「東の小女、犬と食ひ合ひて互に死にし語」について
今昔物語集巻第26第20。
壮絶である。こういうことは実際にあるのだろうか。
これはどういう敵対関係なのだろう。巻第26のお話のほとんどはどんなことがあっても最後は「前世からの宿縁」ということで締めくくられるのだが、この話でも「此の世のみの敵にはあらざりけるにか」とは言われるものの、その程度にしか言えず、かなり恐れ戦いている印象を受ける。それは当然と言えば当然で、ただ前世からそう決まっていた、と言い切ってしまうにはためらわれる事情が存在する。簡単に言ってしまうと、どうもこの異常事態は、日常的な人間関係から語られるべき惨事のようなのだ。
問題の子どもは、その家の使用人なのである。犬は、その家のものではなく、隣の家の犬なのである。このことを再認識するとき、奇妙な感覚に陥る。どこを中心にして・どこに力点を置いてこの情景を思い描いてよいのかが、わからなくなるからである。
まずもってこの話の書き出しが、「今は昔、(不詳)国(不詳)の郡に住みける人ありけり。」である。当時の、というか時代に関係なくある感覚として、「主」のところから話を始めるということはあるのだが、読めばお分かりのように、この人は事態にコミットしない(消極的である)。だからこの人も話の前景には出てこない(例えば何でもいいのだが、バートルビーの物語を思い出していただきたい。恐ろしく凡庸な言い方ではあるが、あの史上最も奇妙かつ重要と思われる作品さえ、少なくとも初めて読むときには、我々はあの人間関係を雇い主の視点から体験するのであり、彼の語りを聴くことで、彼を通じてバートルビーに接近するように書かれている。ここにはそのような、あってしかるべき重点さえない)。しかも問題が子どもと動物である。子どもの家と犬の家とが激しい敵対関係にある様子はうかがわれない(両者は連れだって結末を確認しに行っている)。だから、想像されるのは、極めてフラットで安定した大人の人間関係であり、その中で、人間関係からはどのようなものか確かめえない争いが、局部的に発生しているわけである(「語り」としては、どこまでもフラットな風景の中で事態の奇妙さのみが浮かび上がるように書かれている)。
確かにこれは「主」らにしてみれば文字通り腕を拱いてしまうような事態である。どうしたらいいかわからない。そしてわたしもよくわからないのだが、主の判断によって、臨終が近くなった当該子どもが外に出されてしまう、というところから、何かが幽かにわかるような気がする。
つまり、「女の童」も「犬」も、主の気持ちひとつで家の外に出されてしまう存在なのである。この両家が、何かを切り捨てて―「それはそれ」として―良好な関係を保っていたのだとしたら、彼らには見えない足元のレベルで、激しい対立が起こるということはありそうな気がする。そしてこれは、とても広く状況を想像してもらいたいのだが、この文化において、相隣関係に限らず「良好な人間関係」というものがあるとしたらば、必ずどこかで何かを切り捨てていることと共鳴する。その関係が卑下するものでもよいし、汚いもの、いやなもの、有体に言ってストレスと呼ばれるものを、とりあえずないことにするから、一面的に、平面的に「仲良し」でいられるわけである。そしてこの作業はあまり意識的には行われない。無意識に発信されるのである。それを受信した彼らにとって「低い」と見なされた者らが、無意識にその蟠りをどこまでも過激に表現するということはきっとある。少なくとも、この子どもと犬が最後の決戦によって相討ち果てることによって、この蟠りが固定化され、沈んでいったのである(だれかがそれを望んだかどうかの問題ではない)。
「此の女の童だに見ゆれば、此の犬食ひかかりて敵にしけり。」にせよ、「されば亦女の童も、此の犬だに見ゆれば打たむとのみしければ」にせよ、激しい消耗と抜き差しのならなさを感じさせる表現だ。現代の我々は、背景が省略されているのではなく、このようにしか書きようがなかったことを、感じ取ってしまうのである。