涼宮ハルヒの憂鬱なのか、僕たちの憂鬱なのか
涼宮ハルヒの帰還
"東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。"
トンデモ自己紹介から始まった涼宮ハルヒシリーズ。最新巻『涼宮ハルヒの驚愕』から9年半もの月日が経っていようとは。よもやよもやだ。
非常にめでたい。いや、めでたい。新作が発表された日の筆者のテンションたるや、文字通り驚天動地という現象そのもの。当然のごとく、世のオタクたちをも震撼させた。
何はともあれだ、『涼宮ハルヒの直観』の発売、おめでとう。手が、心が震えている。
あれは、大学生の頃だった。同胞から「なんだかやべえアニメがやっている。いとをかし。」との一報を受け、夜な夜なTVにかじりついた。この作品こそが、『涼宮ハルヒの憂鬱』だったのである。深夜アニメ、ライトノベル、踊ってみた文化の金字塔を打ち建てまくった作品だったのである。
バイブルだった。
ぶっ飛んだ少女と、多少ひねくれながらも極上のストーリー。京都アニメーションという今ではアニメ界屈指の制作会社に名を連ねる最高峰のクリエイター集団。全てが鮮烈で眩しかった。物の見事にハメられた。以降、僕はオタク文化の沼へと片足を突っ込むこととなる。
思い入れ、贔屓目が多少なりともあるとはいえ、不朽の名作と再会できた喜びは計り知れない。新刊は未読なのだが、帯にあるように「王道にして最前線」なハルヒをまた楽しめることを期待している。
おかえり!ハルヒ!
涼宮ハルヒの魅力
さて、今回はもう少しだけ。
なぜハルヒには惹きつけるものがあるのか、なのだが。
まず手始めに涼宮ハルヒ作品をご存知ない方のために、簡単に紹介しよう。
涼宮ハルヒは
・成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗・天真爛漫な女子高生である
と同時に、
・エキセントリックであり、ツンデレであり、傍若無人である。
そして、日常に退屈し非日常を渇望する少女なのだが、実は世界を改変することも可能なほどの超常的な能力を持っており、無自覚に超常的現象を引き起こす特異な存在なのである。
そんな彼女の元に(自己紹介での呼びかけにより)集まった
未来人(朝比奈みくる)、宇宙人(長門有希)、超能力者(古泉一樹)
と、
唯一の一般人(キョン)
キョンの一言がきっかけで、SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)なるものを立ち上げ、つまらない日常を楽しく過ごす活動を始める。『涼宮ハルヒシリーズ』は、彼女の物語であると同時に、彼女が自分の能力を悟らぬよう観察するために集まった、彼女を楽しませ陰ながら奮闘し振り回される超常的存在の人物たちと一般人キョンの物語でもあるのだ。
【画像】涼宮ハルヒシリーズ公式より引用
あくまで筆者の見解だが、この作品の面白さはハルヒが退屈で仕方がない世界を改変できる能力を持ちながら自覚していないことである。そして、思いの外、彼女が常識というものを持ち合わせていることである。事実、未来人、宇宙人、超能力者という存在がいるにも関わらず彼女はそれを打ち明けるキョンの話を信じない。
そう、ハルヒはかなりの変人であり、上級生のみくるをマスコット扱いしたり、バニー姿で団員勧誘をしたり、コンピューター研を脅してPCを強奪するような傍若無人さを発揮するほどのやばい奴なのだが、世界を崩壊させたり、自分の理想で塗り替えることなどはしないのだ。
"『果報は寝て待て。』昔の人は言いました。でも、もうそんな時代じゃないのです。地面を掘り起こしてでも、果報は探し出すものなのです!だから、探しに行きましょう!"
いや、正確にはそれなりに精神的ストレスが生じれば閉鎖空間という最悪の場合現実世界に干渉しかねない危うい空間を発生させることもあるのだが、それは稀であり、キョンたちとの出会いによって彼女は普通の女子高生としての青春を知らず知らずのうちに謳歌していることに気づき始める。
そんなある意味、非常識的存在であるハルヒの哲学は10年後の今でも示唆に富んでいる。
涼宮ハルヒの哲学(引用)
"一番大事なのは、臨機応変に対応することなの。地球の生き物はそうやって進化してきたんだからね!ぼんやりしていたら淘汰されるだけなのよ。"
"質問に答えるのは簡単よ。難易度に合わせて頭を働かせればいいんだからね。レベルが問われるのは質問を作る方なの。"
"あたしはね、自分の目で見たものしか信用しないの。往々にして伝聞情報には余計なノイズが混じっているものなのよ。重要なものは一次情報なわけ。誰かの目や手をとおした二次情報は最初から疑ってかかるべきなの。"
"誰であろうとも自分自身と等価交換できるモノなんかこの世のどこを探しても見つかったりはしないのよ!"
"幸せの基準なんて人それぞれなんだもの。あたしから見て不幸のどん底にいるような人だってその人自身が自分は幸せだって思っているなら幸せなのよ。"
果たして、これは涼宮ハルヒの憂鬱なのか僕たちの憂鬱なのか
彼女は現実を現実的に見つめる思想を持ち合わせていながら、退屈な日々をいかに面白く過ごすかを考えながら体を動かし、短い人生を謳歌するのだ。
そして、何よりも一般人代表だったキョンは自身に問うのである。
「ハルヒとは何なのか。本当にハルヒの行動に嫌悪を感じていたのか。」
否、
「本当に退屈を感じていたのは自分自身で、ハルヒのいる日常が"楽しい"と感じていたのではないか。」
勝手に世界を退屈なものだと捉え憂鬱に感じ、大胆に動くことすらできなくなったキョン(僕ら)こそつまらない存在だったのではないだろうか。
そんな気づきを得るのである。
だからこそいつまでも、ハルヒは僕らにはまぶしいのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?