社畜な僕の天使は君②

ヒョクチェの部屋の前、所在なさげに佇んでいたイドンへは、ほんの少しだけ背丈の高いヒョクチェをちらりと見やると、また下へ目を落としてしまった。


「こ、こんな時間にどうしたの?」


静まれ、俺の心臓。

先程まで頭の中いっぱいに想っていた当人が突然目の前に現れて胸がドキドキする。

これはアルコールが見せている幻覚か?


「シャワーが…」


「しゃ、シャワー!?」


シャワーなんて至極普通の単語だろう!落ち着け俺!自分の頬をビンタしたい。


「あ、じゃなくてお湯が、出なくて…」


「おゆ?」


おゆ?あ、お湯か。


立ち話させてしまっていることにハッと気が付き、散らかってるけど良かったらと部屋へ招き入れふかふかクッションをドンヘにすすめた。

ドンヘはクッションを尻に敷かずにぎゅっと抱えると(かわいい)あぐらをかいて座り少しだけ落ち着いた表情を見せた。

話を要約すると、ガス代を払うのを忘れてしまいガスが止められてしまったようでお湯が出ない、とのことだった。


「はは、なんだそうだったんだ、それはびっくりしたね」


深刻そうな顔してるから何の話かとドキドキしてしまったよ。


「俺も口座引き落としにしてない時何回も止められたよ、水のシャワーって驚く冷たさだよね」


「…うん、びっくりした」


ドンヘはヒョクチェの軽口につられてくれたのか、おだやかな表情を浮かべほんのり微笑んだ。


「そしたらさ、うちでお風呂入って行ったら?」


全く、全く下心なんてかけらも無かったけど、それを伝えた瞬間にドンヘの顔がボンッと赤くなり、それにつられてヒョクチェも顔が真っ赤になってしまった。


「あ!いや、ちがくて!へ、変な意味じゃなくて!」


わたわたと言い訳するも、最悪な言い回しになってしまってることにサァッと頭が冷える。

変な意味ってどんな意味だよ~?!


しかしドンヘはそんなヒョクチェのあわて具合にあははと笑うと、とろりととろけるような笑みを浮かべヒョクチェを見つめた。


「あの、あざっす。めっちゃ助かります」


ヒョクチェはぽかんと口を開け、ほうけたように目の前のドンヘを見つめた。

何だ、今のは。


「そしたら俺、支度してくるんで!」


ドンヘはそう言うが早いか、あっという間に自室へと跳ねるように駆けて戻って行った。

ヒョクチェはパタンとしまる扉の音でようやく意識を取り戻し、閉まった扉を見やった。

心臓が、変になってしまった。

茶化して誤魔化していた感情が、一気に迫ってきているみたいだ。

やめてくれ、勘弁してくれ。

そんな気概は俺にはない。

弱虫なヒョクチェの心はひいひいと弱音を吐き続けるが、心臓は中で子うさぎがぴょんぴょん跳ね回ってるかのようにさわがしく高鳴っていた。




数分してタオルやらなんやらを持ってきたイドンへは、いつもの健やかな大学生然としたまま照れ笑いを浮かべバスルームに入っていった。


どうしよう…どうしよう!


いや何がどうしようなんだ、何をするつもりだ。

ヒョクチェはそわそわと落ち着かないまま、立ったり座ったり自問自答したりと忙しない。

バスルームからシャワーの音が漏れ聞こえ、ただそれを聞いてるだけで動悸が治まらないし胸が詰まったように息が苦しい。

分かりたくなかった感情が胸に迫る。


そうこうしているうちに、バタンとバスルームの扉が開く音が聞こえる。

ヒョクチェはビクッと跳ねると、冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、そのまま口を付けごくごくと喉へ流し込んだ。


落ち着け~俺~!!


ガチャッ


「すいません、上がりました!」


声に思わず振り返ると、まだ髪から雫をぽたぽたと垂らしたままのドンヘが、頬を蒸気させほかほかと立っていた。


グッッッ!!


落ち着け落ち着け落ち着け。

呪詛のように口の中で呟き冷蔵庫に額を押し付け、たっぷり10秒待ってからドンヘへと振り向いた。

ドンヘは髪をタオルでごしごしっと擦りながらキョトンとした表情でヒョクチェを見つめていた。


「な、なんか飲みますか?」


ドンヘはパッと顔を明るくすると、うんと微笑み、てとてととヒョクチェの傍に(冷蔵庫の傍に)近づいてきた。


待って待って待って!!


「えっと…」


冷蔵庫を開けて中を眺めたドンヘは中をぐるりと見回すと、ケタケタと楽しそうにお腹を抱えた。


「待って、酒しかない笑」


エッと思い冷蔵庫を見ると、ご指摘通り並んでいるのはビールと焼酎とキムチのみ。


「あ、ご、ごめん…」


「じゃあ水もらっていいっすか?」


ドンヘは楽しそうに目を細めながら、ペットボトルの水に手を伸ばした。

水…あ!口!


「あ!そ、それは!」


ペットボトルに伸ばす手を思わず握り、勢いあまり息が触れるほどの近くまで顔が近づいてしまった。


ひぇっ!!!


離れないと!と思うヒョクチェが握っているドンヘの手がぎゅっと握り返され、もはや泣きそうだ。何で握る?


「だめ、すか?」


間近で見るドンヘは、もう、直視できない。

しっとりとしたまつ毛が彼の瞳をくるりと覆い、二重の幅が本当とは思えないほどくっきりと美しい。


「それ、口付けちゃった、から」


さっき水を飲んだのに口の中がカラカラに乾いていく。

繋がっている手がすごく熱い。

離してほしい。


「間接キス、てやつですか?それなら」


唇にふにんと柔らかい感触がふれる。

驚きのあまり目をつむる暇など無く、そしてイドンへはキスする時に目を瞑らないんだなと、心のメモ帳に記録した。

至近距離で見るイドンへの瞳は薄くまとった涙の膜がキラキラと光を反射し恐ろしい程に美しかった。

唇が離れる瞬間にむちっと音がなり、その拍子に唾液がつぅっと唇のふちを通りつたっていった。


「…実際にキスしたら、間接キスとか、平気じゃないっすか?」


彼は少し困ったような顔で微笑むと、名残惜しそうにヒョクチェの唇をもう一度吸い、去り際にペロリと唇を舌で撫でた。


「明日も風呂、いいすか?」


ヒョクチェは壊れたおもちゃのように首をガクンガクンと振った。

イイデスイイデス。

ドンヘはそんなヒョクチェをぎゅっとハグし、首にそっと唇を寄せると、


「また来ます」


そっとそう囁き、自室へと帰って行った。

ヒョクチェの魂は抜けた。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?