院内見聞録 プロローグ2
(前回のあらすじ)2020年にがん告知を受けた寝言、2007年の最初のがん告知のことを思い出す。その当時意志の力でがんを治すことができるのか実験することを決意して…
最初にホドロフスキーが実践するサイコマジックがどういうものなのか簡単に説明しておこう。彼は病気の治療をしているのではなく、あらゆる悩みや不調に対して、処方箋を出す。その不調の中に病気も含まれることがある。彼の見立てはたいてい親子関係のねじれに帰結する。(なぜなら彼自身がずっとそこに苦しめられてきた人だから)そこで出される処方箋というのは、該当する人物に関わるものを燃やして種と一緒に埋めるといった比較的実践しやすいものから、動物の糞を集めて頭に塗れという勇気が試されるもの、または人目のある所での奇行という実践を躊躇するものまである。共通するのは意識を広げる(破壊する?)ための儀式が求められるということ。彼は儀式を行うときは処方箋の内容を一切変えてはならないと言っている。勝手にやりやすいようにアレンジするのは不可。やっている儀式というか、行為に対して絶対的な帰依が求められる。
これをひとりで実践するのは無理!(そもそも処方箋もないし)要は心から信じてやればいいんでしょ? そしてわたしは思い込む力がたぶん人よりも強い。これまでの人生、大体思い込みで何とかやりたいことを叶えてきた。そこでまずやったのは、免疫とがんの擬人化である。小学生が考える虫歯菌みたいな免疫が、持ってる槍でがん細胞を突きまくると、それはやがてしぼんで消えていく。自分でも書いてみるとアホみたいだが、そんな原始的なやっつけかたをイメージした。ちなみにこの時点では乳管内の非浸潤がんなので、触って分かるしこりなどはない。
そして迎えた診察の日。予約の意味とは? と詰問したくなるほど待たされること3時間。診断はがんとは断定できないので要経過観察ということだった。正直、拍子抜けした。完全に「あったはずのがんが消滅しています」と言われる気満々だったのに…。わたしは関西の病院でマンモを受けたときにあったものが、この数か月のうちになくなった可能性は? と食い下がってみたが、「前の病院のマンモの画像も見ましたが、この状態ではうちではがんの判定はしません」と言い切られてしまった。ふ~ん、あの先生、9割がたがんって言ってたのにな。
まだがんとは言えない、というのは喜ばしいことではあるが、わたしは自分の脳内で「一度はがんになったがイメージの力で消滅させた」ことにした。やっぱり、何かにつけ成功体験が多いほうが、自分を信じる力を後押ししてくれるやん? とはいえ、経過観察の名のもと、その後半年おきに(最後のほうは1年おきに)通院してマンモグラフィーやエコーの検査を受けるという生活を8年ほど続けたのである。軽症というか、そもそも病気じゃないから、院内でのプライオリティが低かったのだろう。最初に紹介状を書いてもらった先生には見てもらえず、さらに8年の間に主治医は3~4人変わった。そしてとうとう病院から、近くの提携のクリニックに転院するようにすすめられた。その理由は、8年たっても状態が変わらないことと、その病院は患者が多いため待ち時間が長いが提携クリニックなら、予約も取りやすく、待ち時間も少ないという。そこでわたしは病院の近くのクリニックに転院した。
が、またそのクリニックの医者の態度がたいそう悪うてなぁ、わしゃ何でこんななめた野郎に診られなきゃいけないんじゃと思って2回で見限った。そして元の病院に連絡してカルテを出してもらい、自宅近くの病院に転院した。そこは自宅から徒歩10分以内にあり、毎年区の検診を受けているが、とにかく看護師さんやボランティアの人が優しくて感じがよい。そのころマンモの有用性について、懐疑的な情報を見たこともあり、エコーだけでやってもらえるように頼んでみた。数年前に原発の事故があり、放射能の影響に敏感になっていたこともあり、それまでの数年にもう一生分のマンモグラフィーは受けた。もう受けたくないと思ったからだ。その日は受けずに済んだが、「マンモじゃないと見られないものもあるので、必要な時には受けてもらいます」と言われる。病院で患者が主体的に方針を決めることは難しい。というか、どう考えてもわたしがんじゃなくない? 元の病院は行くと半年後であろうと、1年後であろうと必ず次の予約を入れられたので、なんとなく惰性で行ってた。しかし、新しい病院はシステムの都合上3カ月以上後の予約が取れないので、自分で取り直さなければならないのだ。これ幸いとわたしは自分でがん予備軍を辞めた。ちなみにこのときに右胸にしこりがあったのだが、それは嚢胞か何かだったと思うが、医者は見た瞬間に「これは心配しなくていいものです」と言ったのだった。(続く)
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