隅に残っている。
 ジェットコースターは誕生以来、決められた軌道を忠実にトレースし続けている。ただただ愚直に。今日みたいな何年ぶりかの訪問も、文句も言わず受け入れてくれる……。
 消えることなく存在し続けているものには、何かしらの意味がある。きっと妻は早くからそれに気づいていたのかもしれない。だから、あんなに愛したんだ。
 傾斜を昇りきった健気なジェットコースターは今まさに、垂直に落下し始めた。
 反射的に僕らは繋いだ手を、天高く突き上げた。もちろん空いた方の手も。
 そのまま空気の塊の中へ突っ込んでいく。
 思わぬ角度で曲がり、グルグルと旋回する。自然と声が漏れて、涙が目尻を濡らす。隣にいる姉の重みを感じ、反転して、自分の重みを彼女にあずける。繋いでいた手は自然と解かれ、バーを握り締める。
 ぼうぼう、ぼうぼうと、ジェットコースターは新しい空気を僕の中心へ送り込むようだった。それは心の奥にある風車のようなものを回転させ、終わりのない考え事とか、こびりついた辛い想いとかを、めりめりと剥ぎ取っていくようだった。
 僕は言葉にならない声を張り上げた。
 姉の黄色い声も、心強く、すぐ隣にある。
 心残りがどうにか晴れて、この勢いが妻にそのまま伝われてばいいと、そう思った。
 最後のループを終えると、ジェットコースターは減速しながら降車場に滑り込んだ。
 けたたましいベルと共に停止し、バーが自然と上がる。
 よろめく身体を面白がりながら、僕らはシートから降り立ち、その場をあとにした。

「結構、見かけより凄いですね」

 施設の外に出ながら、僕は声を躍らせた。何だろう、意味もなく、楽しさが込み上げる。
「たまにはいいね、ジェットコースター」
 姉はハンドバッグを片手に、うっと伸びをする。
「ちょっと座りましょうか」
 スタンドでコーヒーを二つ買い、僕らは近くのベンチに腰を下ろした。
 薄曇りで、穏やかな天気だった。遊園地の浮かれた喧騒に耳を傾けながら、コーヒーを口にする。
「突然出ていって、ごめんなさい」
 両手で掴んだコーヒーに向かって、姉は呟いた。
「こちらこそ、いきなりあんなこと言って……」
 ちらりと横を見ると、そんなことはないと言いたげに、姉は首を振っていた。
 やっと時間が動き出したように感じられた。
「……今はどこに?」
「しばらく実家にいたけど、やっぱり居辛くて、近くにマンションを借りたんだ」
 おどけるように笑って、草履の足を伸ばした。
「あなたに言われて、いろいろ考えた」
 姉は深く息を吐き、話を始めた。
「いつか、そんなふうになるんじゃないかと、ぼんやりとは思ってた。でもね、実際言われて、自分の気持ちがわからなくなったの。突然、周囲の空気が吹き飛ばされたみたいに、息苦しくなって。……ごめんなさい、あなたを責めるつもりはないんだけど」
 すまなそうに姉は眉を寄せた。
「妹のかわりとしてあの家にいるべきなのか、それとも、いちゃいけないのか。……頭を悩ませてるうちに、ちゃんと言葉にしてくれたあなたの気持ちまで疑ってしまって……。どうかしてた。結局、そのまま流されてしまうのが怖くなって」
 逃げ出したんだ、と姉は囁いた。
「妹が死んで、自分の半分が失われたようだった。好きだった仕事も手がつかなくなって、結局会社も辞めたしね。そんなとき、あなたやコウちゃんと暮らすことになって、本当に救われたよ。穏やかで、とても幸せだった」
 姉はじっと僕を見つめた。
「今日、連れてきてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
 複雑なレールに身をよじりながら駆け抜ける、そんなジェットコースターの姿を、僕らはしばらく見つめた。
「ねえ、もう一回乗らない?」
 飲み終わった紙コップを潰すと、姉はベンチから立ち上がった。
「そうですね、せっかくだから」
 さっきより少し長くなった列に向かいながら、どちらともなく手を取りあった。喪服なのもかまわず、両手を空に掲げた。
 バンザイW。
 周囲から変な目で見られたが、笑いあう僕らはもう、何も気にならなくなっていた。

〈了〉

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