将棋女子として思うこと
特にこれと言って心境の変化があったわけではないが、仕事するのも飽きてきたので、かなり久しぶりに記事を書くことにした。
つい最近まで、たった140文字のツイートでさえ、特に伝えたいことが見つからなかったが、
今は『将棋女子』として主張がある。
私は『将棋女子』である。それ以上でもないし、それ以下でもない。誰が何と言おうと私が『将棋女子』だ。しかし、そもそも『将棋女子』って、なんなん?キモくない?そんなこと書いたら炎上するかもしれないが、それはそれでアリだと思っている。
存在がキモいと言っているわけではなく、
表現方法がキモいと感じている。『将棋女子』の厳密な定義は知らないが、『将棋』を指す女性、もしくは観る女性のことをそう呼ぶのだろうか?誤解を恐れずに言うのならば、だからなに?何かしらの付加価値があるの?
女性だろうが、男性だろうが、もしくはそのどちらにも該当しない性別だろうが、盤の前では皆平等ではないだろうか?これはなんかカッコ良さげな名言っぽい感じだから言ってみたかっただけである。
私は一時的に『将棋女子』を名乗っているが、
女子ではない。だって名乗るのは自由でしょ?
きっとプロフィールにそう書きたい年頃ってのもあるでしょ?知らんけど。
『将棋』を指す女性が大変だってのは、何となくTwitterでTLを眺めていると理解はできる。
どうやら世の中には『将棋』をインターフェースとして、女性にやたらとコネクトしようとする気持ち悪い男性が多いらしい。思い返してみると某将棋カフェで運悪く遭遇したことがある。心の底から『ニフラム』を唱えたかった。
『指す女性』に限定すると、『棋力マウント』的な話もだいたいセットでついてくる。それで思い出したのだが、『○年で○段になれる』だとか、『初段になれる勉強法』みたいなのを積極的に発信してくるやつは基本的に信じるに値しない。何故なら、それはそいつのストーリーであって、他人にはだいたい当てはまらない。
ただの捏造の可能性だってある。
そもそも『○段』ってなんなん?って話。
他の記事で書いた気がするから割愛するが、
基準がすごく曖昧だし、これも炎上覚悟で書くが、今は金で段位が買える時代だし、人智を超えた便利な何かを誰でも気軽に使えるのだから、そんなものに価値があるとは思えない。
これは極論なので、反対意見も勿論あるだろうが、私が将棋を辞めた背景にはそんな思想の変化もあった。もしかすると言い訳なのかもしれないが、目的を見失ったというか、『強くなる』という実体のないものに対しての労力、時間をもったいなく感じてしまったのだ。
その反面、『初段』になりたかった時に『初段』になれなかったことが私はとても悔しいし、頑張っていた自分にもう戻れないことを寂しくも思う。同じ熱量で『将棋』に取り組むことはできないし、多分もうこれ以上、強くなることはない。実はやめたと言いながらも毎日3局くらいは指しているが、これは完全に趣味の範疇で、今までの趣味を超えた営みではない。
勝ってもそんなに嬉しくないし、負けるとそれなりに悔しい。でも省みない。それをしてしまうと趣味じゃなくなりそうだから。
正確に表現すると、ある日から私は『将棋の勉強』をやめた。日々、少しずつ弱くなっている気がするし、周りがかなり強くなっている気がする。きっと誰に何を言われても将棋の勉強を頑張っていた自分には戻れないし、特定の誰かと指そうとはしないだろう。
話がだいぶ逸れてしまったが、
結局私が何が言いたいかって言うと、
『将棋女子』を騙るアカウントとか、
『棋力向上』を謳うアカウントには注意しろってこと。SNSで発信している情報は基本的に
鵜呑みにするなってこと。
ちなみにこれはAIが描いた『将棋女子』