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人と話すと修正ばかり

わからない。今週の土日に私がしたことは何故

なのか何も答えを得ることができなかった。

自分の大切なネット友達に土曜に初めて会いに

いった。2年越しにお会いしたわけだけども。

ネット友達は一度も会わないようにしている。

だってその人のイメージを壊したくないから。

あと自分が思うその人へのイメージを変えたく

ないからだった。とにかく自分の頭の中では

ネット友達は最高でカッコよくて可愛くて素敵

で、絶対的に信頼できるものになってるから

壊したくない。そう思うと合わない方がいい。

アニメと同じようなもの。2次元の嫁なのだ。

でも土曜日は会いに行った。3次元に飛び込ん

でいった。ネット友達は生身の人間だった。

イメージは優しそうでゆったりしてて愛着の

ある陽気ないつも笑ってる人だったが、生身の

ネット友達は目がぱち〜としていて、柴咲コウ

のような目つきだった。スタイルもかなりやせ

細っていてめちゃくちゃすらっとしていた。

髪型はロングで茶髪のネット友達は目の前に

いた。生身のネット友達に会うとやっぱり

ネットでの繋がりでは分からない生で伝わって

くる熱量と微妙なニュアンスが肌感であって

情報量が多かった。おそらく向こうも私から

沢山の情報を一瞬にして受け取ってた。

私たちはネットの友達であり繋がりはネットで

しかなかった。それが現実として実際に会うと

ギャップは少なからずあることが証明される。

この差は自分で折り合いをつけていく修正力が

必要だった。私は元来素直でわかりやすい人

だから思った以上に優しさよりもキリッとした

ネット友達の姿に違う、この人じゃないって

思った。でも、話を進めるとネットで話をして

る共通項が答え合わせのように見つかった。

そうか、生身の人間って究極着ぐるみと一緒か

と悟った。人間は生命という着ぐるみを持ち

それを自分と呼び自己を形成してる。

スポットライトを浴びせる部分は人じゃない。

心だ。ホントに心の琴線に触れれることが

ネットではできて生身の体になると心が見えず

らくなる。ただ避けられないのは事実私たちは

人間の姿をしている。心である前に人だ。

土曜日私はネット友達の心に話すか人に話すか

ずっと迷っていた。答えは出なかった。

一緒にご飯食べてお酒飲んで駄弁って最後何故

そうなったか分からないけど駐輪場の街灯の下

で饅頭一緒に食べた。その瞬間が1番目の前に

いる人間に向かっていってたと思う。

私は臆病だったから人に対しては壁を作って

帰るとひと言伝えて帰路に着いてしまった。

日曜日初めてお会いする方とお昼ごはんを食べ

にいった。写真とラインのやりとりだけで

想像した人と直接お会いした人は土曜日と同じ

だった。ただ処理落ちしていた。教育関係

の楽しそうな人だと思っていたが幼稚園の先生

で子供のお世話で日々忙殺されていて中身が

空っぽみたいな人だった。多少のことでは

こだわりがなくて全てを受け入れてる母性の塊

のような人。何を聞いても全てが薄くて何も

輝く光は無く届いて来なかった。わからない。

処理落ちしてたから何にも話が広がらなかった

けどその人の優しさやウチに秘めた力強さは

受け取れた。世界には沢山の色んな人間がいる

けど実際に会える人は限られてて自分が素直に

この人と一緒に過ごしたいこれから先もずっと

と思えるかどうかが大事で。でもそれはやっぱり

心だけじゃなくて人間的に見ても一緒にいら

れるかどうかって大切なことなんだなと思った

。心と身体は両方重ならないと本質は気づけ

ないんだなと。ただ、ネットとリアルの修正に

は未だにどう対応していいのかわからない。

ネットに生きてしまうのは情報量は少ないの

かもしれない。

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