#193 放置希望

小さい頃、私は砂浜に足をつけるのが苦手な子どもだった。

夏休みに家族が海に連れて行っても、砂浜を歩いてサンダルの中に砂が入る感触がイヤで、何度も親が「行こうよ」と言っても「私はいいの」と遠慮し、行こうとはしなかったらしい。

別に砂浜に限った話ではなく、未体験のものに対してはどんなものでも強い拒否感を示していたらしい。食べたことのない食べ物、知らないおもちゃ、初めて訪れる場所、初めて会う大人……それが今や一人で行ったこともない海外にもフラッと行くような大人になるんだから、不思議なものである。

ただ、この根幹にあるものは変わらないのだ。

別に周りがそれを楽しむのは構わないけれど、そこに私もいなければならない理由はないと思っている。面白そうだと思えば近づくが、あまりそそられなければ行こうとはしない。

しかし、得てして私の周りにいる人というのはそういうことを許さない人が多かった。

チームワークや輪を乱すような行動というわけではなく、Aをやってもいいし、Bをやってもいいという場において、大半がAを選んだ中で私だけがBを選んでいると「そんなものより、Aの方が楽しいから来い」と言ってくる。
大きなお世話だ。

別にBを選んだことで、Aを楽しむ人たちの邪魔をするわけでないのだから、ただ私は一人でBの世界に浸っていたいだけなのだ。

しかし多数派の人間は、多数派であることに正しさと紛れもない楽しさがあると信じて疑わないので「Aに参加しないあの子は可哀想だ!」と勝手な主張で私を無理やり引き込もうとする。
まるでBを選ぶのは異常であるかのように。

家族や恋人など、とかく心の距離が近くなる人であればあるほどその傾向が著しく強く「自分はこれがいいと思うから、あの子にとってもいいはず!」という主張から、それを押し付けられ、せっかく見つけた宝物を手からはたき落とされてきた。

だから、あの時の私は「私はいいの」と言っていたのだろう。

遠慮ではなく、ただ放っておいてほしいのだ。あなたの目に私がどう映っているかは知らないけれど、私は十分楽しいんです。だから、私のことは気にせずに、そっちで楽しんでいてください。といった具合に。

どこに行っても、自分にとって心動かされるものに惹かれて、誰と一緒にならなくても平気な人というのは、そんなに見ていて不安になるのだろうか?

誰かと一緒でないことは、本当に不幸なことなのだろうか?

どうして、誰かや社会と同じじゃないことが、不幸である証拠になるのだろうか?

別に人と関わるのが嫌いなのではなく、心動かされる素敵な人なら、いつまででも一緒にいたいとすら思うのに、そういう人ですら私の生き方や趣向に、何の権限があってか知らないがダメ出ししてくるから落ち込む。
別に、公許良俗に反したものを好んでいるわけでも、そういう生き方をしているわけではないのに……

だからいっそ放っておいてほしい。
安心してください。

私は今、とても幸せで毎日楽しいんです。
あなたの知らない、素敵なものに囲まれて生きています。

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