#219 家族という支配

昨日は休日だったので、家でのんびりと映画を見て過ごしていた。私は映画を見るときは、よほど重い内容や長いものでない限り、数作立て続けに見ることが多い。

昨日見たラインナップは以下の通りだ。
『ボーは恐れている』
『場所はいつも旅先だった』
『Volimo(短編)』

特に印象に残った『ボーは恐れている』について書いていこうと思う。

※ストーリーに関する重大なネタバレが含まれています。鑑賞予定の方はご注意ください。

アリ・アスター監督作品は『ヘレディタリー』『ミッドサマー』を既に鑑賞済みなのだが、この人にとっての恐怖は「家族」なのだという、その根幹に迫る作品だと感じられるものだった。

というより、いわゆる世間一般的に言われる「毒親」の解像度が異常に高いので、この人の生い立ちがやや心配になるくらいだった。

私は基本的に「毒親」という言葉があまり好きではない。いや、好きではないというより表現したいものに対して適していないと言うべきかもしれない。

一口に「毒親」と言っても、その親の行為や言動の何が毒かは大きく異なってくるからだ。親が身体的な暴力で子どもを支配することで、自分ではどうにもできない課題を暴力によって解決しようとする子どもになってしまうことと、ネグレクトにより人格形成や愛情受容に著しい欠損を生むことと、極端な行動制限や支配により自己決定能力や自己肯定感が失われるのは、すべて違う問題だ。

しかし、現時点では適した表現がないため、今回は子どもに対して異常なほどの支配欲を発揮する親について「毒親」と呼ばせてもらう。

作中、主人公ボーの母親は誰が見てもこの類の毒親であった。というより、元来持っていた強い支配欲が莫大な経済的成功によりコントロールできていない……いくところまでいってしまっている人物だと感じられた。

彼女は、もう中年も終わりに差し掛かった年齢のボーにいつまでも依存し、彼の自立を許していないことが作中随所で見受けられる。

まず、ボーが何の仕事をしているのかが一切描かれていない。というより、仕事をしている気配すらない。親子の会話やセラピストとの会話の中でも、仕事による自己実現に関する言及が一切なく、彼に生きがいがないことが見える。これは仕事に限った話ではなく、何かしらの報酬を得て、自分が好きなものを買ったり、食べたりしている様子や、趣味を楽しむ様子もないのだ。

唯一、自分で買い物をするシーンと一人で夕飯を食べるシーンがあるが、買い物は今度会う母のためのプレゼントで、あの実家にやたら威圧的なモニュメントとして置かれた聖母子像とそっくりなものであることから、自分の意思で良いと思って買ったというより、母のご機嫌を伺うためのものだという意味合いが強い。続く夕食では、映画の後半で明らかになる母の経営する会社の商品であるTVディナーだけが冷蔵庫に入っており、自分の好物や楽しみのための嗜好品的食品が一切ないことも異常さを際立たせている。

彼は自分の意思により何かを選んだり、実現する喜びを徹底的なまでに排除されているのだ。本来、まともな親なら子どもの成長を喜び、出来ることが増えていくことや、何かしら社会的な成功や役割を得ることを望むことが多いのだが、彼女は真逆でボーにいつまでも無力で、非力で、母がいなければ生きていけない子どもであり続けることを望んでいるのだ。

そう考えると、あの劣悪すぎるアパートの周辺環境にも納得がいく。ボーのように、何かしらの発達障害(作中で描かれる症状がすべて軽度な自閉症の典型症例であることと、母の企業で自閉症の治療薬の開発をしていたことを示すポスターから、これは明白だろう)を持つ人間が住むには、適していないにも程がある。

しかし、母はあそこに建てたアパートにボーを住まわせている。どんなに健康的な人間でも、病んでしまいそうな場所なのにだ。ましてや、そもそも外的な刺激に著しく弱く、強迫観念が強いボーが住むべき場所ではないし、まともな判断力があればとっとと引っ越すはずなのだ。でも、それができない。

何故なら、母元を離れる決断をした段階で大きな罪悪感を植えつけられており、ましてや自分で住む場所を決められずに指定された場所に住まわせてもらっている以上、そこから動くことができない。ましてや、経済的にも面倒を見られているとなると、何もできなくなる。

となれば、あの劣悪な環境下で母親の期待することというのは、家を出て行った自分をいつまでも自責することと、外の世界が恐ろしいことを植えつけて徹底的に自由意志を削ぐことなのだろう。毒親にとって、子どもの意思や選択、そして自分の知り得ない子どもの状況や事情は、すべて存在しないことと同じなのだ。

支配欲の強い毒親は、こうして少しずつ子どもの足の腱を切り刻み、動けなくすることで子どもを子どものまま、家庭という箱庭の中で支配し続けることを望む。

そう考えると、作中で公的な施設や機関が出てこないのも納得だ。学校や病院、スーパーマーケットやチェーン店が描かれていないのは、ボーの活動する圏内すべてが母親の支配下に置かれている象徴かもしれない。唯一、個人経営のコンビニで水を買うシーンはあるけれど、それもあのアパート一帯が母の所有物だと考えると、公的なものではないのだろう。

おそらく、作中の途中で出会うロジャー一家や、自然派の演劇集団も、母の所有する箱庭の中の一つでしかないのかもしれない。毒親に金を持たせるべきではないとよく分かる。

こうした異常な支配の中で繰り広げられるボーの冒険は、まるで不思議の国のアリスのように見えた。というより、実際意識してそう描いている気がする。

誰も彼もが子どもの愛情不足を責め立てる世界を構築した果てに、母が望む最大の支配は、子どもの命すら自分の意のままにすることだ。これをイカれた世界と呼ばずに何と呼ぶ。

私もかつては母との折り合いが似たような状況で悪かった時期があるが、早いうちに強行突破して良かったと心から思う。おかげで、弟の自立もスムーズにいったのだから、先陣を切った甲斐があるというものだ。

そういうこともあって、あの作品が妙に心に残ったのだろうな……

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