8/6-7の独り言
「エモい」と「チルい」
言葉にしたくない。したらイメージにあるそのものじゃない感じがする。でも頭の中にあるものを外へ取り出してみることは、冒険でとても勇気がいる。それに取り出したものが頭に保管されていた時より良くなっていたり、悪くなっていたり。無意識にそう言うことを繰り返して、余計な考えに力を回さないためにそういう些細なことは日常生活でスポットライトを当てて話すことは少ない。だって無駄な労力すぎるし。でも言葉にならないそのものをとても大切にしたいという思いはずっとあって、それを諦めきれず思春期から抜け出せそうにない私は変わってるのかもしれない。変わってるって言うのは、他人とは違った感性を持っちゃっているってことで、みんな変わってる人、非凡みたいな感じの人が好きだけど、多分私は人間全部が苦手。私も人間なのに。ただ「みんなそれぞれ」って言う言葉を使う人に出会うと頭が沸騰したみたいに怒りが湧いてくる。顔には出さないし、それを誰かに言ってしまったら本当に空気が読めなくてよくわからない面倒な子みたいなレッテルが貼られることがわかっているから。なぜそう思うのかよくわからない。けど、多分その言葉を使うことで考えていたことをやめてしまうからだと思う。それって思考放棄だし、思考停止だ。でもそれをやめろって言いたい訳じゃない。だって思考しない時を作らないなら本当に壊れてしまう。少なくとも私は。考えすぎは太陽の光が差し込まないような暗い部屋に閉じ篭もることと一緒だと思う。それに一つのことを誰かと永遠に考えていられる訳じゃない。妥協っていうとりあえずの終着点が必要な時があることも理解できるし、疲れたくないけどおしゃべりしたい時によく使えることも知っている。
私はすぐ話が脱線しちゃうからあんまり人と話しているときは会話の主導権を握らないようにしている。あと、たまに自分で一体なんの話をしていたのかを忘れてしまうこともある。誰かと喋っていて急にそうなることがあるから困ってる。急に話していた自分が一体なんなのかわからなくなってしまう。ここはどこで、私は誰で、話していたことはわかる。でも、どうやって今まで喋っていたか。暴走列車の窓から何もかも振り落とされたみたいに。そういう時は決まって相手に対して申し訳なく思う気持ちと急に全て無くしたパニックのようなものが混ざり合って逃げ出したくなる。
とにかく私が何を話したいかっていうと、共通点についてだと思う。言葉にしたくない事に対してのイメージは"人それぞれ"だけれど、何かしらの共通するものもそこにはあるんじゃないかしらと思う。言葉にしたくないイメージだけど、それが好きで今ハマっていて、それを誰かに伝えないといけない時、私は「エモい」か「チルい」って言葉を使うことが多いように感じる。
「エモい」は、フィルムで撮った映像、撮ったみたいな映像を見た時とか、サリンジャーみたいな小説を読んだ時とかに感じる。ゲームだと「コーヒートーク」ってやつ。雨が降っている時にもエモさを見出すことがある。その雨は陰湿なものじゃなくて、部屋の中でコーヒー片手に眺めるような雨。淡い色彩の記憶。ある種のノスタルジー。逆に誰も仮面をつけてない仮面舞踏会とか、お気に入りのケーキをお気に入りの音楽を流しながら食べている時とかは「チルい」。そんなふうに私は思う。これは私個人の感想だし、誰かとは違うと思う。でもとにかく共通点は雰囲気で、イメージが多いってことだと思う。
インスタグラムで誰かが言っていた。雰囲気系ドラマが今はやっているらしい。言葉にしたら壊れてしまいそうなイメージを吐露する物語は前からあったけど、特に増えてんのかな?今年の春に引っ越してからテレビがないから世の中と隔絶されすぎて何が起こっているのか全然わからなくなった。調べようと思えば、パソコンやスマホで調べられるけど、そこまで行くやる気がなくて学校で誰かに聞くまで知らないってこともざらにある。いつか突発的なミサイルやら災害やらに気づかなくて死ぬんじゃないかって思うぐらい世の中と区切られている感じがする。テレビがないだけで。引越しする前は余計な情報を垂れ流してくるテレビが大嫌いだったのに今では恋しさまで感じている。
疲れた。今日はここまでにする。
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