雑記 アンティーカイベコミュ『ストーリー・ストーリー』について
今日は日記ではなく、シャニマスについて、今回のアンティーカイベントコミュ『ストーリー•ストーリー』の諸々を記載する。
最近のシャニマスのシナリオは、アイドル像という虚構の世界/存在を、ゲームという虚構の世界のなかで一層メタ化したものとして扱おうとしている気配を感じていた。そこでまた凄いシナリオが出てきたなぁと感じたために、言語化を試みたいという趣旨のもと、当記事を作成する。
今回は、シナリオ終盤に霧子が発した「生きることは物語じゃないから」という言葉をフォーカスポイント=メインスコープとする。カメラが回っていないところでも、番組として構成を目指す「高校生組(咲耶・摩美々・霧子)のテスト目標を達成するため一丸となるアンティーカ」の物語を貫徹しようとする摩美々に対し、霧子が応える場面での発言だ。
このとき思い出したのは、最近シャニマスの制作代表を努める高山さんがインタビューで回答していた、「霧子が物事に『さん』を付けるのは、そこに物語性があるとき」という旨の文章だ。ここでは、霧子というキャラクターは、ごく普通の日常に対しては物語性を感じていない可能性が示されている。だからという訳ではないかもしれないが、日常という名目のもと撮影される番組を描く今回、霧子の台詞にはほとんど「〜さん」が出てこない。
一方で、コミュ中盤で制作陣のスタンスにネガティブな感情を抱いたアンティーカに対し、霧子は別の物語軸を打ち出すことを提案する。これは霧子が番組から、ウケる物語を要求されていることを知ってからの提案になる。
話は飛ぶが、テラスハウスを実際に見たことのあるシャニマスユーザーも多いと思う。テラスハウスに限らず、リアリティショーと呼ばれるジャンルの番組であれば、尚更、視聴経験者は多いだろう。そこではやらせのように見える演出もあるが、基本的には「リアリティショー」という名目のもと、視聴者は実在する人物同士の感情の交換を楽しむことが出来る。視聴者のほとんどは、そのタレントなりモデルなりインフルエンサーなりの素性はよく知らないと思う。しかしそこにあるのは現実のものだという合意が、製作側と消費側に授受のコミュニケーションとして成立する。今回のアンティーカイベコミュは、この番組と消費体系モデルに立脚し、ゲームユーザーの視線をメタ的に意識して描かれている。
恋鐘はこのシステム(出演者―視聴者間の認識齟齬)について、自分たちをよく知らない視聴者は、だからこそ制作陣に歪められ作り上げられたアンティーカの像を信じてしまう、と指摘する。アイドル(というか芸能業界)という仕事がよくも悪くも虚構を売り出すエンタメであるがゆえ、このようなシステムが構築され得るのは、消費側の身としても何となく想像がつく。
ここで追加して触れたいのが、シャニマスの登場アイドルに共通する基本スタンスである。
シャニマスのアイドルたちは現代的な人格であると形容されるのを、しばしば見掛ける。その理由の一つとして、他者への理解と尊重を根拠としていることも、同様に見ることができる。検討の当否はさておき、この理解と尊重からなる現代的な人格という評価は、自身に対してある種の折り合いを付けて生きている各アイドルのスタンスの延長と捉えられそうだ。
これが例えば自身のアイデンティティーに対し背反する捉え方をしている場合、その人生への悩みがダイレクトにアイドル像への悩みに接続されるというのは、これまでのアイマスシリーズでも何度か描かれてきた。ロングランとなる765シリーズの菊地真は、この典型と言える。
一方でシャイニーカラーズにも同じようにアイドル像を独立させているキャラクターがいる。冬優子や愛依が典型である。しかし冬優子や愛依の場合では、アイドル像そのものに対して悩む様子はそれほど見られない。冬優子であれば可愛さを前面に、愛依であればクールさを前面に押し出して、その像は揺らがない。他者から指摘されることでprivateな人格との差異を自覚する面もあるが、シナリオ上、例外的である。このことからもシャイニーカラーズのアイドルたちの実像と虚像は、実践的な領域において区別されている。その虚実の両輪において見出される物語性こそ、最近のシャニマスのシナリオの特徴がみられると考えている。
霧子の発言に戻る。生きることは物語じゃないから、という発言からは、次のことを読み取れそうだ。
即ち、シャニマスで描かれる虚実という両輪において、アイドルが担う虚の側面に対して物語が求められるというスタンスを踏まえつつ、実の側面である人生の方は、翻って物語ではないと霧子は解釈していると示される。霧子にとっては、その実の側面にあるのが現在のアンティーカであり、アイドルという虚像からシフトした関係が成立していることが読み取れる。物語が求められる虚構の関係から外に出て、実存のものとしての描写が改めて強調されたことは、関係性を描いているゲームとしては、フェーズの移行を見ることができる。
ところでこの虚像→実像への関係のシフトが存在すると仮定したとき、実像→虚像への関係のシフトを担うユニットがノクチルであると定義でき、ノクチルのようなユニットが実装されるのは、昨今のシャニマスの構造からは必然と言えそうだ。
物語ではない人生がアイドルという虚像によって解体される際に生じるダイナミズム(逆も同様)が、いまシャニマスという群像劇が迎えている転換点のひとつなのかもしれない。一方で、メタな問いかけを通じて、我々ユーザーはキャラクターの虚実について両側面とも「物語」として消費し得ることに対しても、揺さぶりを掛けてきている。
乱文となったが、大体そんな感想を抱いた。