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差別と人間の性。

ある日祖母が私に、「差別は人間の性なのでなくならないよ」と言った。よって、差別はこの世界から無くならないよ、との事だった。

でも、私はそれに違和感を覚えた。『必ずしも差別は、「人間の性」と呼べるものだろうか』と。

私は、祖母の言う人間の性を、「本来人間に備わっている自分の身を守るための防衛機制としての働き」だと捉えた。

また私は、人間は差別しないように努力する事は可能だと考えた。ここで、私自身にとって1番身近な話題であるASDを例にとって考えてみたい。

例えば、「私たちは差別されている。不当な扱いを受けている。」という気持ちを世間に抱くASDの人は沢山いると思う。でも、ここでいう「差別」は、ASD側の人にとって何を意味しているだろうか。

私は、ここでいうASD側の人にとっての差別とは、『世の中は多数派向けにデザインされており、私たちへの扱いは不当なものである』ということなのだと仮定した。(何故なら私自身、そういう気持ちになるし、共感するから。)

だとしたら、これは自然発生的な差別といえよう。そして、この場合ASDでない(定型発達)人に悪意はみられないと思う。

というより、定型発達と括って、責任を求めることも、結局は差別で、同じ事をしているのだと思う。

私自身、過去に心のどこかで(ASDとか関係なしに)人を差別している節があると思っていた。
それで、中学生の時は私は、自分の事を責めていた様な気がする。

でももし、差別は人間の性で、誰しもが備わっている防衛機制なのだとしたら、「差別する」という事そのものを、そこまで非難する必要があるだろうか。

私は、心の中で差別する事も、自分を守るために時には必要なのだと思う。

「差別は悪だ」と他人に言われ過ぎて、「多様性」だと叫ばれる中で、自分を変に変えようとしてしまう人もいると思う。

別に、「多様性は悪だ」とか思わない。寧ろ、真に自分自身に優しく出来る人間が沢山いるのが「多様性」の目指す所なのではないかと私は思う。

なので、……どちらかといえば「多様性」は大切だと思う方だ。でも、差別に対して、執拗に「悪だ」と言わなくても、思わなくてもいいと思う。

逆をいえば、言ったところで、性なのでどっちにせよ、差別は無くならないのだ。

それを咎めるほど、我々は上から目線で人を語ってはいけない。

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