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態度リサーチ#1 「学びえぬものをいかに学ぶか」について、人類学者に聞く

この記事は、2021年2月4日、オンラインでおこなった表題の公開トークを再構成したものです。1時間のトークでしたが、全文書き起こしで2万字近いボリュームになっておりますので、記事をとりまとめた上平の判断で重要な発言にハイライトの太字を入れました。お急ぎの方はこれをガイドに、ざっと読めるかとおもいます。デザインリサーチ・UXリサーチ・マーケティングリサーチ界隈の方必見の内容です。


■第一部:学びえぬものをいかに学ぶか

上平:本日のゲストは、人類学者の比嘉夏子さんです。

比嘉:はーい、よろしくお願いします。

上平:第一部では、まず私からいくつか比嘉さんにお聞きしたい質問を用意してきましたのでそれをもとに進めていきたいと思います。

オーディエンスのみなさんからは、まっさきに人類学と態度がどう繋がるんだ、という疑問を持たれるかもしれませんが、私から見て、比嘉さんは極めて優れた「リフレクティブ・プラクティショナー(省察的実践家)」だと思っています。ドナルド・A・ショーンという人が、専門家というものは、固定的な知識をたくさん蓄えて一定の閾値を超えたあとは合理性に沿って動くような立場ではなくて、現場の中に身を委ねつつ、その状況を見極めつつ切り抜けていくような、しなやかな(リフレクティブな)知とともにある存在なんだ、と提唱しました。まさに比嘉さんはそんな感じのことを実践されています。

比嘉:はい、ありがとうございます。

上平:もう一つシンクロしているのが、比嘉さんが書かれた書籍「贈与とふるまいの人類学」(京都大学出版会)です。オセアニアのトンガ社会についてのエスノグラフィーで、博士論文を本にされたものです。

この本のキーワードになっているのがトンガ語の「アンガ」で、なんとこれが日本語でいうところの「態度・ふるまい」です。この2つの点で面白い話が聞けるかな、と考えてお招きした次第です。


それでは最初の質問にはいりましょう。比嘉さんが共著で書かれた、「地道に取り組むイノベーション」(ナカニシヤ出版/2020年10月)で、衝撃をうけた一節があります。

文化人類学会に所属している約2000人のうち、人類学の領域の外で研究している人はおよそ50人ほどしかいないと、その閉じた構造を指摘されていました。その辺のことをお聞きしたいです。比嘉さんは50人の中でも特に積極的に企業とも協働されていて、かなり珍しいスタンスを採られていると思われますが、比嘉さんはなぜそれができていらっしゃるんでしょうか。

比嘉:なんででしょう・・・?。なんていうか、そうしなければっていうよりは、そうではないことが不自然っていうか。さっき上平さんが冒頭でおっしゃってくれていたけど、人類学の人たちって、フィールドワークではたくさんの他者と出会うし、私たちがやってることって、そもそもとてもリフレクティブなんですよね。自分は人びととどういう関わり方をするんだろうとか、ここで自分がやっているフィールドワークってなんなんだろうとか、ここでわかったことってどんな意味があるんだろうとか、すごく考えるんです。

 それにもっと時代を遡ると人類学はヨーロッパの植民地主義の一翼を担って発展してきた過去もあるから、色々な自己批判をします。「自分たちがやっていることすごいでしょ?」って訳じゃなくて、自分たちの営みを深く問い直す、下手をするとかなり自虐的に扱ったりもする。それほどまでにリフレクティブな研究者たちだと思っています。加えて、人類学者は自分のフィールドを持ちます。私だったらそれがオセアニアのトンガですが、そのフィールドと自分との関わりについては他のみなさんも深く考えられるんですよね。

でも、人類学者はそのように遠くにいる他者のことを深く考えている割には、いま自分の生きている世界・・・っていったら変だけども、もっと身近な人たちにひらいていく部分、つまりフィールドの対象とはまた別の現実社会との関わり方みたいなところがスポッと抜けている感覚が私にはあったんです。それを考えないことが自分にとっては気持ち悪かった、という感じです。

上平:なるほど。特定の世界だけで閉じがちなのはアカデミアの悪いところですよね。でも比嘉さんは実際に人類学のエリアから出て活動されていて、さらに出ていったビジネスの場でも、企業の方々の調べ方に厳しく提言されている。両方の領域に喝をいれてらっしゃるのは珍しい(笑)

比嘉:いつも攻めてる人みたいになってますけど(笑)

上平:いや、極めて誠実だと思いますよ。聴いてらっしゃる方にそのへんの下りを少し説明すると、人類学の知見をビジネスに活かそうとする、ビジネスエスノグラフィという領域が在るんですが、ビジネス向けだからアカデミックほど本格的なものではなくて、限定した必要な範囲だけでいいんだとか、そういう手法としての捉え方をされる方は結構いらっしゃるわけです。でも先程紹介した本の中で、定性的な調査を謳うんだったら自分から勝手に境界線を引いて言い訳しちゃいけない、本気で向き合え、無駄を省いてアタリだけを効率よく引こうとするな、って強く主張されているんですね。この忖度しない態度には非常に共感しました。


比嘉:そうですね。いわゆるアカデミアの研究者と企業のリサーチャーの違いなどはあるのかもしれないですけど、社会のなかで出会う人びとを「わかろうとする」のは同じはずじゃないですか、企業の人も研究者の人も。で、何をどこまでわかりたいかっていう点では、研究か実践かで多少違うことがあるかもしれませんが、とはいえ大学でも企業でも、あまり関係ない部分もあると思っていて。ある意味みなさんとフラットにお話ししたいんですよね。

もちろん研究者の方が長いスパンで色々なことをやれる条件は比較的揃っているし、成果物の出し方も違うし、予算の組み方も違うし、っていう環境の違いはすごくある。ビジネスの方がもっと早いサイクルで、もう少しわかりやすい結果を求められるだとか、色々な条件の違いはあるけれども、とはいえ人間を理解するという私たちがやりたいことのゴールが同じなんだったら、それに向かってベストを尽くした方がいいわけですよね。そういうことが話せる人たちと一緒に色々やっていきたいなっていう風に思います。

上平:なるほど。本をいっしょに書かれたUCI Lab.の渡辺さんみたいな、そういう研究者的なマインドを持った上でビジネスに向かわれている方を比嘉さんの中で選ばれてるんでしょうか。手軽にやっている方ではなくて、根性あると認めた人っていうか。

比嘉:私が選んでいるかはわからないですけど、私と一緒にやろうとするとみなさん結構不安そうな顔をしたりとかしますよ。大丈夫なのかこれ?結果は出るのか?みたいな不安とか、あとは人類学的なプロセスには結構タフな瞬間が訪れるから、そこについてこれなくなっちゃう人とか、その独特の時間の流れに対してもう無理!とイラついてしまう人もいるし。そうやって一緒にやれる人やれない人は自然と出てくる部分もある。

上平:けどわからなさに向き合うならそのくらいやらないと、ですよね。比嘉さんみたいな人が背中をみせているからこそ、リサーチ界隈の方々もピシッとするんじゃないでしょうか。とれる時間が短いと、どうしてもその中でやれることを優先してしまいますので、つい調べる範囲は狭くなってしまいがちです。それは本末転倒ですよね。そもそもなんのために調査するのかと。

では次に、もうちょっと軽めの質問です。人類学者のトレーニングというものがやはりあると思うんですけど、実際、どうやって学んでいくのかに興味があります。多くの大学では文化人類学のレクチャーは開講していますが、講義や通常のゼミでは学ぶのはとても難しいのではないでしょうか。比嘉さんはどうやって人類学者になっていったんですか?

比嘉:今日のタイトル「学び得ないものをいかに学ぶか」のままですけど、私が過去にいたところって、何かを教えてくれるところじゃなかったんですよね、ある意味では全然教えてくれなかった。つまり、いわゆる教室の教育はみなさんが思うほど受けていません。ではどうだったか、というと、とりあえずやってごらん!みたいな。

上平:それは京都の街なかでエスノグラフィをやってごらんっていうことですか?

比嘉:いや、京都に限らず自分でどこかに勝手にいって「やってきてごらん」っていう感じですね。

上平:なるほど。では本当に学内では習わない訳ですね。

比嘉:そうですね。先生たちがやっている研究やそのやり方の生々しい断片みたいなのはもちろん話を聞いたりとかするんだけど、ただやっぱり難しいのはそれをそのまま自分もやれるわけではないんですね。そもそも先生達とは全然違う場所だし、全然違うテーマだし。先生がうまくいったから、同じように私もここでこうすればうまくできるっていう話では全くないんです。人類学はいわゆる汎用性の無さが、あるいは個別性が、他の分野よりもとても強いと思います。そういうことを経験を通して学ぶんですよね。

上平:その場でわからなくて困ってしまうことはないんでしょうか。例えばデザインでもフィールドワークを取り入れるのは一般的です。でもいざ街に出ても何を見ればいいのか全く分からず、つまずいちゃう人はいっぱいいるんです。

比嘉:つまずきますよ。多分つまずいた後に、そのままそこでつまずき続けられるかどうか。たくさんつまずくことを辛抱強く続けられるかどうか、というだけだと思います。

上平:なるほど。そういう打たれ強いタフさが必要な資質なんでしょうね。人類学者の奥野克己先生が「人類学者はマゾなんですか」っていう質問をされた、と書かれていたことを思い出しました。

比嘉:そうですね。だからうまくいくことの方がむしろ珍しいともいえます。成功するイメージをフィールドワーク初学者は持ってしまうかもしれないですけど、ずっとやっていると、どうやらこれは上手にできるようになってゴールに到達して終わるような、そもそもそんな構造の仕事じゃないんだなって、だんだん気づいていくんですね。

上平:そこを比嘉さんの経験に照らし合わせて聴いてみましょう。贈与論というのは人類学の分野ではいろいろな積み重ねがあるわけですけども、単にモノをやりとりするだけではなく、パフォーマンス(ふるまい)と分かちがたく構成されていることを明らかにしたのが比嘉さんの研究だとおもいます。この「ふるまい」っていう視点を発見するのには、どのくらいの時間がかかったんでしょうか?

比嘉:すごくかかりましたよ。「そういうことなんだ!」という気づきが訪れるのって、ざっくりいうと全体のうちの真ん中よりも後半だったと思います。フィールドワーク全体の前半戦は何がなんだかわからないまま受け止めていましたね。この研究に限りませんが、何がポイントなのかっていうのが見えないままにそこにいる時間が、少なく見積もっても半分はあると私は思っています。なので、だいたいのことはやってみないとわからないことですよね。

上平:その半分っていうのは・・・年単位ですよね。

比嘉:そうですね。だから2年だったら1年は「わからない」状態ですね。(笑)

上平:ひゃー。そのくらい根気強く、わからないことをわからないまま自分の中で受け止め続けなければいけないってことですね。たしかにそれはタフでなければ務まりません。

比嘉:そういう意味では奥野さんがおっしゃるようにマゾなのかもしれないです。

上平:もうちょっとここについて深めてみたいと思います。定性調査に必要な、いわゆる「観察眼」とか「洞察力」とかですね。こういった力を身につけていくのは結構時間がかかるもので、そういう意味ではやっぱり学校の中では学びえないものではある気がします。今比嘉さんは大学教員でもありますが、それに対してどうされているんですか?

比嘉:「観察眼」については、私もどうやって説明したらいいだろうってよく考えていますね。そこに興味がある方はたくさんいらっしゃるし、「どう観ているんですか、どうやったらわかるんですか」みたいな質問も多くきます。それに対してどんなふうに説明しようかと考えるんですけど、実はみなさんがパッとイメージする「観察」、つまり、よく見てスケッチするような視覚的な観察は、ほんの入り口に過ぎないと思っているんですね。

相手や対象をよく見ないで「関わる」ってことはないと思うので、細かくみるということは、そこから関わりを作っていったりとか、相手を知ったりするための起点として細かくみるということです。だから決して観察だけで成立する話でもないんですけど、観察だけで成立すると思っている方も結構いる。観察して詳細に記述すればそれでわかったことになるって思っちゃうんですね。そのレベルでわかればいいこともあるかもしれませんけど、少なくとも人類学的な観点での「わかる」は、観察でわかることは入り口レベルでしかなくて、そこからもっともっと踏み込んでいく先が存在するっていうイメージなんですよね。

上平:なるほどなあ。そこの部分は比嘉さんのやり方はすごく面白いですよね。UCI Lab.のウェブサイトでも公開されていますけど、「相手にターンを取らせる」とか。普通リサーチにいったら、自分からペース作ってどんどん質問をしちゃうじゃないですか。それを逆に相手が喋るまで待つっていう。

比嘉:最近気付いたおもしろいエピソードなんですが、私がインタビューをしてると私の方が逆に質問されたりするんですよ。それはターンの問題というよりも、私が調べて聞く人、相手はずっと聞かれる人みたいな、予め設定された関係性ではなくて、その「主客」が入れ替わっていくような出来事なんですよね。私のことを聞かれるってことは、相手との関係が何かそこで変わっていることなんだ、と改めて気づいて、それは結構大きいことだな、って思いました。

上平:おおお、関わり合うことによって相手が変わっていく・・・。そういう関係がつくられていく中の、ごく一部分に目に見える「観察」があるんですね。

比嘉:そうですね。

上平:ありがとうございます。もう一つ、今の話に繋げて質問させてください。文化って時代の中で急速に動いているわけじゃないですか。トンガの話も、伝統的な経済と現代的な経済が混じり合っていることがとても面白かった。でも文化をエスノグラフィとして記述する場合、ある一点を深めれば深めるほどその場で起こっているライブなことから離れていくのではないでしょうか。我々が使っている電子マネーだって日々変わっていっているような感覚がありますよね。例えば2021年2月に焦点を当てて、調べて事象を切り取って深く考えれば考えるほど、時間が経っていくわけですから、過去になっていく気がします。それに対して研究ではどう折り合いをつけているんでしょうか?

比嘉:人類学だとその時間のことを「民族誌的現在」っていったりするんですけど、そこに書かれている時っていうのは、私が調査していた時なんですよね。つまり「今ではない」っていう。しかも長期調査をする人類学のような学問だと、それが何年か前のことにどうしてもなっちゃうわけなんですよ。なのでそこをどう捉えるかっていうのは課題としてあって、少なくともその時のそのことですよ、というのをきちんと明示するというのは最低限のルールです。これが不変的あるいは普遍的なことであるように書くと誤解されてしまうから、これは何年の何月に見たことなんですよ、っていうことを少なくともきちんと説明することですね。

また別の言い方をすれば、私たちはその対象と長く関わり続けるのが基本だから、変化というものを感じざるを得ない。例えば毎年フィールドに通ってたりすると、同じことを見ようとしても去年との違いが嫌でも見えてくる。だから、別に違いや変化をわざと取り出そうとしなくても、定点観測のようにみていたら変化が自然と取り出されるみたいなことがあると思っていて、それは長いスパンで関わるからかなって思います。

上平:なるほど。ついでに具体例としてお聞きしますが、トンガの祭りでお札を体に貼るみたいなこともその時だけなんですか?ずっとやっているとかではなくて。

比嘉:やっぱりそのやり方だったりとか、私が主にみていた経済の話って、例えば貨幣価値は当然変わるし、コロナになって経済状況も変わるし、っていうのは世界中どこでも同じですけどね。色々なことが変わり続けてはいると思うんですけど、少なくとも数年で急速に覆ってしまうような話ではあまりないと思うんですけど、細かく見ればやっぱりそのことが徐々に衰退していったり変わっていく部分はあると思います。

上平:そこは出来事を単発として捉えるのではなくて、前後関係の中で丁寧に位置づけなければならないってことですね。

比嘉:そうそう。そういう行為をその時にしていたということを記しつつ、私たちもなるべく常にアップデートして、彼らが変化しているところも捉えられたらって思います。

上平:後発の研究者たちが比嘉さんの調査を見て、この時にこんなことを感じていたんだみたいなこともありますよね。

比嘉:はい、私自身が全部をカバーしたいと思っても絶対に無理なので、そうやって私が調べて書いていたものをきちんと置いておくと、それを読んだ誰かが更に研究を進めてアップデートしてくれるっていうのがアカデミックのよいところの一つだと思うので。

上平:その辺は、研究者間で非同期でコラボレーションしているとも言えるのか。

比嘉:まさにそうですね。

上平:ところで、エスノグラフィって「マツタケ―不確定な時代を生きる術」で知られるアナ・ツィン(カリフォルニア大学サンタクルーズ校)のようにチームで取り組んでいくみたいなのはわりと最近ですよね。これまであまり盛んでなかったのは、マリノフスキーのように一匹狼みたいな人が伝統的に多かったからなんですか?

比嘉:それもありそうな気もしますが、どうなのかな。初期はむしろ一人でフィールドに入るみたいなことはできなくて、ビザの問題だったり飛行機でどこかにいくことがここまで簡単にできる時代ではなかったので。そうするとフィールドはもっとハードルが高くて、秘境に入っていくような探検隊的なチームを組んでいたんですね。そこでは異なる専門分野の人たちがチームを組んで調査をやっていたイメージです。

 それがもう少し気軽に、一般人に海外旅行が普及してくると、かなり奥まったところに自分ひとりでも行けるような環境が整って、そこから一人で行くフィールドワークというのができるようになったと思います。最近の人類学者は自分一人でフィールドワークに行くというのがデフォルトになっています。そして同時に、今上平さんがおっしゃるようにチームでやるようなことも新しい方法の模索として出てきているっていう。チームエスノグラフィとかもそうかもしれませんね。

上平:なるほど。ありがとうございます。では最後の質問で、これは未来の話です。比嘉さん自身はリサーチの立場から、デザインのプロジェクトにも非常に近いところにいらっしゃると思うんですけど、ティム・インゴルドやデビッド・グレーバーのように、アウトプットがエスノグラフィーでは捉えられないアクティビスト的な人類学の方々がいますよね。比嘉さんはそんな方向に向かわれるのでしょうか、っていうところをお聞きしたいです。

比嘉:そうですね、何を持ってアクティビストというのかっていうのはなかなか難しいところだし、インゴルドとかグレーバーのような人に並べるのはおこがましいんですけども、やっぱり何かを実践していくことは大事にしたいですね。というか、私は「生ぬるい気持ちで人を観察するとか言わないでくださいね」と、にこやかな顔でスパルタするところがあるので。そういう感じにやっていると、自然にアクティビスト的になっていく可能性はあるんじゃないでしょうか。

上平:確かに、比嘉さんはアカデミアの外でも活動して積極的に発言されていますしね。現在の日本社会に生きる人々にも人類学者の背中を見せているということが、まさしく生きる「態度」の問題で、とても参考になりました。ありがとうございます。

第二部:コラボレーターの証言

さて、ここからは比嘉さんのスパルタ教育を実際に受けた方がいらっしゃるので、具体的な話を聞きながら進めていきたいと思います。渡辺さんと水上さんをお招きしています。

比嘉:渡辺さんを紹介すると、私と一緒に昨年出した「地道に取り組むイノベーション」という本を協働で書いた方で、現在はUCI Lab.の所長をされています。

渡辺:みなさん、こんばんは。UCI Lab.の渡辺です。"イノベーション"界隈で、比嘉さんと協働しているリサーチのようなわかる領域とつくる領域をいかに混ぜるかという仕事をしています。

比嘉:水上くんは、私の京大時代の後輩に当たる人で、今は某企業でUXコンサルタントとして働いています。

水上:こんばんは。

上平:では、渡辺さんに具体的なエピソードを教えてもらえると嬉しいです。

渡辺:若干、比嘉さんへのクレームみたいな形になるかもしれないですけど(笑)

今日のタイトルはすごく良いですね。この「学びえないものをいかに学ぶか」の1サンプルとしてお話しさせていただければ。先ほど上平さんが比嘉さんにされていた2つ目の問い「比嘉さんは(人類学を)どう学んでいたか」っていうテーマに絡めて。これは僕が今まさにプロジェクトを通じて学んでいることでもあります。私は今まで仕事の中でいわゆるマーケティングリサーチとかデザインリサーチをしてきたわけですけど、そういう人が「人類学的なわかりかた」をわかろうとしたときに、いかにこれまで身につけた「知識」が邪魔をするかを実感しています。それは、言葉で理解していることと実際にできることがどれだけ違うか、っていうことが身に染みてわかるって言う話です。

具体的にお話しします。僕と比嘉さんって出会ってからの2年間で5件ぐらいコラボしてきて、「地道に取り組むイノベーション」に書かせていただいたのは、そのうち4件です。そのあと現在は、これまでのプロジェクトとは違うアプローチで、「タオル探求プロジェクト」というものを行っています。どう違うかというと、それまでのプロジェクトは、UCI Lab.側、ビジネスサイドのプロジェクトに人類学者が単身で乗り込んでもらうという建て付けだったんですよね。今回はその構造の主客を入れ替える。

もちろん、いままでのビジネス的構造のプロジェクトの中でも、比嘉さんはたくさんちゃぶ台返しをするし、終わった後のリフレクションでは抱いた違和感について包み隠さず話してくれていました。そういった比嘉さんのフィードバックは、その都度で納得するし、プロジェクトの内容にできる限り反映させてきました。だけど、「どうやら私はまだ比嘉さんの仰っている深いところまではわかっていないのでは?」とずっと感じていました。そこで今回の「タオル探求プロジェクト」では、これまでの主客を入れ替えて、人類学的なリサーチをしている中に僕が単身で入る、という建て付けにしているんです。

で、そうすると、まあ・・できないんです。40代のおじさんがびっくりするくらいできなくて、凹むんですよ。一つ一つの局面での判断が今までのビジネスでのリサーチとは違う基準なのでとても難しいし、比嘉さんとは見ているところもまったく違うな、ってことを痛烈に気付かされます。

いくつかの違いをここで共有すると、例えば調査仕様の設計について。このプロジェクトの始まる頃、去年の8月くらいに話していた時には、きちんとパネルから被験者をリクルーティングをして、そこから3つの調査手法を段階的に行って比較する予定でした。まず、対象者に家中のタオルの写真を撮ってもらう調査。その後、オンラインでインタビューを、さらに一部の人に家庭訪問をしようと。そうしたら、タオルについてわかるのと同時に、それぞれの調査手法の違いの可能性や限界も見えて面白いんじゃないかみたいな話をしていたんですよ。まだ夏なのでかき氷を食べながら(笑)
でもいま冬になって気がついたらですね、パネルからのリクルーティングではなく、私と比嘉さんそれぞれの知り合いの家に一人が家庭訪問して、もう一人はそれをzoomで参加して、みたいな調査方法をしているんですよ。元の設計とは全く違っている。手法としては当初の想定と全く変わってしまってるんですけど、不思議とそもそも目論んでいたことは全部できているんですよね。プロジェクトの途中でも、調査手法も、プロジェクトの設計自体もいくらでも変わりうる。

比嘉:より良い方にアップデートするみたいな。

渡辺:むしろ当初の想定より豊かになって、わかることが広がっているみたいなことが起きていると思ったんですよね。これは、クライアントとの案件で、事前にプロセスを設計して見積もりにGOをもらうみたいな形だと難しいかもしれない。でもこの方が誠実であるということに改めて気づくんですよね。

上平:なるほど。

渡辺:ビジネスでのリサーチと人類学のそれとの違いを、後2つくらい駆け足で話しましょう。これは人類学ではなくて比嘉さんだけかもしれないけど(笑)、調査をするにあたって、インタビューのスクリプトとか、途中でこんなワークをしようといった事前の設計の概念がないんですよ。それは、僕らが「なんかこういうこと知りたい」っていう部分がまずあって、そこのブランクを埋めるように調査設計をするという手順ではしないっていうことなんですけどね。
もちろん僕も、事前に立てた理想的な仮説をそのまま検証するようなリサーチはダメだって知っているしやりません。それでも、やっぱり「今回はこれについてこんな風にわかりたい」という仮のフレームみたいなのはあるわけですよ。報告書に載せるモデルをイメージした。それが棄却されたら棄却されたでいいけど、僕としては、なんとなくそのフレームを先に作っておかなきゃ調査前に準備のしようがない。それで今回、比嘉さんが調査項目を用意していただけるというので見てみたら、そこには誰でも思いつく程度の項目がランダムにメモで書かれているだけ (笑)。この質問から始めようとか、家に訪問したからには最低限どこは見せてもらおうとか、現場でこれをしてもらおうとか、どういう順番で聞いていくと向こうの抵抗感がないんじゃないかとか、そういう調査の流れが組まれた見取り図、いわば戦略戦術は全然用意されてないんですね。

比嘉:(笑)

渡辺:そこで比嘉さんがおっしゃっていたのは、そういった対応はその場の状況で異なるはずだ。だから、その場で起きること、流れに委ねるけれど、最低限この辺りは聞いておきたいというメモが調査項目だと仰るんですね。それはつまり5人の被験者に同じように聞くという「公正さ」を求めていない。「リサーチャーが透明にならずに、〈私〉がその場にいて、その人との関係の中で聞けたことが価値なんだ」と。これも一般的なマーケティングリサーチの考え方とはまったく違っている。

で、僕はそういった考え方を、途中までは「私と比嘉さんの調査設計はどこが違うのか」という風に、自分の枠組みの中で理解しようとしていたんですけど、そもそも比嘉さんがされていることを「調査設計」という言葉に翻訳した瞬間に何かが失われていく気がして。頭の中で日本語に翻訳しているうちは外国語はできないっていうのと同じ話で、マーケティングリサーチの枠組みで人類学を理解するっていうこと自体が間違いなのではないかと気づきました。人類学は人類学としてちゃんと体感してわからないと。

さきほど比嘉さんが「インタビューも質問される側/する側に切り分けられない」っておっしゃってましたけど、それをもっと噛み砕いていうと、比嘉さんは、インタビューの場はJazzyでGroovyな場にしなければいけないって言っているわけですよ。音楽の即興セッションみたいな感じのね。それを普段ビジネスでリサーチをしている人間がやろうとすると・・・まあ、難しい。比嘉さんのインタビューは、一問一答ではなくまるで日常会話のように見えるけど、やっぱり日常会話じゃないんですよ。見ているだけでは気づかないけど。いわゆる「半構造化インタビュー」とも違うものです。それを自分でしようとすると、いかに今まで私がリクルーティングした被験者に「今日はよろしくお願いします」って訪問して、初対面なのでアイスブレイクして、まずは答えやすい質問から始めて・・・みたいな、質問する側/される側の枠組みに助けられていたかってことに気づく。

だから比嘉さんがさっき第一部のトークで言ってたことだって、もちろん皆さん日本語としては「わかる」だろうけど、本当の意味で「わかる」っていう部分になると、どうでしょう。たぶん、自分がやってみて失敗もしないと、わからない。それでも前よりはちょっとわかるっていうだけの話で。そこで自分なりのスタイルとか戦略とかを考え直さないと、比嘉さんのやり方を表面で真似ても、結局私は別の人間なので、同じことはできないわけですからね。
ということで、私は今「タオル探究プロジェクト」で、比嘉さんと一緒に走ってもらいながら、つまづきながら学んで行こうとしています。
だから今回のテーマでいうと、こうしたことは実践でしか学び得ないと思うんです、実際。しかも、「プログラム化した実践」では学び得ない気がしていて・・・。

比嘉:そこを渡辺さんがたいへんわかりやすく失敗していたりするんですけど (笑)。 しかもおっしゃってたみたいに、長年クラッシックのピアノをコツコツ練習してきた人にいきなりフリースタイルジャズでやれ、みたいなことになるわけですね。実際にはもう少し丁寧に間は繋いでいますけど。
でもやっぱり全然違うスタイルでやったときに、どう変わるかをみていきましょうっていう風にやるのはなかなか骨の折れることです。何も型がなかった人よりもある程度の型を身につけた人に教える方が大変さはあるんだな、というのを私の方では横でみていて気づくというか。

上平:お二人の掛け合いをみていて、なんだか既視感を覚えます。「地道に取り組むイノベーション」の中で語られている解釈の重ね合いがさらにアップデートされたものというか。渡辺さんの「学びほぐし」が強烈で、いいやりとりですね。オーディエンスのみなさん、まさに今のようなやり取りが本の中で語られています。それの最新版がここで聞けるっていう。

渡辺:日々更新されていくので、僕はもうあの本と同じことはもう書けないです。恥ずかしくて。

比嘉:逆の視点というか、人類学みたいなことをやってた人たちがそこで身につけたものを逆にビジネスの現場などで活かそうっていうタイプの方達もいらっしゃるからね。何かシナジーもあるかなって、そっちにも期待していて。水上くんなんかもそう言ったタイプだと思うし、他にもこの部屋に何人かいらっしゃるのかなって思いますね。

上平:水上くんいかがですか?

水上:そうですね。人類学は就職しにくいみたいなことを言われていて、それをずっと聞いて育った世代ではあるんですけど。

比嘉:それは世代というより、基本的にですね。

水上:ずっとそうかもしれませんね (笑)。確かに人類学者は雇いにくいだろうなと、3、4年働いてみて感じました。人類学をやってしまうと、というとあれなんですけど、「言われたことをそのまま鵜呑みにはできない」体になってしまいますね。

で、まだ今日は話題になってないことですが、“言ってることとやってることは違う”っていうのをすごく繊細に捉えようとするのが人類学者かなって私は思っていて。例えば、私が関わっているユーザビリティテストみたいな世界やマーケティングリサーチの中でも、わかっている人は同じことを言っているので、きっと行き着く先は同じだなとも感じてはいます。

例えば、人類学のリサーチでもよく長老が「この祭りの意義は」みたいなことを朗々と語るんだけども、それをうんうんと頷くだけではダメで、そのお祭りが本当はどう行われているのかを自分の目で見て、それを実際に読み解いてみなければなりません。
ところが、ビジネスの世界で過ごしてみると、イデア的なというか理想をそのまま理解する方が生きやすかったりする。それを鵜呑みにはできない人類学徒たちはなかなか生きにくかったりするのかな、っていうのを実感しています。

比嘉:生々しく、適切な声だと思いますね (笑)。そういう風に私も思ってきたところはありますけど、たぶんポジティブな側面もありますよ。今日お話したような、人類学者がフィールドワークで行っていることと、いわゆるクリエイティブなこととは私でも最近まで実感をもって結びつけてこれなかったんですね。つまり自分がやってることをデザインなどの方向に活かせる感覚が自分の中で持てなかったんですけど、それはいろんな人と協働しはじめたからこそ実感できるようになったことだし、だから今は私は後輩とかに「人類学をやっている人たちはもっと社会で活躍できるよ」っていうのを結構心から言ってるんですよ。私自身もそう思えるまでに時間がかかったけれども。

上平:そうですよねえ。そこのつながりを感じるためには、膨大な時間と経験が必要なのかもしれません。しかし人類学者がいろんな前提とかを覆したりすると面倒臭いことを言うなぁ、と思われることはあるんでしょうね。

比嘉:あると思いますよ。

上平:予定調和的にプランを立てたがる人たちの志向性からすると、全く違いますもんね。

比嘉:ちょっと辛口にいうと、みなさんは「今までと少し違う見方」を求めているとおっしゃってはいるんですが、ほとんどの場合それは自分のコンフォートゾーンを超えない範囲に収まっている。自分が不快に思うレベルまでは行こうとしないわけです。その手前のレベルでちょうどよく今までと違うことを求められているような感覚もあって、けれど私はそんな都合の良いラインはないですよって言うんですね。その先まで行かないと。結局私は、何かを〈わかる〉ことって〈かわる〉ことだと思っているので、つまり変わることってちょうどよくは起こらないんですよね。多分みなさんの人生経験でもそうだと思うんですけど、「ちょうどいい塩梅」では人は変われないというか。そんないい具合にターンしていけたらもっと器用に生きていけるのかもしれないけど、なかなかそうはいかないわけじゃないですか?

渡辺:だから僕はインタビューがうまく行かなかった時、普段の日常会話からリフレクションして凹みましたよ。インタビューがうまくいかなかったと言っても「マーケティングリサーチのインタビュー」としてはできてるんです。でも「準備していた質問以上のことは、何も起きなかった」みたいな。じゃあ私は、普段の人間関係ではどんな立ち上げ方をしているんだろう、みたいなことから内省しますよね。インタビューだけじゃなくて、そもそも私はどういう風に人と向き合っているんだろうとか。

上平:そうですね。そういうところで言えば、比嘉さんがビジネス界隈で呼ばれているのも、やっぱりみなさんそれを期待しているとは思うんですよね。気づいてないことに気づかせてくれるというか。

比嘉:それでも本当にわかってもらうというのは本当に骨が折れるというか、さっき渡辺さんもおっしゃってたけど、私の書いているものを読んでくださったり、私の話を聞いて「なるほど」と思ってくださる方がいても、それと自分ができるようになるまでの間にはギャップがあるわけじゃないですか。そこを埋めていくためには、私が伴走できるときには伴走するし、もっと色々な人たちとやっていきたいんですけど、自分の体は一つしかないという限界もある。なので、今後どのようにしていけばいいか、というのは悩ましいところです。

ところで、オーディエンスの方々からご質問ありますか?

渡辺:誰か手をあげるまでの間、つなぎましょうか。私はもちろん、人類学者になろうと思って修行をしているわけではないのですが、このやり方でしかたどり着けないイノベーションがあるなっていうのはすごい感じるんですよね。

比嘉:両者は違うモードだとも言えますが、そこをどこまで重ね合わせていけるかっていうのが、試行していきたいところではあるんですけどね。

水上:私は就職してすごくびっくりしましたね。「あれ、考える範囲ってここまででいいんだ」みたいな (笑) みんなそういう風に区切って考えてらっしゃるんだなって。

渡辺:プロジェクトだけの射程なら、3ヶ月とか半年で答えを出さないといけないですからね。その出せる範囲で考えるくせがついてしまう。

比嘉:やっぱり区切るようなこと、渡辺さんの言ってた調査設計じゃないけども、世の中ってきちんと設計されているとか、きちんと区切られていることの方が、「ちゃんとしている」って思われるじゃないですか。

渡辺:想定外のことが起きる時のために事前に設計する、っていう矛盾した話になるんですよ。

上平:まさにデザインも同じで、ちゃんとするためにプロセスが発達したわけですが、一方で手順化されればされるほど、斬新なものは出にくくなっていきますね。おっしゃる通りです。

比嘉:区切りを設けないとか、その場で起きることを許容するとか、「余白を作る」という言葉をビジネスではしますけど、私はほぼ余白なんですね。基本余白。で、一応少しは用意しているものもありますよ、みたいな感じなので。

上平:余白・・・。いや巨大なる余白ですよね。でもその余白こそが懐の広さで、魅力的なんじゃないですか。聞き上手だし。それは物事を広く捉えてないとできないことですよね。

比嘉:もちろん、ただ余白があるだけじゃなくて、余白から何が生まれるかって話なんですけど、その意味をそもそも色々な人たちに理解してもらうっているのは、かなり言葉を尽くさないと、まるで私がノープランの人みたいになるじゃないですか。

渡辺:雑談している人のように見えちゃうからね。

比嘉:そうなんです。

渡辺:さっき上平さんが、デザインのリサーチでも何も見つけられなくて帰ってくる人たちがいるっておっしゃってましたよね。おそらく比嘉さんの場合、その時のリサーチの知りたかったこととしては何も持って帰れなかったかもしれないけど、後から今後の人生において得るものがあるくらいの射程で研究していらっしゃる。そことどう社会と繋げていくかっていうのは人類学者と接面を持っている私の考えることだと思っています。まあ、一緒に考えて行かなくてはいけないでしょうけど。

比嘉:時間軸って、本当にクリティカルなことですよね。私は経済人類学の話でいう「贈与」の話がずっと気になっていて。贈与っていうのは長いスパンの中で考えて、長いスパンの中でやっていく営みじゃないですか。商品経済のような文脈、つまりお金を払ってモノやサービスを手に入れてはいおしまい、ではないですよね。そんな時間の幅がある営みなんだけど、そういう贈与的なあり方っていうのと、渡辺さんがおっしゃる何かをわかっていくときのタイムスパンとか、わかるが訪れる時差とか、そういうものと通常の時間の流れ方はやはり違う。私は「物事をわかっていくときの時間の流れ」と「贈与のような時間の流れ」が、すごくシンクロするなって思ったりします。

上平:そこを重ねる視点は面白いですね。たしかに、時間軸広げれて見れば両者とも似たようなことが起こってますね。ところで、今近畿大学の山縣先生が手を挙げられましたので、お招きしました。

山縣:近畿大学の山縣です。本も面白く拝読させてもらいました。今手元におきながら話を伺ってました。私は経営学をやってるんですけど、流行りの戦略論じゃなくて人類学みたいなアプローチは好きなので本はすごく面白かったし、中小企業さんと一緒にやらしてもらっているので、このアプローチってすごく応用が効くことだなって思いました。このアプローチでこれから先どう展開していこうとイメージされてることってありますか?もしおありでしたら少し聞かせていただきたいんですけども。

比嘉:研究やプロジェクトの中身の話でいうと、クライアントワーク的な機会にやれることと、そうではなく私たちが主導して自由なプロジェクトを立ち上げることでやれること。その両方があるなっていうのは実感としてあります。おそらくお互いを独立に扱うというよりは、循環していくような感じでやっていく流れになるのかなって思ってます。

渡辺:僕は比嘉さんが参画されない=ちゃぶ台をひっくり返さないプロジェクトもやっているので(笑)。それでも、比嘉さんとの協働で学ぶことはその他のプロジェクトにもいろいろな形で反映しうるので、なんかそういう風にして伝播して行ったらいいなという風には思います。どんどんそもそも論にはなっていきますよね。儀式的な新事業開発みたいなものはほぼ意味がないことになって、水上くんが言っていた「人類学を知ってしまうと…」じゃないですけど、そういうお遊びの自己目的化したプロジェクトはできなくなってしまうので。どういう人と組んでどういうことをやっていくかは否応無しに考える必要はあるのかなっと思いますし、確かに中小企業の方がより深くコミットできるかもしれません。

山縣:私自身がご縁のある中小企業さんが新しい事業とかを作るプロセスとかがすごく面白くて、人類学のアプローチとか使えないかなって思ってたタイミングで、ちょうどこの本が出ました。ですので、個人的にはすごく勉強になっています。

比嘉:ありがとうございます。その話でいうと、私は渡辺さんたちのチームともそうですし、他の色々なチームともご一緒するときに、人類学的なリサーチ、それこそ物の見方とかアプローチっていうのは結構いろんな場面で役に立ちうると思っています。そういう新規事業開発などのフェーズでも、対象をちゃんと見るようなことはほぼないがしろにされているようなところがあって。自分たちの頭の中にあるイメージを取り出すことばかりが誇張されがちで、周りで何がおきているのかとか自分たちが対象とする人たちは何を求めているんだろうっていうところをフラットに見てみるみたいなフェーズって、なかなかきちんと入っていかないように感じます。そんな観点で、他の企業さんと人類学的なアプローチからの新しい事業の開発ということを模索したりしています。だから、いわゆるUXの領域でもマーケティングの領域でもそうだけど、新規事業開発やさまざまなプロジェクトの中でも、そういう見方やそういう考え方―あるいはそういう態度―なのかもしれないですけど、それらが色々な人たちのところに上手く入っていけたらいいなとは思いますね。

山縣:ありがとうございます。またのご機会に色々とお話を聞きたいです。

上平:そろそろお時間なので今回はこれで終わりにしたいと思います。オーディエンスのみなさん今日はありがとうございました。参加してくださった比嘉さん、渡辺さん、水上くんありがとうございました。

今回は書き起こしましたが、次回以降は、Pod Castシリーズとして色々な専門知を持っている方々に話を聞いていく予定です。次回以降の予告です。第2回は「構えは何を決めていくのか」について剣士に聞きます。第3回は「万物がつながっているとはどういうことか」について仏教的観点から僧侶に聞きます。僕自身は、デザインの大事なところとして、異分野との接点を見出していけるところだと思っているんですよね。世界の見方を切り替えれば、実は色々なところから共通して話せる観点や言葉が見えてくるのではないかと。そういったことを楽しめるようなコンテンツにしていこうと考えていますので、次回以降もどこかで公開していたらぜひ聞いてください。みなさん今日はありがとうございました。




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