リアコとその考察(チラシの裏)
まだ、この件に関しては、自分の中でほんとに完全には終わってない。
けど、一段落ついたので書いてみることにした。
とりとめがないと思う。すみません。
リアコしてた。
人間を思い通りにあやつるには、3つのSだとうんぬん。
Sports、Screen、Sex。
そのなかのScreenのとりこになった。
1年前、いわゆる一般的にいうと、講師を呼ぶ主催者側になり、その準備をして前日、追い込みで夜なべをしていた。「あーなんか見ながら作業でもすっか! このドラマ…誰か面白いっていってたな…、」と、Gyaoでなんとなく見始めたのがうんのつき…(2018年7月)
次の日、そのイベントで講師が「映画やテレビにハマるのは、代償行為だ」という言葉をいい「おおー! それなら徹底的にハマってやろうじゃないか!」って思ったのは、もう今にして思うと運命だ。
そしてそれから1年。「代償行為」の意味を、深く知った。結果として。
初めて最終話まで見たその日は興奮しすぎてねれなかった。それからというもの、今までの恋愛の総ざらい、総反省大会をする、性欲が吹き出す温泉のようにドバー止まらない、常に切ない、夕暮れになったらせつなすぎて自転車に乗って暴走族する、ふわふわする、何も手に付かない、等々の日々を経た。
推しにリアコした。そのドラマの役の人が好きすぎた。でももうドラマは終わった。その役の人の時はそこで止まってて缶詰パックみたいに浮遊している。たとえばその人が恋人と両思いになって生活して幸せそうな様子とかが、コンマ1秒でも見れないんだと思うと気が狂いそうだった。
で、数ヶ月の逡巡ののちに、それだけだと思いがありあまり、その中の人(役者さん)も追っかけてみようと、すごい勇気を出して、指の間から見るような感じで見た。ちょうどやってたドラマの後半部分見た(作品はめちゃくちゃ明るくてポップでよかったー)。あとは、出演してたMVを3日に分けて少しずつ見て、それから衝撃で(あまりにも違う人すぎて)数日別の世界に行ってた。そのあとは、インスタの動画をひたすら集めて、精神のバランスがいいときに少しずつ見た。(私と同じきっかけで、過去の作品見まくって、動画も一部あげてくれるファンがいた)でも、この役者さんという人が、他の役をやっている時は中身が全然! 全然違うタイプの人で、見てて「あーあたしゃー何を見てるんだろ」っていう気持ちになった。
そうこうしているうちに、その役者さんの舞台のチケットが売出しはじめた。私はアイドルノリで応援するお客さんの中で演劇を見ることになりそうなのが耐えられず(元小劇場好き)、見に行くのはやめておこうと思った。しかし「生身の人間のエネルギーを体感したら、絶対夢が覚めるから、それで見に行こう」と思いなおし、仕事を1週間休んで当日券の電話をかける生活…、全部駄目で、やっとのことで名古屋公演のチケットを手に入れた。
名古屋に行ったら、ほとんど来ている人たちは女性だった。女子トイレの長蛇の列に並んでいたら、後ろの人が「……はぁ…」と、緊張した心を落ち着かせるように震えたため息をついた。隣にいた友達が「緊張するよね(笑)」と笑っていた。私は心の中でふふ、と笑い、そして、戦慄もした。ここにいる8割9割の人たちが、一人の主演の人を見に来てるかもしれん、事実…、しかもそこの会場のキャパが1600人くらいだったか。もし自分が逆の立場だったら、普通に狂ってるなぁー、この状況、って思う。俳優のしごとってこんなんか。
劇場に入ったら、全然気づいてなかった、1階の一番後ろだった。舞台超遠い。オペラグラス持ってきてねえ!!そうこうするうちに舞台ははじまる。現れたその人に私はびっくりした。現れた印象は「王子さま」。ものっそい東京のハイテクでハイソな何かに囲まれて、いろんな生活のことを誰かにやってもらって、すっごい大切にされて生きている感じを感じた。(あくまで個人的な直感ね、ほんとごめんね)あー、すっげー、現代に王子様っていたら、こんな感じだよな…、雲の上の人ってこういう人のことを言うんだーーー…、って思ったのは一瞬だった。あっという間に作品の素晴らしさに押され押しまくられ、めっちゃくちゃ感動して私は劇場を出た。台本、音楽、舞台装置、他の役者さん…、ほんとにほんとに周りの環境がすごかった。
で、このリアコでわかったこと。
1 手を動かすことで私は死ななくてすんだ
この一連の騒動(笑)を経て、私はずっととにかく、自分が不甲斐なかった。ひとつのドラマでこんなに振り回され、自分をなくし、ただただ情報と映像を摂取して生きるのみの「ふぬけた獣」のようになる自分が不甲斐なかった。まるで、マトリックスの世界にいた、機械の動力になるために、栄養だけ与えられて生きてる無力な液体に漬かった人間のよう。
そして、現代社会にはふぬけた獣になるための成分が、いろいろなところにまんべんなく深く染み付いている。うまくいえないのだが。現代社会が現代社会であるためのエッセンスがふぬけた獣にさせる気がする。
ある舞踏のお稽古に行ったらそのお稽古場には「ふぬけた獣」に私をするための成分がひとつぶもなかった。そのお稽古場に行ったことで、私は私を取り戻すきっかけを掴んだ。たぶん、このタイミングでお稽古に行ってなかったら、私はゆるゆると自死に向かっていた気がする。人生どん底の時は、何かしら…、何かしら、生きる気さえあれば、救ってくれるものがあるんだ。
そこで、ふぬけた獣から逃げるために、私は絵を楽しく描くための講座に行って絵を描き、ギターを習い、歌を歌うのに研究をはじめるようになった。その折り、たまたま私に衣の展示会に参加しないかとお誘いが来て、私は展示会のDMのデザインに全力を注ぐようになった。せつない気持ちは残っていたけど、推しのことはグジグジ考えずに済んだ(DMを印刷会社にお願いする時、つや消しの紙を選ばざるをえなくなって煩悶したくらいだったw)。展示会の準備をしている間は、好きな友達たちの存在に支えられて、自分のことをこの世の中に生きる価値がある人間として思えてきていた。私は、文字通り沼から這い上がろうとしていた。
展示会は本当に楽しくて、友達と力をあわせて生きていくこと、集中した。
2 どうとでもなる愛はここであふれている
ファン同士のSNSの交流も、この「ふぬけた獣」期間に楽しんだ。みんな、かつて代々大好きなアイドルやアニメのキャラなどがあり、その延長上で推しや作品にハマっている人が多かった(嵐2020年に解散のニュースが流れた時のTLの動揺たるやすごかった)。みんな、二次創作したり、ファンミーティングを主催したり、非公認グッズ作ったりして、楽しそうだった。なかには、推しのちょっと見づらい過去作を、映画館を借り切ってイベントする人までいた。
私はそれまでこんなにスクリーンの向こうの人を好きになったことがなかったが、その集団に混ざろうとした。すごく短い話を作ったり、短歌のような文を作ったり。ナマモノ、推し、独特なパスワード、役者さんや役名の略し方など(二次創作している人が本家のエゴサに見つからないようにするためのマナーみたいなもの)、たくさんの専門用語をSNSから習った。ここの世界では「作ってない人」「情報を発信しない人」にはあんまり価値はなかったから、ほとんど作品も発表しない私は、世界の隅で小さくなってる人間だった。けれども、ある日 脚本家さんにTwitterのリプライで二次創作を見てほしい、と発言した一人のファンにより、ほんとに波紋が巻き起こり、ありとあらゆる人たちが、自分の作品をパスワード公開(鍵つきアカウント)の裏に隠していった。みんなとても楽しそうだったけど、結局は、もともとのコンテンツには勝てない、コソコソすることの悲しさを思った。
気づいたこと。とくにリアコにハマるような人たちは、本当は愛したい、本来はあふれ出る愛をその身にたくさん持っている。自分の現実の世界を愛していきたいけど、愛せないから、別のものを愛するんだ。
でも、別の世界を愛したところで、それは触れないし、交流もない。それで本当にこの世に生まれた楽しみを受け取っているのか、と、私は思い始めた。これって、ゲームをしているのと同じなんだと感じ始めた。ゲームは人が攻撃する、移動する、話すをボタンのわずかな指の動きだけで再現していく。しかし、ゲームの中の人の大きな身体や魂の動きを、そんな小さな動きに集約することに、人間らしさはあるのか。私たちも、推しの姿やなにかを少しでも近くで受け取ろうと五感を澄ませる。でも、触れたり、普通に話すことは永久にできない。(だからこの文の前半にあったとおり、映画などにハマったりするのは、代償行為なのだと、深く理解した)
愛する気持ちを持っているなら、それを、自分のこの身体で、心で現していこう、そう思った。
まずはこの身で現実世界を感じていくこと。身近にいる人たちを感じて、愛を現していくことなんだな、って。ほんと思ってる。絶対愛すべきものが、周りにある。なかったら、自分で探しに行くしかない。
3 感情の放出は、新たな自分をいちはやく見つけることができる
今年の夏に、ドラマの続編として映画が公開された。この映画が終われば、新しい推しをコンマ一秒も見ることができない、しかも「このキャストでは完結」と書かれたチラシを見て、映画が決まった第一報よりあとは、ずっと暗い気持ちでいた。映画を見たあとは川に行き、2時間くらいとぎれとぎれに号泣したり踊ったりしていた。映画のあとは、完全に頭がおかしくなるかもしれないので、仕事も一週間ほど休みをとった。映画公開日にダンスの依頼も入っていたが断った。(心配して電話をかけてきてくれた人がいて、理由を説明するのめっちゃ恥ずかしかった。説明したらちょっとヒイてたw)
結果として、思いっきり集中して泣いたりわめいたりすると、感情の奥で、本当は自分がどう思っていたか、次のステップとして何をすればいいかが、すごく早く見えてくる。その時間をしっかりとれたのが、本当によかった。感情の奥で、本当は自分がどう思っていたか。私は本当はリアコしたかった、そして、自分を窮地に追い込みたかった。それは、今までの「ふぬけた獣」を生み出す、この世界と決別したかったからでもあり、ちょっと今までの人生の癖で深刻になりたかったからでもあった。そして、本当に泣きわめくことで、さようならを、した。
今でも、朝起きるとなにかを亡くしたかのような切なさとともに起きるし、時々は泣くこともある。でも、もう自分が「ふぬけた獣にならない」と決めたことで、なにかは変わった。
4 もう振り回されるだけの「消費者」は嫌だ。自分が振り回していく。
二次創作で生きてる人たちは、ほんとに楽しそうだった。作品性もあると思うけど、みんなポジティブで明るくて。でも、それだけじゃ嫌になった。たぶん、このまま生きていたら私は自分の何も生み出せない不甲斐なさに押しつぶされて死ぬ。だったら死なないように逃げて逃げて生きていこう、そう思った。それには、自分ができることを全部試していくこと。それに集中すること。(それで、今度 学生時代にあきらめた演劇にも手を出す… 笑える…)
とはいえ、新しい中の人の出演CMとか出てくるとついつい見とれてしまって、「控えめにいって神!!!」って思ってる自分がいるのが笑える。
そういえば人生で、ほんとときどき人とはまったく違う方向に突っ走り、周りの人たちが呆れる、って事態を何回も繰り返してる。同性好きになってどうしよう! とか。恋人がFBIらしい、とか、知り合いに生き霊で出てるらしいんだけどどうしよう、とか。今回はちっちゃいほうだったかなw
むちゃくちゃチラシの裏だけど、なにかを好きで、楽しいならいいんだけど、苦しい人に、今の社会の(自分の、か)枠組みを壊して生きていく方向があるってことを知らせたいので、公開します。
あと、手相をみてくれる人に相談したら、「ファンレター書きなさい」って手ぜんぜん見ないで言われたw ファンレター書くと、だいぶんラクになるらしい。