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叔父の死

叔父が亡くなったというしらせを受けた。
私が今まで経験した身近な人物の死の中で、最も親等の近い人間の死だった。
この体験について考えたことを記録したい。


ウラジーミル・ジャンケレヴィッチという哲学者がいる。多様で独特な思考を展開した彼に与えられた「分類できない哲学者」という愛称(?)が私は好きだ。

彼は、死には人称があると考えた。
「一人称の死」とは私の死である。
「二人称の死」とはあなたの死、つまり親しい人の死だ。
そして「三人称の死」とは他人の死である。

誰もが他者の死を目撃し、そしていつか自分の身に死を引き受ける。そうであるがゆえに死は身近なものである。
しかし死は自らが死ぬまでは常に他者のものであるということを示している。
「(一人称の)死への恐怖」というのはここに原因があると思う。


叔父の死に私が抱いた感情はいくつかある。

まずは衝撃、という感情。

叔父は数年前から大病を患い、叔父の兄である父から、通院しながら闘病生活を送っているということを聞いていた。
だから「Xデイ」というものは遅かれ早かれ来るのかもしれないと少しは思っていた。
しかし年齢的に早すぎる死であったことの衝撃が無かったと言えば噓になる。


戸惑いも大きい。

ジャンケレヴィッチの言う死の人称によれば、私にとっての叔父の死は「二人称の死」と「三人称の死」の間に位置される。
叔父とはいえ、長期休暇に父方の実家を訪問したときに何度か会うくらいだったし、ここ数年はその父の実家にも行っていない。それに彼がどんな人生を歩んできたのかも、どんな仕事をしていたのかも知らなかった。

それでも幼い頃の私や従弟と遊んでくれたことは記憶に残っている。私にとって叔父は他人と親しい人の中間にある存在だった。
衝撃や悲しみよりも、彼の死をどのように位置づけたらよいのかわからないという戸惑いが大きいのである。


一番大きいのは恐怖かもしれない。

ほかならぬ「一人称の死」への恐怖である。ほかならぬ私の死への恐怖である。死が感染症のように私の身に今にも降りかかってくるのではないかという、冷静になれば笑ってしまうほどおかしな恐怖である。
私の足元に広がっている地面、私の身体や精神がボロボロと崩れ去っていくような恐怖だ。

親しい人間は私の世界を形成する。彼らが死ぬということは私の世界の一部が欠けることだ。
私の世界が無理矢理変形させられる恐怖。
この手の恐怖は不快だ。それは心拍数が上がるからではない。首に冷たい汗がにじむからではない。

叔父の死であるのに、私は自らの死に恐怖している。それがなにやら自分のことしか考えていないようで、やけにさもしく思えるからだ。


ところで、私は配偶者も子どもも持つつもりはない。これは私が独りで生活していく快適さを知ってしまったこと、恋愛や恋人という存在にどうしても興味が持てないことなどいろいろな理由があってのことだ。
そのようなことは他の投稿で書いたかもしれないし、これから書くかもしれない。

先ほども述べたように私は叔父のことをそれほどよく知らない。しかし配偶者や子どものような存在を持たずに独りで死んだ叔父に、それがどういうことであるかを見せられた気がする。
私もたどるであろう終わりに似たものを叔父に見せられ、その彼に親しみを抱いた。


この不思議な親しみを抱いたことはすぐに忘れてしまうかもしれない。だが必ず思い出す時が来るという確信もある。その時正確に思い出すことができなくても大丈夫なように、このようにして記録に残しておく。


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